六十六年前の今頃は

2011年3月10日






今日三月十日は東京大空襲の日。
詳しく書くつもりはありませんが、昭和二十年のその日は20メートルを越す北風が吹き、寒い夜だったといいます。
でも、若い人には昔話のようです。
それでも私は下町で生まれ育ったこともあり、この空襲の被災者たちに当時の話を聞いたことも多く、「昔話」も親世代の現実であって今でも生々しい「現在」なのです。

広範囲に渦巻く炎熱地獄から逃げ惑う人たちが大勢押し寄せたのが、隅田川でした。
特にこの吾妻橋は、本所や浅草の東西両地域から避難した人であふれ、橋の上ではまったく身動きも出来ないほどだったと聞きます。
やがて熱風に髪の毛や衣服が自然発火し、たまらずに川へ飛び込む人が後を絶ちませんでした。

飛び込むそばから次々と人が川の中で重なり合い、そのまま浮かび上がることが出来ずに溺死や圧死、また、着の身着のままなので凍死したりと、その惨状は筆舌に尽くしがたい凄惨な光景だったそうです。
この川面全体が、死者に覆われたといいます。
どんなにイメージを描こうとしても、想像が追い付きません。

焼け野原になった東京下町です。
横十間川と、奥は隅田川から東京湾。
中央を横に延びる黒い筋は総武線で、画面の中心は錦糸町辺りでしょう。
隅田川に架かる清洲橋と永代橋が見えます。
奥には佃島、月島、そして東京湾。

非戦闘員を狙った無差別空襲のために、たった一晩で十万人もの人が亡くなってしまったのは、いったい何が原因なのでしょう。
日露戦争後の日比谷焼き打ち事件は、民衆が民衆自身の願望するポピュリストを育てる愚行でした。
それから日本がたどった道は、誰もが知っている通り。
通過して来た時代すべてが、これから国際社会で真っ当に歩むべき姿の教訓を内包しています。
最近は政治のガバナビリティが問題になっていますが、国の指導者を選ぶのは、我々国民一人一人の責任です。


戦争を考える時、必ずオマール・ブラッドレーの言葉が浮かびます。

戦争は開始も防止も出来る。
ゆえに防げなかった者は死者に対して責任がある。

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