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コマーシャルな写真

ツイッターを始めて以来更新してなかった古いブログを読み返していたら、途中で書くの飽きて放置していた7年前の文章が残っていた。2014年。写真を撮り始めて4年くらい経ったときの文章。7回分のコピペ。


コマーシャルな写真

1

写真を続けるうえで、自分の頭の中をグルグルと回り続けている言葉がある。
コマーシャルな写真。

僕は4年前に写真を始めた。GANREFというインターネット上の写真共有サービスの一つに登録し、のめりこんでいった。

写真を投稿する。
「お気に入り」されたり、コメントをもらったりする。ストレートな褒め言葉も、アドバイスもあった。
月に一度、そのサイトから応募できるコンテストがあり、そこで受賞するのが最初にできた目標だった。

このサイトは良くできていて、参加者のモチベーションを保つ仕組みが、コンテストやコメント・「お気に入り」システム以外にもあった。お気に入りやコンテストの受賞によって得られるポイントによって、ブロンズ3→ブロンズ2→ブロンズ1・・・とランクが上がっていくようになっていた。
ランクが上がると投稿可能枚数の上限が上がっていく。シルバー2に上がるぐらいまでは、常に投稿可能枚数の残りを気にしていた覚えがある。

参加して少しすると、人の写真が気になった。新着写真やコンテストの結果ページなどから、いい写真やそれを撮る人を探すようになった。
その頃に見つけた人の中には、当時よりも遥かに高いレベルで最先端に立っている人が何人もいる。

あるとき、同い年で物凄い心象写真を撮る人を見つけた。
ランクを見ると、最高位の「トップオブゴールド」だった。
当時20代だった僕にとっては、他の参加者は大体が年上だった。30代も稀で、20代をみかけることはとても珍しかった。

そんな中で初めて見つけた同い年ということもあり、僕はその人を強烈に意識した。
勿論、意識していたのは僕だけで、当時はやっとカメラの操作を覚えたはじめたシルバー3や2の僕にとっては遥か雲の上の人だった。それ以前にその人は投稿が途切れがちの状態で、あまりサイトに出入りしていないように見えた。

冒頭の言葉は、この人の言葉ということになる。

2

彼をAさんとする。
Aさんと僕はガンレフに参加していた全期間を通しても、ほとんどコメントのやり取りをしなかった。
二回か三回ぐらいだったか、コメントをもらったときは感激したものだ。

ガンレフに参加して一年ぐらい経ったころ、Aさんは最後に一枚写真を投稿してガンレフから姿を消した。
彼が今も写真を続けているかどうかはわからない。

それから、数ヶ月経ったころ、Aさんの最後の投稿写真を見ていて、ふと寄せられたコメントの一つが気になり、そのコメントを残した人(Bさんとする)のページをのぞいてみた。ページにあった10枚ぐらいの写真は投稿日時がずいぶんと前になっていた。僕はそのうち一枚をお気に入り登録した。

数日経って、Bさんからメッセージが届いた。
BさんはAさんと実際の知り合いで、Aさんの写真を見るためにガンレフに登録していたらしい。
驚いた事に、Aさんは僕の写真の話をよくBさんにしていたらしい。称賛と嫉妬が入り混じっていたというようなことだった。
その時の感情をなんと表したらいいのか今でもわからないが、とにかく心が揺さぶられた。

一方で、とBさんは続けた。
僕の写真について、「コマーシャルな写真だ」とも言っていた。

文脈的に褒め言葉ではないということはわかった。でも、何をどう批判されているのか、その意味まではわからなかった。

3

何かがきっかけになって、今まで引っ掛かっていた多くの事が一気に結びついて、見えていなかったことが不思議なくらいにハッキリと見えてくることが往々にしてある。
標題の言葉を中心とした「それ」が起こったのは、つい最近だった。
つまりBさんとのやりとりから数年、僕は漠然としたモヤモヤを抱え続けることになる。

コマーシャルな写真。
当時、意味がわからなくても気になるので考えた。
「コマーシャル」ってどういう意味だろうか。
広告写真並みのクオリティと褒められているわけではない事だけは確かだ。

自分の写真は商業的ということだろうか?
商品の宣伝でもないのに?
写真が売り物というわけでもないのに?

