少年が求めた夢の話

街から少し離れた墓地。
そこに居るのは一人の男。

「お久しぶりです、おばあさん。」

彼は墓に花を手向け、その前に座った。

「今日は、色々と話に来たんです。報告する事が沢山あるんですよ」

自分の事、友の事、恋の事、夢の事…

ずっと、中々出来なかった報告を。

──────

「ランディ」

いつも変わらぬ親の言葉。
貴族であるこの家に生まれた一人息子である自分に求められる事は一つ。

その押し付けられる後継を息苦しいと感じる生活。
"NO"と言えたら、それ程に気分のいいことは無いだろう。
ただ、その少年には他にやりたい道もなくこの言葉の度に

「…はい。ご心配なさらないで下さい。」

そう答えた。

そう、本当に望む事など、今の彼にはきっと"自由"だった事だろう。
生まれ持った破格の魔力冴えも、家に縛られてはその力も宝の持ち腐れ。両親は一体、この魔力をどう伸ばしたいと言うのか。「少し散歩に行ってきます」と言って、街外れの方へと歩いた。

「帰ったらまた勉強かな」

「つまらない」と呟き、林の中にある川沿いで切り株に腰をかけて頬杖をつく。
サラサラと流れる心地のいい川の音に、そっと目を閉じる。このまま帰らず、ここに居たいと思いながら、愛する両親を裏切る訳にもいかない。彼らはただ家の為、自分の為に言っている事だと信じている。そもそも自分には他にやりたい事も何もない、寧ろない方が悩むことが無い。都合がいいじゃないか。

ずっとそう考えていた。

変な事を覚えては困ると家から出る事は滅多にない。

お陰で友もいない、居るのは貴族の顔見知り。

来る日も来る日も、昨日、一昨日、明日も、明後日も

きっと、何も変わらないと思っていた。

「…?なんの匂い…?」

ふと、どこからともなくいい香りが鼻に付いた。何の香りかを考えることもなく、匂いのする方へとゆっくりと近付いていった。…そこには、御伽噺に出て来そうな、木でできたかわいらしいお家。不思議で、家を見渡しながら近付いていくと

「──あら、坊や」
「う、うわっ!!!??」

窓から老婆に声を掛けられ、あまりの突然の事に声を上げて驚くが、老婆はそれを見て可笑しそうに笑った。

「ふふふ、突然声を掛けてごめんなさいねぇ?」
「えっ…えぇ…え、」
「そうだ、丁度いいわ!折角だから、これを食べていきなさい」

そう言って、老婆が手に持ったのは窓辺で冷ましていたであろうアップルパイ。

…そう、匂いの正体はこれ。

老婆は手際よくアップルパイを切り分けると、少年に差し出した。

「で、でも」
「いいのよ!気分で焼いてしまったけど、どうせ私しか食べる人がいないからねぇ」

「さあ、遠慮せずにお食べ」と、笑顔の老婆に断る言葉もなく、遠慮がちに皿を受け取った。家で出される物しか口にした事がない為に、少しの抵抗感も持ちながら恐る恐る

そして感じた。今まで何を、どんな物を食べても感じた事のなかった感覚

「──…すごい」

無意識に言葉が零れ、一切れをあっという間に平らげた。

その間、老婆は幸せそうに少年を見ていた。

戸惑いに溢れていた少年の目を、その一口が輝きに変えた瞬間を、見逃さずにずっと。

「すごい……すごく、おいしい、ですね…!」
「えぇ、えぇ!そりゃあそうでしょうねぇ、なんと言っても、私の特製アップルパイですもの!」

自慢のレシピなの!と胸を張って語る老婆。その様子を、輝いた瞳で見つめ、期待に胸を躍らせて聞く少年。

「これは幸せのアップルパイ。誰かの悩みや憂いごとを吹き飛ばす程、美味しくて、幸せになれるアップルパイなのよ」
「幸せの…」
「そう!悩み事なんてしたって仕方がないわ。だったら、美味しい物を食べて幸せにならなくちゃ!ね?坊や」

───不思議な老婆だった。

まるで、その家と一緒に御伽話から現れたかのような…霧のような時間だった。
少年は家に帰ると、厨房のシェフ達をじっと見詰めた。彼らとあの老婆の違いは何なのか、それが気になったのだ。
でも、シェフ達には「厨房は危険です」と追い返されてしまい、メイドからも「お怪我をなさると大変です」と牽制されてしまう。

