アジア神学大学院提出の論文「エラスムスの神学思想における人間形成」の要旨

              論文要旨(和文)

 本論文は、エラスムスの神学思想である「キリストの哲学」の根幹をなす人間観を、Enchiridion militis Christianiを用いて明らかにし、「キリストの哲学」が現代に生きるキリスト者の主体的意思決定に基づく人間形成に至る意思決定モデルを示すところにある。
エラスムスの神学思想には、罪を犯す人間の弱さを認め、神の恵みによってのみ救われるという宗教改革的人間観と、「人は自ら欲する者になることができる」という主体的・意思決定的に生きるルネッサンス的人間観との総合が見られる。それは、理性と情念の二元論的関係をパウロの霊と肉の関係に落とし込むことで合理的意思決定を阻害する罪の構造を明らかにしつつ、そこから更に発展してパウロの提示する霊と肉と魂という人間の三元論的要素を援用しながら、罪の構造を主体的・意思決定的に乗り越える生の在り方を展開するエラスムスの論述の中に明瞭に現れ出ている。エラスムスは、このような生の在り方を、意志と理性とが完全に一体となった「霊となる」事態とし、それを霊の完全性として捉える。この霊の完全性は、人を神の似姿とする。エラスムスはこの神の似姿となることをキリスト者の人間形成の目標として、そこに神の創造の業の完成としての救いを見ているのである。つまり、エラスムスの人間論に基づく「キリストの哲学」は人間形成の完成を目指す創造論的・人間形成論的救済論の上に立つものである。このような思想は、「慈悲の業」、「キ リストの人性」への信心、imitatio Christi、そして、クリスチアニタスと連関する。
 これら一連の神学思想の流れは、エラスムスの言う霊の完全性であり、それは人間の目標であり救済の業の到着点である。エラスムスはこの霊の完全性を受肉したイエス・キリストの生涯に現れ出た「隣人愛」に見出している。そしてそのイエス・キリストにある霊の完全性に至るために必要な情報源としての聖書をあげる。そこには、聖書をキリスト論的に読み解いていくエラスムスの比喩的聖書解釈がある。それは、物事を可視的な表れとその背後にある不可視的な霊的事柄を読み解く聖書解釈である。このエラスムスの神学思想は、聖書解釈と密接に結び付く。そこには、事物を可視的-不可視的の関係で捉えるエラスムスの認識論がある。エラスムスはこの認識論を用いて、サクラメントが「敬虔な生」のための「キリストの哲学」を明らかにするためのものであるというその本質も明らかにしていく。このようにエラスムスの神学は、霊の完全性を目指して主体的・意思決定的に生きることで創造の業の完成としての人間形成を目指す「真のキリスト者」の「人間形成の神学」なのである。  
我々は、このエラスムスの「人間形成の神学」から神の前に主体的・意思決定的な生を生きるキリスト者の意思決定モデルに基づく人間形成の在り方を抽出することができる。それは、イエス・キリストに顕された霊の完全性を実現可能な目標とし、それを目指して聖書を情報源としてキリストを知り、そのキリストを分析概念として様々な情報を分析し、主体的・自律的に神の似姿を形成するものである。そしてそれは、神の創造の業を完成させるキリスト教的人間形成の在り方なのである。

本論文の意義

 プロテスタントの教会の伝統にある基本的な人間理解は、神の前に罪びととしての人間である。この人間理解は、イエス・キリストによる救済の業を「罪の赦し」の業として捉え、刑罰代償説によって理論武装された贖罪論に収斂していく。そこでは、人間の救いに対して主体的・自律的参与は否定される。
これに対して、ルネッサンスを背景に持つキリスト教人文主義では、人間の主体性と自律性に重きを置き、そこに人間の尊厳性を見る。本研究が取り上げたエラスムスは、そのキリスト教人文主義者として、人間が如何に主体的・自律的に神の前で生きて行くかを問うた人物である。だからといって、エラスムスが人間の罪の現実を無視しているのではない。むしろ、人間が罪犯す現実を捉え、罪とは何か、なぜ罪を犯すのかを、歴史的思惟に耳を傾けつつ、それを聖書によって分析している。したがって、エラスムスの人間論は形而上学的神学な人間観ではなく、悪も欲すれば善も欲する現実と乖離しない人間観である。
 本研究の意義は、そのエラスムスの人間観が目標として目指す「霊の完全性」に着眼し、そこからエラスムスの救済論が、キリストの受肉に着目した創造論的・人間形成論的であることを論じた点にある。エラスムスの人間観については、木ノ脇悦郎や金子晴勇等の研究があるが、「霊の完全性」の問題から人間観と救済論とを結びつけ、エラスムスの救済論が創造論的・人間形成的救済論にあると考察した研究は国内外共に見られない。この創造論的・人間形成論的救済論は、従来、木ノ脇によって提示するエラスムスの神学が聖書解釈の神学であることの上に成り立つものである。同時にそれは、エラスムスのサクラメント理解にも見られることを本研究は明らかにしている。その土台は、古代教会の「慈悲の業」から始まり、「キリストの人性」への信心からinitatio Christi、そしてクリスチアニタス(Christianitas)と受け継がれていったキリストにある「隣人愛」にある。本研究では、このキリストにある「隣人愛」が何であるかを、エラスムスのテキストに沿いながら提示する。これよって、エラスムスの人間観およびキリスト教人文主義が、従来言われていたような人間中心主義的なものでなく、むしろ優れてキリスト中心主義的であることを本研究は明らかにしている。
また、宗教改革以降、近代社会は様々なものを分節化してきた。キリスト教においても信仰と倫理の分節化を含む宗教の世俗化(私事化)があり、実存的・個人的宗教の在り方が追及されてきた。そのような中、エラスムスの神学思想は、信仰と倫理や哲学と宗教等々を総合化しつつ人間形成を目指すものであり、牧会的にも着目すべき重要な思想である。

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