オリンピック開会式の所感

はじめに

 東京オリンピックに関してはその開催の是非や、様々な不祥事が取り沙汰されており、SNSでは活発な議論が行われている。しかし、なにはともあれ 2021年7月23日、東京オリンピック開会式が執り行われた。

 本稿はオリンピック開会式に対する筆者所感を記した備忘録である。

 あらかじめオリンピックに対する筆者の立場を表明しておくと、筆者はそれほど強い反対派ではなく、「え~大丈夫なの~?」くらいのものである。

 また、オリンピック開催地が決定されたとき、たまたまイスタンブール(最終候補地として残った都市の1つ)におり、ロゲ会長の「トキョ」をトルコ人とともにイスタンブールのパブリックビューイングで観た。そのため、「思い入れ」のようなものは他の人よりも強いと言えるかもしれない。

 その中でも特に楽しみにしていたのは開会式である。日本が世界に対してどのような国として自分自身を紹介するのかという点に注目していた。

 しかし、それはあっけなく裏切られたというのが今の感想である。

 ゆえに、以下の記述はかなり否定的なスタンスであり、「ゴン攻め」ているものであることを了承していただきたい。また、備忘録という性質上、前後の脈絡のない記述も散見されると思うが、お許し頂きたい。

※なお、本稿執筆にあたち、オリンピック憲章などは参照していない。ゆえに、筆者がオリンピック開会式に期待するものは「ぼくのかんがえたさいきょうの開会式」の域を出ない。

過去3大会オリンピック開会式では何が描かれたのか

 筆者がある程度記憶しているオリンピック開会式は「北京」、「ロンドン」、「リオ」の3大会である。各々の開会式はその「ショー」としてのクオリティもさることながら、「自国の歴史」や「アイデンティティ」のようなものが披露されており、非常に見応えのあるものであった。

 たとえば、ロンドンオリンピックではかなり早い段階で「エンクロージャー」や「産業革命」が描かれた。特に、「産業革命」を描いたパートはどこか暗く、「ジン横丁」の雰囲気が伝わってくるものであった。「パックス・ブリタニカ」という栄光の背景にある「産業革命」を単に輝かしいものとして描かないバランス感覚は秀逸である。

 また、リオオリンピックでは、原住民や日系移民をモチーフとしたパートがあった。こうしたパートは歴史を参照しながら「ブラジル」という国を再構成しているかのようであった。

 こうした過去大会を踏まえ、筆者は、オリンピック開会式のテーマの1つには「私たちはどのような歴史を歩んだ国なのか」、ひいては「私たちは何者なのか」という点があるのではないか、と考えている。

東京オリンピック開会式に現われた「鵺」

 翻って東京オリンピック開会式を振り返ると、こうした「歴史性」や「アイデンティティ」といった要素は大いに欠落していたように思われる。

 いや、厳密に言えば、「江戸時代の大工」、「ゲーム音楽」、「漫画」、「歌舞伎」など、要所要所に「日本の伝統」や「クールジャパン」を感じさせる要素は散りばめられていた。

 しかし、これらの要素は散発的に扱われ、「5つの輪を作る」、「選手が入場する」といった行程のための「演出」の域を出ていなかったのではないだろうか。少なくとも、「線としての日本の歴史」や「日本という国の統一的イメージ」を描くための要素にはなっていなかったように思われる。

 また、「江戸時代の大工」や「歌舞伎」と組み合わされたタップダンスやジャズピアノもいまいち食い合わせが良くなかったのではないか、というのが筆者の感想である。

 もちろん、ダンサーやピアニストは個人としては世界に名を馳せており、そのパフォーマンスのクオリティを云々したいわけではない。話はもっと単純で、「歌舞伎」とジャズピアノの組み合わせにはシナジー効果があるのか、というものであり、なかったのではないか、というのが筆者の見立てである。

 こうした一連の演出には「海外から見たときの『分かりやすい』日本」が通底していたように思われる。もちろん、「分かりやすい」ことは悪いことではない。しかし、「エキゾティズム」と「サブカル」と「世界的アーティスト」を無節操に組み合わせた結果、「日本」としての統一感を確保できなかったのではないだろうか。開会式で結実したのは、さながら「鵺」のような「日本」だったように思われる。

