東京大空襲

2018年3月10日




今日は東京大空襲の日であり、長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」から抜粋して、先の戦争の悲惨さに想いを馳せたい。

 東京は前後三回の大空襲を受けて焼き払われた。その初めは三月九日夜半から翌日の未明にかけてB29百三十機(三百機ともいわれた)による下町への焼夷弾攻撃だった。当初は少数機が飛来したが、すぐ飛び去って警報が解除になり、ほっとしたとき本隊が低空で少数機に分散侵入、正確に目標を摑み虱潰しに一つ残らず焼き払った。下町は燃えやすい木と紙と藁でできた木造家屋の密集地帯だったから、たちまち火炎地獄と化した。

 私の家のある谷中一帯は上野の山で隔てられていて、飛行機の爆音や爆弾のザーッという落下音はかすかに聞こえたが、それほどとも思えなかった。しかし、下町の夜空があまりにも赤く明るいので、敵機が飛び去った後、見に行った上野の山から両大師橋の上に出たとき、目の下に見える下町一帯が果てしもない火の海となっており、浅草の観音様の巨大な本堂が火炎に包まれ、火の粉を噴き上げて、いまにも棟が焼け落ちようとしているところだった。

 その凄惨な火の海はまさに地獄図絵そのものであり、逃げる間もなくあたり一面を火の海にされて、取り残された人たちが火の海の外へ逃げ出すには距離がありすぎるように思われた。

 このとき上野の山がどんなようすだったか、どうしても思い出せないのだが、ただひとつ強烈な印象として残っていることがある。それは六十歳をすぎたと思われる老人が、懐に位牌を抱きしめて気が狂ったように大声を張り上げてお題目を唱えていることだった。聞けば浅草のほうから猛火を潜り抜けて逃げて来たらしい。

 「自分はいったん外へ出たのだが、お位牌を取りに戻った一瞬に家族とはぐれてしまい、無事でいることを願って一心にお題目を唱えているのだ」
 という。

 目に涙をいっぱいため、いまにも声を出して泣き出しそうなさまは本当にあわれだった。家族と会えなかったらこの老人はきっと気が狂うだろう。この凄惨な火炎地獄を見て、日本ももうこれで終りだと思った。そして知らず知らずに溢れ出る涙はとめようもなく、手で払い払い帰って来た。

 私が桜木町(転記者注、現在の上野桜木)へ出たとき、
「上野あたりの路上に持ち切れない荷物を放り出して逃げて行く人が大勢いて、道は自転車とかリヤカーなど、いろいろなものが散乱しているそうだ。放っておくとみな燃えてしまう。もったいないから拾いに行こう」
 といって駆けて行く人がいた。

 一種の火事場泥棒だが、この物資不足のときにいっていることは理屈に適っていた。私にとって自転車は命のつぎに大切なものだったから、タイヤだけでも欲しいと夢中になって駆け出した。しかし、先に行った人とはぐれてしまい、上野広小路の交差点まで来たとき、広い道路の上には荷物はおろか人影もまったくなく、無気味な旋風が路面の埃を巻き上げ、その上にどこから飛んで来るのか、火の粉が降り注いでいた。

 松坂屋の巨大なビルはシャッターを下ろして静まり返っており、湯島側の道路沿いの民家はまだ完全な形で残っていたが、住人は逃げてしまったのか一人の姿もなく、逃げることのできない建物だけが震えるように建っていた。

 火は湯島のほうからどんどん燃え広がって来る。その炎はあたかも百千の鉦を一度に打ち鳴らして、攻めたてて来る悪鬼の咆哮のようで、その凄まじさは物を捜すどころではなく、身の危険を感じてほうほうの体で逃げ帰って来た。

 帰る道すがら見た不忍池の弁天堂は周囲を水に囲まれているため、ここだけは安全地帯とばかり静かなたたずまいのように見えたが、ずっと離れて池の畔にあった昔の博覧会の古い大きな建物(倉庫か工場に使っていたらしい)の軒先からほんの小さな火の燃えているのが見えた。火災に麻痺してしまったのか、こんな火はすぐ消えると気にもとめないで帰って来た。