…知りたい。

「あの」

一歩踏み出す、勇気を。

「僕、アップルパイを焼いてみたいんです」

どうやったらこんなに美味しいアップルパイが作れるのかと呟いたら、老婆が「レシピを教えてあげる」と、沢山のレシピが載った、手書きの本を手渡してくれた。いいのかと問えば、それのレシピはもう全部、頭の中にあるからと言って、譲ってくれた。それを読んでいるうちに、それに夢中になって、レシピを見るのが楽しくて、楽しくて仕方がなくて…

「坊ちゃん、突然どうなさったのです」
「厨房は危険だと前にも…」
「どうしてもこのレシピのアップルパイ、焼いてみたいんだ。」

彼らは少年を厨房に入れるか否かを悩んだ末、渋々承諾。厨房にある道具から何から、初めて見る物ばかりなのに、使い方も定かではないのに…不思議と、道具が自分を待っていた、自分もようやくこれを手にできた、そんなような気持ちになった。道具を持てば、道具がそれに答えるかのように動いていった。その手際は付き添いのシェフやメイドが目を見張るもので、教える事すらないのではないかと思う程。彼はただレシピを読んだだけ。料理などした事のない少年が、修行を積みようやくにシェフまでなった自分らが劣っているようで…夢でも見ているのではないか、そんな事すら考えてしまう。だが、アップルパイが焼き上がると、それは歓声を響かせた。だけど少年は騒ぎを聞き付けて、両親が来る事を恐れていた。そうなる前に、この初めて焼いたアップルパイを届けなければ。こんなに楽しくて、こんなに心が弾む素晴らしい事を教えてくれたあの人に、届けるんだ。

一切れを大事に包んで、あの家へと走る。辿り着いた時、息切れをする少年を見た老婆は相も変わらず優しく笑って迎え入れてくれた。背をさすり、紅茶を入れて落ち着かせてくれて…そうして、アップルパイを焼いて来たと伝えると、オーバーなくらい喜んでくれた。初めてだからうまく出来たかは分からない。だけどこれだけでもう"作ってよかった"と思えた。…そして

「──美味しい!」

この言葉が、どれだけ嬉しいか。

「ほ、本当!?」
「貴方、本当にこれが初めてなの!?信じられない!こんなに美味しいアップルパイ初めて!」

貴方天才だわ!と言いながら幸せそうに食べる老婆。それを見ていた少年は、その姿が本当に、本当に嬉しくて堪らなくなった。

「ねぇ貴方、私の夢を継いでみない?」
「おばあさんの、夢…?」
「そう!私の夢はね──」

『自分の菓子店を持つ事』
 
 
老婆は子供のような瞳で夢を語った。小さくて、賑やかで、人々の心を、幸せをお菓子で繋げられるような素敵なお店…名前を『ラムダ・クォーツ』。しかし、それは叶えられず今に至る。元々体が強くなくて、店の切り盛りが難しかったのだと彼女は言った。夢は夢…だけど諦めは付かなくて、娘と孫に話はしてどちらもセンスはいいのだが、菓子作りはどうもイマイチらしい。おばあさんの夢…継げるのなら、継ぎたい。しかし実際の所は迷っていた。彼女の夢を継ぎ、菓子店を建てるか…家族の期待に応え、家を継ぐか…いや、自分の心は確実に決まっていた。でも決められなかった。それから少年は、老婆の家に通うようになった。家でこっそり菓子を焼いては届け、その度にあの言葉達をくれるのが嬉しくて嬉しくて…
 
そんな日々が2年続いたある日。
 
勉強で机に向かっていた少年に母の叫ぶような声が響いた。一体なにかと扉を開けそちらへ向かうとそこには、母と父、そして普段厨房にいるシェフとメイド達───…名を呼ばれた瞬間、返事をするまもなく父が少年を殴り飛ばしていた。理由は…もちろん検討が付く。
 
 
「ラディアン・フォン・クォーツ・スィーニュ。お前のすべき事はなんだ。」
「……………」
「あぁぁ…ランディ…どうしてこんな…!」
「この家の後継ぎが、菓子作り如きに夢中になるなどあってはならん!!!」
 