 まとめると、東京オリンピック開会式には「歴史性」が欠落しており、その「歴史性」を背景に生じる「アイデンティティ」も不発に終わったというのが筆者の評価である。

 次に、「歴史性」や「アイデンティティ」の欠落が「思想性」の欠落を帰結しているのではないか、という話をしよう。

抽象的な多様性

 オリンピックは「平和の祭典」である。ここで注意しなければならないのは「平和」を脅かすのは「戦争」だけではないということだ。「環境問題」や「疾病」、「差別」、「排除」、その全てが「平和」を脅かす。

 リオオリンピックが「環境問題」を取り扱い、北京オリンピックが「少数民族(=多様性の包摂)」を扱ったのも、それが世界的にアクチュアルな問題であり、「平和」を達成するためには乗り越えなければならない問題だからであろう。(付言すると、選手村でのコンドームの配布はHIV予防のプロモーションという意味合いがあるのではないだろうか。詳しい人、教えて下さい)

 何を差し置いても、現在、世界的にアクチュアルな問題は「コロナ」であり、それはアスリートに襲いかかる悲劇として描かれていた。また、医療従事者が聖火ランナーに抜擢されるなど、「コロナ」に焦点を当てていたシークエンスが見られた。

 一方、「多様性」をモチーフとした演出も散見された。レインボードレスを着たMISIAや、エンブレム(市松模様を構成する大小の図形は思想や文化の多様性を示しているらしい)がそれにあたる。しかし、「コロナ」を巡る演出が選手の苦悩という比較的具体的な形であったのに対して、「多様性」を巡る演出はかなり抽象的なレベルに留まっていたという点は見逃すことはできないだろう。

 多様性を巡る演出が抽象的であったとはどういうことか。つまり、レインボーという「色」や市松模様を構成する大小の「図形」という形でしか「多様性」が示されなかったということだ。「何が多様なのか」という、多様性の具体的位相が不明確なまま、「多様性」を巡る演出が行われた。

 こうした「抽象的な多様性」を巡る問題は、先に述べた「歴史性」や「アイデンティティ」の欠落と無関係ではないように思われる。少し歴史を紐解けば、アイヌや琉球の人びとの存在に気づくはずだ。そして、アイヌや琉球を踏まえることで、「単一民族国家」という「アイデンティティ」を再検討し、「色」や「図形」に頼らない、具体的な「多様性」を描くことができたのではないだろうか。

※無論、「多様性を描くために少数民族をダシに使うな」という批判もあり得るし、重要な指摘である。

 つまり、「多様性」を巡る演出が高度に抽象的になってしまったのは、「歴史性」や「アイデンティティ」に対する省察がなかったからではないか、ということだ。

※余談だが、筆者はバッハ会長が難民選手団に言及した場面が印象的であった。2019年の難民認定率が0.4%で、クルド人難民に対して入管職員が「他の国行ってよ」と言う(『東京クルド』の一場面)この国で、難民の人びとに言及することは重要な意味がある。

おわりに

 繰り返しになるが、東京オリンピック開会式に対しては「失望した」というのが筆者の評価である。ピクトグラムがサムいとか、なだぎ武がよくわからんとか、不祥事がどうこうとか、そういう話ではない。

 私たちが何者であり、どう生きていくのか。「歴史」と「アイデンティティ」、「思想」といった要素が絶望的に欠落した点に失望しているのである。

 およそ「思想」とは血肉となった歴史を踏まえ、呻吟の果てに生み出されるものだと思われるが、「歴史性」なき開会式に「思想性」を見出すことは困難であった。「無歴史」と「無思想」の開会式であった。

 本稿で記述した点以外にも、「ゲーム音楽の利用と政治性」や「関係者の辞任とキャンセルカルチャー」といった論点もあり、その全てを論じ尽くすことはできなかった。この点についてはまたどこかで機会があれば話したいと思う。

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