 翌朝、これだけの大火災が発生したのだ、一刻も早く役所に行かなければと気をとりなおして早い朝飯を食べ、握り飯を持つと自転車に飛び乗って役所へ出勤した。

 その日、役所では被災地の復旧工事に出動することになり、私たちの班では城東区役所(江東区役所)の仮庁舎(木造組立て式のバラック)を建設することになった。偉い人も私たちも一緒になって作業服に身を固め、トラックに応急資材を積みこみ、上乗り人夫となって被災地に飛んだ。

 走るトラックの上から見た起伏の少ない下町の情景は鮮烈そのものだった。かぎりなく広がる焼け野原には死臭が漂い、賑やかだった人間の街が一瞬のうちに死の街と化し、黒く焼け爛れたビルや土蔵が無気味な墓標となって姿を晒していた。

 トラックは路上の障害物を撤去するためにときどき停まった。それまで映画の画面のように一瞬のうちに通りすぎた悲惨な情景が一時固定して、いっそう凄惨さを増して私の目に飛びこんで来る。焼けトタンや瓦礫の下から人とも動物とも見わけのつかない、炭化して真っ黒になった物体を兵隊が掘り起こしては、焼けトタンの上に載せて引き摺って行く。

 集積地には焼け木杭を山と積み重ねてぼんぼん火を燃やしていた。そうした黒い物体は人間であり、犬であり、馬であった(このころ荷馬車は都内にずいぶんあって有力な運搬手段だった)。まさか人間と動物を一緒に荼毘に付すとは考えにくいが、この無限大に広がった廃墟を整理するのにそれらを選りわける余裕などとてもあるとは思えなかった。

 車は走り出してはまた停まる。行く先々に固有の悲惨があった。焼け跡に寄せ集められた黒焦げの死体の山、なかには手足を突っ張らせ踠いたままの姿で、衣服も髪の毛もすっかり焼けて男女の区別さえ定かでない死体があった。脇には赤ん坊の死体がそっと添えられていた。

 その死体の背と赤ん坊の腹だけが白かった。赤ん坊を背負って逃げる途中で、力尽きて焼け死んだ母親なのだろう。あまりの惨たらしさに口をきく者もなく、役所の人たちも顔を強ばらせてこみあげてくる涙を堪えているのがやっとだった。

 区役所の建設現場には職人や人夫が待っていた。私たちはトラックから組立て部材を下ろすと彼らに協力して仮庁舎を建てた。

 昼休みの一時、私は付近を少し歩いてみた。朝鮮の人が大きな声を張り上げて泣きながら、気違いのように防空壕に埋まった死体を掘り起こしていた。死臭の沁みついた土や木片の一部が何かのはずみで顔に当たったりすると、悲鳴をあげて逃げ出し、ぺっぺっと唾を吐きちらして、がたがた体を震わせながら、また近づいては土の下を覗いていた。

 おそらく肉親を探していたのだろう。区役所の近くの川には、水面を覆うように多数の死体が浮いていた。親子の情愛とでもいうのだろうか、赤ん坊をしっかり抱き抱えた母親、子供の手を握ったままの父親など、涙を誘う死体が目についた。死体の下にもまだ死体があった。

 そうしたなかに十二、三歳と思われるおかっぱ頭のかわいい女の子が、まだ生きている人のように目をぱっちりとあけ紅潮させた頬を輝かして水面に仰向けで浮いているのを見たときには、人前もはばからず思わず泣いてしまった。これらの人がどんな恐ろしい思いをして死んでいったのか、戦争の惨たらしさをこれほどはっきりと知らされたことはなかった。

 区役所の焼け跡では庁舎防衛の歩哨に立っていた兵隊の焼け死んだ話を近所の老婆から聞いた。その夜、庁舎前の広い道路の向こう側が火災で焼けていた。道幅が広いから安心していたのか、歩哨兵は近所の人がいくら早く逃げろといっても忠実に自分の持ち場を守って離れようとはしなかった。

