四十七士の歩いた道

2005年12月7日


宮部みゆきには先を越されましたが、師走の半日、ふと思い立って本所松坂町から高輪泉岳寺まで、四十七士の歩いた道をお徒歩(かち)してみようと考えました。
ところが寄り道の連続で日が傾き、永代橋にて日没断念。
捲土重来を期します。

時は元禄十五年十二月十四日…。
で始まるこの事件も、日本人好みの義に殉ずる復讐譚が、「忠臣蔵」として師走になると様々に喧伝される。
義士祭もこの12月14日に合わせて行われる。
だがちょっとおかしくはないか。
これは旧暦の事件だった。
それをグレゴリオ暦を基にした太陽暦にそのまま当てはめて平然としている。
今の暦のまま三百年前にタイムスリップしてごらんなさい。
まだ討ち入りなんて起こってないんですよ。
吉良さんも枕を高くして寝ているんですよ。
正解は1月の末。
もっともそんなことを気にするのは私だけのようで、12月の声を聞くと、誰もがごく自然に「忠臣蔵」を受け入れる。
第九と一緒で、師走のお約束として定着してしまっている。
まあ、固いことを言っても仕方ないよね。
旧正月を祝う風習も、すでに地域限定になってしまったのだから…。

考証により、四十七士が歩いた道はわかっているが、ただ忠実にその後をなぞっても面白くない。
すでに数多くの人たちが正確に歩いているのだろう。
チェックしたことはないが、その手のサイトも沢山あるに違いない。

深川高橋(たかばし)の「伊せ㐂」で丸鍋をつついた。
(割いて骨を取ったものはヌキといいます)
俳句では泥鰌鍋は夏の季語だが、ネギをたっぷり載せた鍋は冬にこそ美味しいと思う。
慣れ親しんでいる割下のせいか、駒形よりもこちらの味が好きだ。
ぐつぐつ煮える泥鰌たちは美味しかった。
泥鰌に生まれなくて本当に良かったと、しみじみ安堵しながら完食した。
田圃から泥鰌が消えてニッポニア・ニッポンは滅びたけれど、人間はしぶとくたくましく生きているのだ。

腹が満たされたところで萬年橋を渡る。
四十七士は吉良の首級と共にこの橋を渡っている。
芭蕉庵も橋のすぐ横にあった。
奥に見えるビルは、地図でお馴染みの昭文社。

清澄庭園に寄った。
17世紀に紀文(紀伊国屋文左衛門)が造営したと伝えられている。
明治時代に三菱財閥の創始者岩崎弥太郎が買い取り、現在の回遊式庭園が完成したらしい。
子供の頃、無断で塀を乗り越えて、よくセミ捕りをしていた。
20歳の時は、きれいなお姉さんとデートした。
可憐な少女も、何がどうしてどうなったか、可哀想に今は私の妻になっている。

清澄通りと清洲橋通りの交差点(清澄白河)近くに、同潤会アパートがある。
以前は少し東に歩くと、三つ目通りの交差点角にもう一棟あった。
そちらは日比谷公会堂檀上で刺殺された、元社会党委員長の浅沼稲次郎が住んでいたと聞いたことがある。
真偽はわからないが、江戸川乱歩も一時期居住していたと聞いた。

原宿の同潤会は消えたが、下町ではまだまだ立派な威容を誇っている。
子供の頃は立ち入るのも怖いほど薄暗く、「おばけ屋敷」と呼んでいたが、現在は人気の物件で、入居も困難らしい。
この裏が広い空き地で、よく草野球をして遊んだものだった。

深川江戸資料館は楽しい。
かつてここは江東区役所だった。
館内には江戸の下町を再現したミュージアムがあり、時間を忘れる。
両国の江戸東京博物館ほど大袈裟でないのも好感が持てる。
入館料も安い。
ただし外へ出ると「深川めし」を食べさせる店が数軒あり、こちらは訳も分からずべらぼうに高い。
ねこまんまが、どうしてこんなに高いのだろう。
金額は言わないが、下町でこんな価格設定をしてはいけない。
最近の月島の「もんじゃ」も然り。

通りに出ると和風の造りに「商い中」の文字と縄のれん。
甘味処かと覗くと、何とそこには便器が!
んじゃついでにと、ファスナー下ろそうとしたらもう下りていた。
この姿で堂々と町を歩いてたのね。
人間って何だか哀しい。

そしてコースは外れたまま門前仲町へ。
門前仲町を、「もんなか」と言うようになったのはいつ頃からだろう。
最近は誰もが、「もんなか」と、さも洒落た感覚のつもりで使っている。
地元の人たちも自ら、「もんなか」と言ってはばからない。
地元連中は一体何に迎合しているのか。
それとも他から移り住んで来ていながら、
『こちとらずーっとここに住んでるんでい!』
と堂々と言い放つ人たちが使い始めたのか。
昔から、門前仲町を略すときは必ず、「なかちょう」だった。
「もんなか」などと言う人がいれば古老たちは、
『だっせえなぁ』
『あいつぁ田舎もんだな』
『粋じゃねえなぁ』
と嘆いていた。
今じゃ、「なかちょう」と言う方がだっせえのだろう。

すっかり日が暮れたので、この日のゴールを永代橋に決めた。
元禄の頃の橋は現在よりやや上流にあったという。
架橋されたのが元禄十一年なので、浪士たちはその4年後に渡ったことになる。
時代は百年下って今から二百年前。
深川富岡八幡宮の祭礼に詰めかけた群衆の重みで、橋が倒壊落下した。
その時の死者は1,500人を越えたという。

永代と架けたる橋は落ちにけり今日は祭礼明日は葬礼

の、有名な狂歌が残っている。

終戦後、数年経って橋の再塗装をすることになった。
その橋脚部分からミイラ化した男性の遺体が発見された。
徴兵逃れで行方不明の男だったらしい。
(これは親から聞いた話)

ちょっとした下町散歩になった。

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