陸に上がった人魚の話

「声のない人魚なんて人魚じゃないわ」

貝から生まれて、間も無くわたしが言われた言葉は「はじめまして」でも「おはよう」でもなく「罵倒」というものだった。

本来人魚という生き物は、美しい声で歌い、様々な生物と交友を図るもの。だけど、わたしにはその"声"がないうえに貝の中で成長しきらずに出てきたのだと聞いた。だからわたしは他の人魚よりも少し幼くて、哀れんだお姉さんがたまに話をしに来てくれた。本当に、たまに。わたしはそれ以外なにも聞くこともなく、静かな海で、泡の音だけを聞いている。なにも覚えるに至らないわたしに与えられた名前は"ネガッサ"。きっと、この名前を呼ばれるのは名付けられた時が最初で最後。だって、わたしには名乗る声がないから…

長い、長い時を貝の隣で、ずっと一人で海の底で、他の海も、空も、地上も知らないまま、声に…歌に憧れるだけの、ただそこにいるだけの世界。

わたしの初めてのお友達は、ラグスとイース。興味本意だって言ってたけど、彼女たちはわたしの知らない海に連れて行ってくれて、何も知らないわたしに空を、地上を、人間と言う生き物を教えてくれたのは彼女たち。それに、新しく名前もくれたの。

「そもそも、あんたの名前"ネガッサ"って言うんでしょう?ひどい名前よね!」
「"ネガッサ"って"オトリ"って意味なのよ」

"オトリ"という言葉を聞いても、わたしには分からなくて、ただ、ラグスとイースを見詰めて首をかしげていたの。そして、ラグスが言ったの"月"がいいって

「貴女は綺麗だもの。でも、海に太陽はないから、貴女はきっと月なのよ」
「そうね、じゃあ"ルア"がいいわ!」
「でも2文字だと少し寂しいわ…だから、繋げちゃって"ルアネガッサ"にしましょう!ルアネ!これならとってもかわいいわ!」
「いいじゃない!決まり!あんたはルアネよ!"ルアネガッサ"!」

どうしてこんなに嬉しそうにわたしの名前を考えてくれるのか、正直よく分からなかったけど、どこか、身体が温かくなった気がしたのと、緩んだ頬。嬉しい…多分、初めて、とても嬉しかった事だったの。だって、今は呼んでくれるラグスとイースがいるから。

暫くすると。わたしは一人でも泳ぎ回るようになって、色々なものを見ていたの。だけど、わたしは知らない。"魔物"を、知らない。だから、わたしは始めて傷を負った。とても熱くて、とても痛い。肌が裂けて赤い水が出るの。痛い…痛くて、初めて、胸の奥から湧き上がった恐怖で、必死に逃げたの。わたしは、何かに縋る事もできなくて、大きな魔物が立てたつよい波で気を失って…気が付いたら、浜に打ち上がってた。

そして、そこにいたのが…人間の子供だった。ラグスとイースには、人間はあまり近付かないよう言われていた。だけど…だけど、この人間は

「ねえ君、人魚さんだよね?怪我してるけど、大丈夫?」
「…」

わたしが気を失っているうちに、傷の手当てをしておいたんだと、痛くない?と、眩しい、まぶしい、昼間の太陽みたいな笑顔の男の子。寒くないようにと、マフラー…っていう物をくれた。初めて"物"を貰った。それをわたしの首にかけて…じゃあねと、どこかへ行ってしまった。

待って…わたし、わたしは…声のないわたしは、引き止めることも出来なくて…あの子に、あの子に何かを返さなくちゃと思っているのに、それが何かも分からなくて…どうしたらいいのか、分からないの。でも、行かなきゃ、行かなきゃって、わたしは尾びれを人間の"足"というものにして、陸に上がった。きっと、会えると思っていたの。

「、…っ」

痛い。

"歩く"のが、とてもむずかしい。

あの子は、軽々と行ってしまったのに…わたしは、"立ち上がる"ことが出来ない。だから、地面を這って、重い身体を引き摺った。どこに、どこまで行けばあの子に会えるんだろう…引き摺った足が痛い。痛い…

「まあ…まあなんて綺麗な子!」

そんな声が聞こえたけど、わたしはそのまま眠ってしまって、気付いた時には…知らない所にいた。ここは"おやしき"という所で、あの女の人がわたしをここまで連れてきたんだって、わたしはどうしたらいいか分からないまま、女の人に言われるまま、そこにいさせてもらう事になった。そこで"文字"を教えてもらったの。これが出来るようになったら、話せなくても"会話"ができるって…ほわいとぼーど、っていうのを貰って、少しずつ"話し"が出来るようになった。歩けるようにもなった。なったけど

「何故あの娘を大事そうに飼っているんだ?血に価値があるなら相応に血を流させればいいじゃないか。」
「そうねぇ…だけど、あの子の血はルビー。しかも、調べさせたらとっても良質な宝石なのよ!そんな物があの子の身体からはどんどん出てくるの!生きている限りは無限によ!…だから、あの子は生きているだけで価値があるのよ…!」

