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トロプリ秋映画感想:「不条理」に抗するために--「再生」と「継承」

はじめに

 ネタばれ注意。

 プリキュアは女児アニメでありながら、時に「不条理」ともいえる展開がキャラクターを襲い掛かることがあります。たとえば、ハピネスチャージプリキュアの秋映画におけるつむぎちゃん。何よりも踊ることが好きな彼女は、ある日突然「未知の病」により足が動かなくなります。

 ここでは「病」が「不条理」としてつむぎちゃんを襲うのですが、「病」が「不条理」たる所以はなんでしょうか。それが「治らない」からでしょうか。それが「足を動かなくする」からでしょうか。たぶんどちらも違います。「なぜ私なのか」。この感覚こそが、この「受け入れ不可能性」こそが、「病」を「不条理」なものとする中心的な要素であるように思われます。

 そして、「不条理」が「受け入れ不可能」である所以は、「過去との断絶性」にように思われます。自分の過去をどれだけ点検しても、「現在の不条理」に結びつく理由が見つからない。これが「過去との断絶性」です。「不条理」は過去と現在を切り離し、方向感覚を失わせる。だからこそ、「受け入れ不可能な」ものとして立ち現れるのではないでしょうか。

 さて、「トロピカルージュ! プリキュア」(以下、トロプリ)の秋映画もこうした「不条理」に翻弄されたキャラクター(シャロン)による物語でした。一方で、シャロンは「不条理」に翻弄されながらも、「不条理」を乗り越えることができました。

 果たして、彼女は如何にして「不条理」を乗り越えたのでしょうか。そういった話をしたいと思います。

不条理に抗するために--「再生」

 シャロンの不条理とは何だったでしょうか。それは隕石の落下によるシャンティアの滅亡です。つまり、「シャンティア亡き世界」が彼女にとっての「不条理」でした。

 隕石が落下したのは戴冠式の直前でした。シャロンはこれから女王様として国を統べ、「幸せの国」を作ろうとしていたところでした。そんな時に隕石が落ちてくるのです。「なぜシャンティアなのか」、「なぜいま」なのか。こんな思いが彼女に湧き上がってもおかしくありません。そして、誰もそれには答えてくれません。

 シェルターから出てきたシャロンの目の前に広がるのは「絶望」を具現化したような光景です。圧倒的な「絶望」を前にして、彼女はあまりにも無力でした。行き倒れた彼女は雪の中に飲み込まれます。

 その後、彼女は摩訶不思議な力によってふたたび目を覚ますわけです。そして、シャンティアを再建しようとします。「シャンティア亡き世界」はシャロンにとって「受け入れ不可能」なものだったのです。トロプリやハトキャの面々が招待されたのも、シャロンが「国民」を集めようとしたものであり、「シャンティア再建計画」の一端です。

 さて、私たちが「不条理」によって何かを奪われたとき、対処方法は大きく二つあるように思われます。一つは奪われたものを取り戻したり、作り直したりすること。「再生」と呼ぶことができるでしょう。シャロンがしようとしていたことも、「不条理」によって奪われたシャンティアを「再生」しようとしたものに他なりません。彼女は「シャンティア亡き世界」を「シャンティアが存続する世界」にしようとしたのです。

 しかし、「再生」という方法は直接的ではあるものの、あまり有効ではありません。だってそうでしょう。あんな方法で「国民」をかき集めた国を「シャンティア」と呼べるんでしょうか。それは「滅亡以前のシャンティア」と同じ「シャンティア」なのでしょうか。私にはそうは思えません。そんな方法で再生したシャンティアはシャンティアに似て非なるもののように思えてなりません。世界は厳然として「シャンティア亡き世界」なのです。

 それでは、シャロンは「不条理」に打ちのめされるほかはないのでしょうか。「シャンティア亡き世界」に絶望するほかはないのでしょうか。そんなこともありません。「不条理」に抗するための方法には二つあるといったように、「再生」以外の方途があるのです。

 それは何か。「不条理が不条理たる所以」はその「受け入れ不可能性」にある、と冒頭で述べました。であれば、不条理を「受け入れることができるもの」にすればよいのです。シャロンに引き付けて言うならば、彼女が「シャンティア亡き世界」を受け入れることができればよいのです。

不条理に抗するために--「継承」

 冒頭で、不条理が不条理たる所以は「過去との断絶性」にある、と指摘しました。これは、言い換えると「不条理」は「生の連続性」を損なうものとして立ち現れる、ということです。「不条理」は主観的な時間軸を断ち切り、生の方向感覚を喪失させるものなのです。

