本所松坂町の真実

2007年12月14日



今日は赤穂浪士討ち入りの日。
人口に膾炙されている忠臣蔵の内容に若干の反発や違和感を覚えるのは、持って生まれた私のヘソ曲がりの性。
「忠臣蔵」と書くから頭が混乱する。
なぜ混乱するか、少しだけその理由を書いてみたい。

この場所に立つたびに違和感を覚えるのは、赤穂浪士を「義士」や「忠臣」と持ち上げていて、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」や、映画・テレビドラマなどの影響が色濃く反映されているからだ。
吉良邸のあった場所の一画を公園として整備したのは地元町会の方々らしい。
普通ならば、地元に所縁ある人はその土地の誇りだったりするものだろう。
名誉町民とまではいわないが、吉良上野介を称えるのが自然ではないか。
100歩譲って、
「この場所は赤穂浪士四十七人が討ち入った吉良邸の跡です」
程度の表記が妥当ではないか。
かつてここに存在した吉良邸を、地元の方々がどう捉えているかがわかる。
やはり吉良は悪者にされているのだ。

なぜ吉良が本所松坂町で悪者になったのか。
討ち入りとはいえ、なぜこの場所に2時間だけしか留まっていない赤穂浪士が英雄になったのか。
その答えは簡単だ。
案内板には昭和九年とあるので、時代背景を思うと、それは当然のことだった。
戦前の国定教科書には元禄の赤穂事件が以下のように載っている。


元禄年間ニ最モ名高キ事蹟ハ赤穂浪士ノ仇討ナリ。播州赤穂ノ城主浅野内匠頭長矩殿中大勢ノ前ニテ吉良上野介義央に辱メラレ、怒リニ堪ヘズシテ義央ヲ切リ付ケケリ。内匠頭ハ死ヲ賜ハリテ城地ハ没収セラレ、上野介ハ創癒エテ職ニ復シキ。赤穂ノ臣大石内蔵助良雄等主人ノ恨ミヲ晴ラサントテ、浪人中種種ノ辛苦ヲ忍ビテ吉良氏ノ隙ヲ伺ヒ、遂ニ元禄十四年十二月十四日ノ夜、同志ノ者四十七人、風雪ト共ニ吉良氏ヲ攻メテ義央ヲ斬リ、ツイデ良雄等皆自殺ス。演劇忠臣蔵ニハ其ノ本名ヲ憚リ、大石内蔵助ヲ大星由良之助トシ、其ノ外塩谷高定、高師直等名ヲ仮リ用ヒタリ。


竹田出雲、三好松洛、並木千柳合作の浄瑠璃が歌舞伎化された仮名手本忠臣蔵は、徳川幕府の権勢を憚って、時代設定を南北朝にしている。
高武蔵守師直(吉良上野介)が塩谷判官高定(浅野長矩)正室の顔世御前(瑤泉院)に横恋慕。
これを長矩が撥ねつけたことから、物語は松の廊下の名場面へと進行する。
さまざまな外伝も含め、「忠臣蔵」は良くできた話である。
では実際はどうだろう。
フィクションより史実に関心が向かう私は考える。

松の廊下で刃傷に及んだ内匠頭を取り押さえた梶川与惣兵衛はその筆記で、
「この間の遺恨覚えたか」
と、内匠頭が叫びながら突然吉良に脇差を振るったことを記している。
殿中で鯉口三寸でも抜けば切腹、御家断絶は当然のこと。
墨絵屏風、精進料理、増上寺の畳替え、略礼装の長裃、賄賂要求、塩田、内匠頭の精神疾患、柳沢吉保への反感などが挙げられている。

しかし中世辺りから比べてはるかに文献が多い江戸時代にも関わらず、「遺恨」の原因は現在も不明だし研究も止まっている。
だから誰もが知っているこれらの理由は、すべて後に脚色されたものでしかない。
朝廷の勅使饗応の大役を任じられた身でありながら、そのハレの日の殿中での刃傷沙汰は職務放棄であり、万死に値する。
一方の吉良は抜刀や抵抗などは一切せず、完全な被害者である。
吉良60歳、内匠頭35歳、そこには親子ほども歳の差がある。
それにしても内匠頭の所業はあまりにも短慮に過ぎた。
鎌倉幕府の御成敗式目から連綿と続いた喧嘩両成敗の原則はあるが、将軍綱吉はこの刃傷沙汰を喧嘩と捉えてはいない。
喧嘩や諍い云々以前に、殿中で刀を抜けば無条件で即死罪なのである。
だから歌舞伎などのフィクションで四十七士を「善」や「義」として美化させるためには、その対比で吉良という「悪」がどうしても必要だった。
単純な話である。

討ち入りの際に浪士が持参した「浅野内匠家来口上」というものがある。


去年三月、内匠儀、伝奏御馳走之儀に付、吉良上野介殿へ含意趣罷在候處、於殿中、当座難忍儀御座候歟、及刃傷候。不弁時節場所働、不調法至極に付切腹被仰付、城地赤穂被召上候儀、家来共迄畏入奉存候、請上使御下知、城地差上、家中早速離散仕候。右喧嘩之節、御同席御抑留の御方在之、上野介殿討留不申候。内匠末期残念之心底、家来共難忍仕合に御座候。対高家御歴々、家来共鬱憤挿候段、憚に奉存候得共、君父之讐不可共戴天之儀難黙止、今日上野介殿御宅へ推参仕候。偏に継亡主之意趣之志迄に御座候。私共死後、若御見分之御方御座候者、奉願御披見、如是御座候。 以上

元禄十五年十二月 日

浅野内匠頭長矩家来 大石内蔵助

(以下、浪士たちの連判が続く)


大石は「於殿中、当座難忍儀御座候歟」と、喧嘩の原因を明確にしていない。
いや、明確にしようにも原因がわからず、出来なかったのだ。
口上書は公儀への異議申し立てに等しいものだが、「忍び難き儀」などの曖昧な表現では、肝心の大義名分がぼやけてしまっている。

寝巻き姿で震えている還暦過ぎの老人一人を、完全武装した47人もの男たちが取り囲んでいる光景が浮かぶ。

「吉良家家臣二十士」を祭った祠で、いつも少しだけ気持ちの折り合いをつける。
よく知られた小林平八郎や清水一学の名が見える。
合掌。

今までに何度か書いているが、これは旧暦のことで、12月14日は現在のグレゴリオ暦に直すと1月30日である。
しかしもっと正確を期すと、江戸時代の一日は明け六つから始まるので、討ち入りは1月31日の夜明け前に決行されたことになる。

天下分け目の関ヶ原から100年が過ぎた元禄文化の爛熟した時代。
綱吉の定めた天下の愚法、生類憐みの令を柳沢が諫めなかったのは大老職の職務怠慢だが、綱吉の茶坊主、腰ぎんちゃくならば致し方ないだろう。

それにも増して長矩が暗愚の領主だとしたら、綱吉は長矩をも凌駕する徳川幕府最低最悪の将軍だった。
ならば平成不況の現代、綱吉の御世であればご法度の獣の肉でも「薬喰い」と称して食ってやろうと、帰りに両国橋東詰の「ももんじや」に向かったが、あいにくまだ開店前だった。

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