モヤモヤする一方で、ガンレフのコンテストなどで結果が出始める。
入賞だけでは喜ばなくなってきていて、最優秀賞と月例コンテスト年間一位、アワード(過去1年間総合ポイントで決まる)を目指していた。
加えて、ずっと投稿してはリジェクト(掲載見送り)されていた1x.comに掲載され始めたのもこの頃だった。
(1x.comは運営がサイトに掲載する写真をセレクトする審査制写真投稿サイトのさきがけだった。
僕の写真に大きな影響を与えたと思う。いい意味でも悪い意味でも。)
写真新世紀という賞があるのを知ったのもこの頃だった。受賞作品を見ても何がいいのか全然わからなかった。

ガンレフのコンテストと、1x.comを励みに一年ぐらい写真を撮り続けた。
年間一位は無理だったが、最優秀賞はとったし、アワードの最高位にもなれた。初めて応募したIPAでサブカテゴリー銅賞も受賞した。
順風満帆だった。例の言葉は薄れていた。

自分は才能があるかもしれないと思っていた。
そう思いながら撮り続けた。今から思えばまさにコマーシャルな写真を。

4

転機は2012年だったと思う。
自分の中での「写真」の世界が一気に広がった。

夏ぐらいに初めて写真の展示を見た。
CASOという大阪で一番大きなハコで、広く天井の高いワンフロアの四方の白壁に巨大なプリント(A0とかB0だった)が一面に張られたグループ展だった。50人×2枚の100枚とか、そんな数字だったと思う。

よくわからなかった。何でもないように見える写真もたくさんあった。
しかし圧倒された。プリントの大きさのせいだけではなかった。
展示という世界があるんだ、というのがその時の感想だったと思う。別世界に思えた。
その数ヵ月後、同じ場所で自分の写真を展示することになるとは全く思っていなかった。

御苗場への参加は、ひょんなところから決まった。
ガンレフで知り合った人から出展者を募集していることを教えてもらったのだ。
「おなえば」という言葉とその大体の内容は知っていたような気もするが、自分がそこに出るなんて考えたことも無かった。
CASOの展示で受けた「よくわからない」衝撃が頭に残っていたこともあって、かなり躊躇した。
でも、こうやって紹介してもらったことも何かの縁かと思い、募集ページにアクセスしてみることにした。
100以上あるブースは既に定員に達していて、募集は終わっていた。
正直な話、ほっとした。
ページの下の方に「キャンセル待ち応募」というリンクがあった。
これに申し込み、「やるだけのことはやったんだけど、しょうがない」と自分に言い訳する準備をした。

それから何日かあと、空きブースが出たという通知メールが届いた。
逃げ場を失った僕は高揚感と不安を感じながら申し込んだ。

5

10月、搬入の日、僕は仕事を休んで朝からCASOに来ていた。
夏に別世界に思えた場所で、ひたすら壁に釘を打っていた。

昼過ぎに展示作業を終えた僕は、ここで初めて周りの写真を見て回った。
まだ時間が早く、午後から作業に来る人も多かったのか、半分ほどのブースだけが完成していた。僕は若いブースから順に完成しているブースを見て回った。

僕の写真よりも構図が整っている写真はないと思った。
僕の写真よりも最高のタイミングで撮られた写真もないと思った。

そのはずなのにモヤモヤした。なぜこんなに引き込まれるのか分からない、なぜこの写真が美しいと感じるのか分からない、という感覚を何度も味わった。
なにか自分には物差しが、いやアンテナが欠けているのではないかと思った。言葉にできないのではなく、それ以前、掴めていないのではないか―――

その不安のせいなのか、イベントが始まり来場者が訪れるようになると、自分のブースの前に立てなくなった。
正確には、なんとか立ってみるのだけれど、悪寒がして変な汗をかいて、その場にいられなくなるという状況だった。
ネット上での知り合いの方が何人か来てくれて、そのおかげで、到着を待つためにブースに留まることができたような有様だった。

このまま終わっていたら、自分の写真は場違いだったとひたすらヘコんだあと、自分の写真と向き合うことを始めていたかもしれない。そのなかで、自分が感じたモヤモヤの正体を探ろうとしたかもしれない。