 しかし、「不条理」が断ち切ることができるのは「過去と現在」の連続性です。「不条理」によって断ち切られた主観的な時間軸を、「不条理を起点として再び延伸すること」は依然として可能です。言い換えると、「不条理が起きた後の未来」を思い描くことは可能です。スイートプリキュアが果敢に示したように、「不条理を乗り越えた未来」を目指すことは可能なのです。

 つまり、不条理に抗するためのもう一つの方法とは、未来を志向するものです(「再生」が「過去への回帰」を志向するものであるのと対照的です)。

 「しかし、そうはいってもシャンティアはもうなくなってしまったではないか。未来を志向する主体そのものがなくなってしまったじゃないか」という声があるかもしれません。それはその通りです。しかし、いまここにシャンティアはなくとも、かつてここにシャンティアがあったことを伝えることはできます。つまり、「シャンティアがあった証」を伝えることはできます。これは「シャンティア<的>なもの」を「継承」することを意味しています。

 さて、それでは何を「継承」したら「シャンティア亡き世界」はシャロンにとって受け入れ可能なものになるのでしょうか。何を「継承」すればシャロンは「シャンティア亡き世界でもシャンティアがあった証が残る」と感じることができるでしょうか。

 作中で描かれたのは広い意味での「シャンティア文化」でした。「文化」とは有形物と無形物の総体のことです。有形物として「花」が、無形物として「歌」が「継承」されました(別に「花」や「歌」である必要はありません。「樹木」と「踊り」でも良いのです)。作中で何て言われたかは覚えていませんが、日本における「桜」のように、きっとスノードロップはシャンティアを象徴する「花」であり、あの歌はシャンティアで歌い継がれたものでした。その意味で、「花」と「歌」は「シャンティアが存在していた証」として適格です。

(追記:作中ではスノードロップがシャンティアを象徴している、ということを示唆するような言動はなかったようです。が、まぁ、作中の、描写の感じが、まぁ、そりゃ引っ張られるというか、まぁ、ねぇ(モゴモゴ)見習いの見習いたる所以ということでここは一つ。以下の記述でも「花」についてはペンディング要です。)

 トロプリの面々が歌を歌い継ぎ、つぼみがスノードロップが世界中で咲き誇っていることを伝えたとき、シャロンは「シャンティアが存在していた証」を後世に残すことができた、と思うことができたのではないでしょうか(これは、「名を残したい」といった欲望ではなく、よりプリミティブな「喜び」としての感覚です)。

 シャロンは、「花」と「歌」を後世に「継承」することができると知ったとき、「不条理が起きた後の未来」を受け入れることができたのではないでしょうか。これはつまり、「不条理」によって切断された彼女の「生」が、「シャンティア<的>なものが残り続ける未来」--「不条理を起点として延伸した未来」--へと接続されたということです。

(補足:現代の人びとが「花」や「歌」を「シャンティア<的>なもの」と感じているかどうかはあまり重要ではありません。なぜならば、シャロンにとって重要なのは現代の人びとの認知ではなく、「花」や「歌」が後世にも残るということ自体であったように思われるからです。)

 「不条理」が起きた過去を変えることはできません。過去に戻ることもできません。しかし、「不条理が起きた後の未来」を思い描くことは可能です。そして、そうした未来を受け入れることができたならば、それは「不条理そのもの」をも(間接的にではあるが)受け入れたと言っていいのではないでしょうか。

 スノードロップの花言葉は「希望」や「慰め」。一方、イギリスの農村地帯の一部では、スノードロップは「死」を象徴しているようです。「死を慰めて希望を与える」。そんな映画ととらえることができるかもしれません。「不条理」に襲われてもなお生の充溢を再び獲得するための物語。私にとってトロプリ秋映画はそんな作品でした。

ラフな雑感

 ハトキャとの共演。なかなか愉快な箇所もあったが、まなつの影が薄くなってしまったというのは明確なマイナスシナジーであるように思われます。すなわち、ローラとえりかの対立の尺をまなつの動きに使えていたのではないか、ということ。(みのりんの地下牢発言や、歌詞なんで知ってるの問題よりもこっちのほうが大きな瑕疵だったのでは)

 シャロンについて。実はシャロン描写はかなり欠けていたのではないかと思う。結局シャロンについて与えられているのがクロニクルなできごとや、彼女の考えに留まっており、「彼女にとってシャンティアがいかにたいせつなものなのか」というのが追体験可能なレベルでは描かれていなかったように思われます。「王女ならまぁそう思うよね」という一般常識的な範疇でしか彼女のことが分からなかったというのは残念。

 オープニングのあすか先輩。とても良い。かつて「仲間なんていらない」といっていたとは思えない。みのりんが来たと思ったら本を開いてしまうのもこれまた良し。みのりん先輩のワンピースかわいかったですよね。

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