何を話しているのか分からない。分からないのに…分からないのに、身体が震えた。分からないけど…"逃げなきゃ"って…震える足を持ち上げて、どこか外に出られるところがないか探した。でも、でも…いや、分からない…外はそこにあるのに、出られない。後ろからあの女の人の声が聞こえて、心臓が壊れてしまいそうなくらい、とても苦しくて、息が、できなくて…振り向くことも出来なくて…逃げられないわたしは、暗いところに連れて行かれて、聞いていたのなら、血を出せと。

「声がないっていいわねぇ~!汚い叫びも惨めな命乞いも聞かなくてすむんですもの!」

いたい…あぁ…あぁ、どうしてこんな…わたしは、わたしはあの子に会いたかっただけ…お返しを、したかっただけなのに、いや…おねがい、どうかやめて。やめて…

「ふ…はは…なぁに…あなた…もう笑いが止まらないわ!!!涙まで宝石になるのね!あぁ、こんなことならもっと早く搾り出してやればよかったわ!あぁ、もっと泣いて、さあ、私にその宝石をよこすの!」

楽しそうに、その人はとても楽しそうに笑ったの。こんなに痛いのに、悲しいのに、何故この人はこんなにも笑顔なの?人間は、こんなに恐ろしい生き物なの?でも、きっと、あの子は、あの子なら…また、傷の手当て、してくれるのかなぁ……

あれから、ずっとこの暗いところにいる。とびらというのは、わたしじゃとても開けられない。開くのは涙を取りに来るときだけ。もうここから出られないのかな?そんなの、とても悲しい。海の中でもないここは、とても苦しい。

なにもできずに、時間というのだけが流れていく。

…眠っていると、いつもと違う音が聞こえた。とてもたくさんの音と声。とびらに近付いて行くと、すごい勢いで開いて、出て来たのはたくさんの、男の人。その人たちに、ひどく何もないところに連れて行かれて、冷たい棒がいくつも並んだ部屋にいろと言われて待っていたの。わたしには、人間が分からない…なにもないところに座って、痛む傷を撫でていたの。そして急に、たくさん水をかけられて、少し驚いたけどそれよりも…部屋がぴりぴりと響くくらいたくさんの人の声。

「お頭ァ!本物!本物ですぜ!!!」
「こりゃ疑いようもねぇ本物の人魚だ!!!」

わたしが人魚であって、どうしてそんなに大きな声をだすの?

「そりゃあ"浜から続くルビー"、"屋敷にいる声のない女"とくりゃ、そりゃ人魚姫様に決まってるじゃねえかえぇ?」

わからない、わからない。

「こいつは持ってても売っても金になる!こんなうめぇ金ずる他にあるかってんだ!!!」

…あの女の人も言っていた。"お金"というのはヒトを幸せにするって…でも、でもわたしは、これがなんの役に立つのか、知らない。お金が、いい物に見えない。見た目は光っていてキレイなのに、どうして…こんなに、悲しいの?

「それにしても、人魚ってのはやっぱ美人なんだなあ」

棒の間から腕が伸びてきて、わたしの顔を大きな手が掴んでその人の後ろのたくさんの人たちがたくさんの言葉を喋っている。

「売りに出す前に遊んだらどうです」「傷物にして価値が下がったらどうすんだ」「何言ってンすかこいつは人魚ですぜ」「そんじょそこらの女とは価値が段違じゃねぇっすか」「傷ってったらそもそも前の奴が相当痛め付けてボロボロだし今更気にしてもなァ」

わたしがなに?なあに…?この人たちが笑っているのが怖い。わたしを部屋から出そうとする。いや、やめて、来ないで、掴まないで、痛い、いや、イヤ、嫌。こわい…はなして…

次に連れてこられたのは…見た事のない、目が痛くなるほど眩しい光。そして大きな男の人。その人に付いて行けと、なにを話しているのかも分からない、ただ、広い、とても沢山の人がわたしを見ている。…こわい。隣で、耳を刺すくらい大きな大きな声が話しだした。わたしを掴んで、前に押して、

『ご覧くださいこの幼くも美しい少女を!!!いいえ、ただの少女ではありません!彼女は人ではなく、なァんと人魚!!!涙はパール、血はなんとルビーにもなる生きた宝石!!!もう既に欲しいお客様はいらっしゃいますでしょう!なんと言ったって、どれだけ高額な値が出て購入をしたとしても!彼女さえいれば元値は戻ってくるいいや!生きている限り永久に、宝石が手に入るのですから!!!!!』

わたしはここに立って、何を言われているの。下にいるたくさんの人が怖い。こわい、こわい…震えが止まらないの。きっと…きっと、ここにいたら、いけないんだ。逃げようとしたけど、腕を強く引っ張られて、そのまま倒れ込んで、痛い。とても大きな声の人が言う。

『どうです、この力ないか弱い乙女!拘束など必要のない大人しい宝石…助けを求める声すらない可哀想な人魚!』

手を持ち上げられて、冷たくて薄い物を持たされて…でもそれはわたしの手から滑っていって………熱い…あ……

『この乙女の小さな手から零れる宝石が、お客様に幸運を招く事でしょう…!さあ…さあああお値をどうぞ!!!!!』

怖い、怖い、こわい…いたい……床にぱらぱら、わたしの涙が落ちて音をたててる。頭が割れそうなほど、大きな声が響く中で…わたし、どうすれば、あの子に、会えるの…

どうすれば…"たすかる"、のかな…

今度は…どんな恐ろしいことを、されるんだろう…

怖い…こわいよ

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