しかし、そうはならなかった。

御苗場にはレビュアーと言われる人達がいて、会場を訪れて出展者に対してレビュー(批評、アドバイス、その他)をしてくれる。写真にたずさわる専門家達からレビューを受けられるというのが、このイベントの売りでもあった。
4日間のイベントの最後には表彰式があった。各レビュアーが一人、出展者に賞を与えるのだ。

僕はレビュアー賞を受賞した。

6

御苗場での受賞によって、今までマイペースだった僕の活動はあわただしくなった。
受賞者5名が半年後に写真集のダミー本を作り、選ばれた1名が写真集を出版するということになっていた。
ダミー本を作るためのWSが月1ぐらいで開催され、それに参加した。
超恵まれた待遇のもと、初めての経験についていくことに必死で、僕は浮かんでくるモヤモヤした気持ちを頭の奥の方に押し込むことになる。

結論から書くと、そのダミー本の審査で僕は選ばれなかった。

しかし、わかっていたことだったので、落胆はそこまでなかった。やっぱりかという感じだった。
その時点でのベストは尽くしたうえで、どこかで負ける覚悟をしていたのだろう。
なぜ僕は負けたのか?なぜ僕は負けるであろうということがわかったのか?
それは結局わからなかった。

ヒントを実はこの時期にたくさん得ていた。気づいたのは最近のことだ。

東京のあるカメラメーカーのギャラリーで話を伺う機会があった。
「写真で飯を食っていくのは大変で、食べていけるのは広告写真ぐらいだ。広告写真の分野で成功したカメラマン達は作品をつくって認めてもらおうとする。」
前半と後半が結びつかなかった。
広告写真で成功したのに、認められていないのか?
作品を作らないと認められないのか?広告写真という作品を既に作っているのに?
認めるのは誰なのか、誰に認められたいのか?

こういうこともあった。
あるギャラリー主催のコンペに出場して、決勝の公開審査会でケチョンケチョンに言われた。
「あなたの写真はマンガのようだ。ブレッソンの有名な写真が実は演出だったというエピソードがあるが、あなたの写真を見ていると写真というもの全てが疑わしく思えてくる。」
そういう批評(僕には罵倒に聞こえた)はある程度は予想していた。好き嫌いの問題だろうと思った。

しかし、何を言われたのか意味がわからない言葉もあった。
「同じように俯瞰で撮影したマツエタイジはそこに都市と人の生活というテーマを込めたがあなたはどうだ?」

答えられなかった。
いや、「そんなものはない」と答えた。

7

御苗場に参加して半年が過ぎた春、ダミー本の審査が近づいていた。
長く繁忙期を迎えていた仕事が一段落して、僕は車で大阪から九州まで車中泊で撮影旅行にでていた。
その途中、鳥取の植田正治美術館に立ち寄った。
ギャラリーコンペの審査員の一人から植田正治の写真を見るように言われていた。
その人は、あなたは芸術を勉強する必要がある、と古い著書を古本屋で探してまで送ってくれた。
そこに同封されていた手紙にも、「あなたは見たくないと言っていたが、それでも植田正治の写真を見るべきだ」と書かれていた。

写真を始めてわりと初期の頃から、僕の写真を見た人から植田正治の名前を聞くことが多かった。
有名な写真家だということは調べたらすぐにわかったが、正直複雑な気持ちだった。
そんな意図で言われていなくても、パクったみたいに言われている気がして、実際にパクったくらいに似ていたらという恐怖もあって、意地でも植田正治の写真は見ないと決めていた。他の写真家の写真も見ないようにしていた。

感想は「確かに似ている」というものだった。
でも嫌な気持ちはしなかった。
演出写真を僕も撮っていたので、その演出の部分が似ているのかと思っていたが、似ていたのは構図のとりかただった。
全ての写真で、僕が最も気持ちよく感じる構図がとられていて、感動すらおぼえた。
彼の経歴には、海外の、特にヨーロッパの写真に影響を受けたというようなことが書いてあった。

僕は写真のちゃんとした教育は受けていない。無理やりどこで勉強したかを答えるなら、1x.comでということになる。
ここに載りたくて写真を研究し、撮っていた時期がたしかにある。
ルーツを辿っていけば、どこかで交わるのかもしれないと思った。

人の写真を見る事に抵抗がなくなったのはこの頃からだと思う。

人の写真を積極的に読むようになるのも、「コマーシャルな写真」に辿りつくのもかなり先の話だ。










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