 ところが向こう側の火勢がしだいに激しくなり、その輻射熱でか、一定の熱量に達したとき、庁舎がいっぺんに火の玉となり、逃げる暇もなく焼け死んでしまったと、泣きながら私に話してくれた。

 また一方、私はこの焼け野原に来て、生きている人の案外多いのにほっとしたり驚いたりもした。人々の顔は煤だらけ、防空頭巾や衣服も焼け焦げだらけで亡霊のようだったが、みなこの付近の人たちだった。あれほどの火の海のなかをどうして逃げられたのか聞いてみた。そのうちの一人は、
「逃げる途中で気を失って道路に倒れてしまい、気がついたときには、あたり一面は丸焼けになっていたが、自分の体の上に大勢の人が倒れていて、それが炎から自分の身を守ってくれた」
 といい、もう一人は、
「夢中で川に飛びこんだが、まわりの人があっぷあっぷしているのに、自分のところだけは運がよく浅瀬だったため、溺れないで水のなかにいることができた。朝になって川から上がったとき、浅瀬だとばかり思っていたところが、足の下が土ではなくて人の溺死体で吃驚したが、無我夢中だったのでまったく気がつかず、そのために助かった」
 と語っていた。

 数日たって役所で会った友人が話すのには、本所へ復旧工事に行ったとき、隅田川にかかる大きな橋の上には死んだ人がずいぶんいて、その橋の上には、その死体から滲み出た脂が流れており、それを老人が空き罐に掬い取っている、聞くと、「燃料不足だから、この脂で煮炊きするのだ」といったので、吃驚して逃げ出して来たが、あまりの恐ろしさで老人は気が変になってしまったのかもしれないといっていた。

 この空襲で東京の下町はほぼ焼き払われ、死傷者十二万、家屋二十三万戸を焼失したといわれた。大本営は今回の空襲で敵機十五機撃墜、五十機に損害を与えたと発表。そして十八日には、天皇が被災地を巡幸して被災者を慰問し、その苦難をねぎらった。

 私はこの空襲を経験して、いざというときの運搬用に手押し車の必要性を痛感し、区役所を復旧する仕事から帰った翌朝、早起きして焼け跡によくある鉄の車輪を拾いに行った。このとき不忍池の畔の元の博覧会の大きな建物が、コンクリートの外壁だけを残して屋根が焼け落ち、なかががらんどうになっていたことと、そこから百メートル以上も離れていた池のなかの弁天堂も灰になっているのを見て、火の凄さに改めて驚いた。

 また池の近くにデパートの寮があった。建物は不燃構造の三階建てだったが、ここも全焼していて、なかを覗いてみたが、まだ熱気が充満していて、とても入れたものではなかった。鼻をつく人の焼けた臭いに吃驚して、すぐさま外へ飛び出した。きっと通りかかりの人がとっさになかへ逃げこんだのはいいが、そのまま出られず建物と一緒に灰になってしまったらしい。

 その後、何度か焼けたビルのなかへ入ることがあったが、同じ臭いを嗅いだものである。

〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉



全米ライフル協会が「学校の教師に銃を持たせれば良い」とコメントすれば、そのままの文言をつぶやく脳味噌の足りない大統領。
その愚かな大統領を手玉に取ろうと、無理筋の接触を図り、保身のためならば身内をも平然と粛清する、オオカミ少年ならぬ北の狡猾な若造。

そして米と北が接近しそうになると、自ら勝手に上ったハシゴを外され、それでも格好だけファイティングポーズを取りながら、実は様子見しか出来ない我が国のトップ。

森友も疑惑から疑獄へ移行する寸前に見える。
ご本人は内憂外患の自覚があるのか、それとも単純に強行突破を目論み、こちらも保身へと全力疾走するのか…。

トカゲの尻尾を切るのではなく、今すぐにでも頭を切らなければ、この国は亡びるだろう。
指導者の劣化は、そのまま国民たちの不幸である。

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