 
──あぁ、これだ。これが自分の恐れていた事。

分かっている。

だけど、

「僕は、パティシエになりたいんです。」

バレたなら、正面からぶつかるしかない。 

それ以降、家族の間はそれはもう険悪としか言い様がない有様だった。しかし後悔はなかった。覚悟が出来ていたから。

それから暫く経つと、おばあさんは体調を崩してよく寝込むようになっていた。そこで初めて彼女の娘や孫の彼女達に出会った。

「…ふーん?アナタがおばあちゃんの跡取りなのね?」
「な、なに…」

少女は少年の周りをくるくると見回して、目の前で腕を組んだ。

「センスは悪くないわね!うん、合格!」
「はぁ…?」
「またそうやって品定めをするんだから…ごめんなさいねランディ?孫は小さいわりに態度が大きいのよ…それと、センスはアナタの方がよっぽどいいわ!」
「えー!?そんなハズないわ!だってわたしは世界一のデザイナーになるんですもの!」

そう、この親子は服飾関係の事をしている。おばあさんの言っていた「センスはいい」と言うのはこういう事…お見舞いに持ってきたお菓子をテーブルに並べてお茶を入れる。人が増えてもする事は変わらない。でも、帰り道でただ、一人考える。

「分かってるんだ…」

『分かっている』

そう思う度、心が痛い。
こんな状況とは言え、自分は家族を愛している。本当なら裏切りたくはない。いつか…いつかきっと家は継ぐ。でも、それよりもパティシエとして腕を磨いて店を出すというのが、気持ち的にも最優先だった。だけど今の歳で自分が店を開くのも無理がある。悩みは尽きない、とため息を吐く。

母は嘆き、父親にどやされるのはお世辞にも気分のいいものではない。反発して外に出ている事も増えた。と言っても行く所は決まっている。

「あ〜!ランディってばまた両親とケンカして来たわねぇ?」
「はいはい、そうだよ」
「不良息子のクセになによそれぇ〜!」
「も〜、うるさいなあ!反発しないとおばあさんの夢継げないだろ!?こっちはただで冴え反対されてるんだから!」

穏便に済むんだったらそうしたいと、おばあさんの孫娘との言い合いもいつもの事。

それでもこの生活が楽しかった。

きっとこれが"普通"なのだと感じられたから。

「相変わらず2人共仲がいいわねぇ!」
「「よくない(です)!」」

だけど、命というのは無慈悲だ。

「おばあちゃん…おばあちゃん…!」

俺は会えなかった。

あの人の最後に

「母は最後に…いつも通り、『ランディのお菓子が食べたいわね』と言っていたわ」

こんなにも愛して貰っているのに、間に合わなかった。

「気に病む事はないわ…母は本当に幸せな人だもの。それより、お願いがあるの…」

『娘を励ましてあげて』

…彼女も、おばあさんがとても大好きで、きっと居なくなるなんて想像も出来なかったんだろう。ずっと、ずっと泣いている。

その姿で、心に1つの結論が出た。

「おばあちゃん…どうして…」
「…おばあさんは君がそんなに泣く事を望んでないと思うよ」
「そんなの分かってるわよぉ!でも…でも」
「俺、『ラムダ』になる」

突然の言葉に、彼女は顔を上げて彼を見た。その視線を逸らす事無く、真っ直ぐ見詰め言った。

「俺はおばあさんの夢を継ぐんじゃなくて…俺が、おばあさんの夢になる。

俺が…『ラムダ・クォーツ』になる。」

彼女の涙を拭って、言った。

「今日はエッグタルトを焼いたんだ。どうか、いつもみたいに笑ってくれるかな?」

その言葉を聞いた彼女は瞳を輝かせた。きっとおばあさんが口癖のように言っていた夢の話を思い出している。

『悲しかったり辛かったり、泣きたくなったらみんなこの店に来て、私のお菓子を食べて、笑顔で家へ帰っていくの!もちろん楽しくても嬉しくてもうちに来て、思う存分幸せになって貰うのよ!…繋ぎ止めるラムダ、幸運をもたらす美しい宝石のクォーツ。とっても…とっても素敵な、魔法のような店でしょう?』

