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ねえ、嬉しくて泣いたことある?

いつしか、夜、眠れなくなってしまった。

新聞配達のバイクの音が聞こえる頃、ああやばい、寝なきゃ。そう思うけれど、なんだか寝れなくて。

自分が誰なのかわからないし、何者かにはなりたいけれど、その何の部分はやっぱりわからないままなことにいたく焦りを感じたりもして。

外面だけは大人になっていくのに、中身は微々たる変化しかないのではないか、わたしがやろうとしていることは無意味なのではないか、そういう不安に押しつぶされそうになる。


インターネットを使っていると、あたたかい世界に出会うことがたくさんある。
自分の想いや考え、プロジェクトを見ず知らずの人が認め、応援してくれる世界だ。
そうした世界の人たちにわたしは今まで随分と救われてきた。

ねえ、嬉しくて泣いたことある?

わたしはあるよ。

知り合いもそうだけど、顔も本名も知らないような人達にたくさん背中を押してもらった時。

顔も知らない人の一声に、何度も何度も救われた。
ほんとうにあたたかい世界があった、という感動を今でも忘れられない。
いつもありがとうね。

一方で、現実よりも冷たい世界に遭遇することもある。
自分と感性が違う人を見つけるたび、何か揚げ足取りが出来そうなものを見つけるたび、心無い言葉をかけてくる人がいる世界だ。

わたしの感性からすると、とても悲しいなあと思う。
自分と違う人を攻撃して、切り捨てて生きていくことの虚しさを感じてしまう。

これはわたしに対してではなく、たまたま誰かのRTやいいねで回ってきたものでも同じで。

相手が誰であれ、傷つくことを簡単に言えてしまうことは、寂しい感性の持ち主なんだと思ってしまう。わたしはね。


そういう経験を通して、ひとつ、絶対に忘れないでいたいことがある。

それは、インターネットを通じていても、その先には人が間違いなく存在している、ということ。
その発言は批判ではなく否定になっていない?
心から大好きな友達に同じことを言える?
一度考えて、それでも大丈夫だと思ってから自分の言葉を相手に送る。

たったそれだけのことなんだけど、ね。

きっと何番煎じか分からないくらいたくさんの人が同じことを言ってきていると思う。
だけど、ただRTするのと、自分で言葉にするのとでは、やはり違うと思うから自分で言葉にしておく。



私たちは小さな頃から携帯やパソコン、スマートフォンに触ってきて、あるのが当たり前な人生を過ごしている。
それは生きるためのツールであり、人を殺すツールでもある。
そのことをわかった上で、人と人とのコミュニケーションの延長であることを理解した上で、あたたかい世界を生きていく人が増えたらどんなに嬉しいことだろうか。

誰にもなれなくても、認め合える世界なら、どれだけの人が救われるだろうか。



そんなことを考えているうちに、今日も朝がやってきた。
また1日、今日も頑張って生きていく。
見えない人になんて負けずに。

愛ある1日を、愛する人たちと共に過ごしていこう。
それがやさしい世界をつくるための、一歩に、きっとなると思うから。

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