止まらない涙を振り払って、差し出されたエッグタルトを手に取り、口に運ぶ。それでも涙は増えるばかりだけど

「美味しい…とっても、美味しいわ、ラムダ…!」

悲しくはなかった。

おばあさんが夢にまで見た彼女の店。

そう、店が無くても、きっと誰かをお菓子で幸せにする事は出来る。

…それが、彼の答えだった。

その帰り道に、河原で一人本を読む黒い髪の少年が視界に入った。あぁ、知っている…いや、この辺りで彼を知らない人はいない。

「…何をしているんですか?」

そっと声を掛けると、彼は数秒遅れてこちらを向いた。

「お付もなしでお散歩ですか?」
「…私でも、一人で本を読みたい事くらいありますよ。」

聞けば、予定されていたお見合いの時間を見計らって出て来たらしい。彼の事情は恐らく大半の人間が知っている。だからお見合いの話が絶えない事も知っている。彼の性格上、断り続けるもの気が滅入ると、最近は隙を見付けて抜け出しているのだとか…

「残りですけど、食べますか?」
「…エッグタルトですか?」
「俺が焼いたのでよければどうぞ」

構いませんよとエッグタルトを手に取り、自分の時とは違い…初めて出会う人から渡された菓子を躊躇うことなく口にした。そして彼は褒めた。とても美味しい、売っていてもおかしくないと…いつも言って貰ってはいたが、人が違うだけで不思議なくらい嬉しくて…似た環境下同士、日が暮れるまで時間を忘れて話し込んだ。

「貴方はきっと素晴らしいパティシエになりますよ、ラムダ」
「領主の息子に言われたら、なるしかないね?ヴィスィー」

少年達にとって、互いが初めて"友"と呼べる存在であった。

2年後に彼は、運命の相手と出会う。
今はまだ、音の静かな世界。

それから幾つも時が過ぎた。

親友と付かず離れず、マイペースな付き合いをしたり、彼女と喧嘩をしたり沢山の事があって…大人になって、結婚もして、念願の店を開いて…ずっと幸せだった。

「ねえラムダ」
「ん?」
「貴方、随分甘くなったわね」
「甘く?甘い匂いが染み付いたってことかな」

小首を傾げている彼にべ、と舌を出して違うわよと否定してぽつりと「砂糖吐き…」と零すと、彼も思い付いたようにあぁ、と零した。

「最近お客さんとばかり話しているからかい?なら、今お茶を淹れるよ。君の好きなスフレチーズケーキも焼いてあるんだ」
「もう!違うわよ!そうじゃなくて」
「食べないの?」
「…食べるわよ」

喧嘩をしようと仕掛けても、彼のスイーツの魔力にどうしても勝てずに、悔しさが滲む。けれど、それがまた好きでたまらない。彼の焼いたスフレチーズケーキも、口に入れた瞬間しゅわあと溶けて無くなってしまう綿菓子のような軽さ。それでいてふんわりしっかりと香るクリームチーズの香り…こちらもまた、好きでたまらない。

「ほんと、いつからこんな砂糖の魔術師になったのかしら…」
「ふふ、それはパティシエとして褒めてくれてるのかな?」
「イヤミ言ってんのよ!」

ばか!とクッションを掴んで思い切り彼にぶつける。いつもの事だと笑う彼にばしばしと

「あっはは…困ったお嫁さんだ」
「だからそういう…そういうとこの事言ってるのぉ!!」
「ごめんね?お客さんに嫉妬した?」
「そうじゃない…」
「大丈夫だよ。お客さんはお客さん。君は俺のかわいい奥さんだ。心配しなくていいんだよ?」

彼女の頬を撫でて優しく微笑んで見せるが、彼女は少し硬直してから、思いっ切り彼の顔にクッションをぶち当てた。

「も〜〜〜!!!ほんと、ほんっっっっとに!昔の塩気どこに行ったのよぉ!!!」
「っぶは…」
「あんたもうほんと…!昔みたいな子供じゃないの!ずっとずっと格好良くなってるの自覚してって言ってるのよ!!!そんなベタベタの甘々でたらし込んでどーする気なのよ…!ッバカ!!!」

そっぽを向いて、気分を誤魔化すようにスフレチーズケーキを口に運ぶ。その姿を見て彼はまた笑う。

『幸せだ』と

彼がスイーツを作り、彼女が服を作る。

イメージを刺激し合い、形作り、彼らの居場所は2つのセンスで彩られて行った。

その彩が、行き場を無くすまで。

「ラムダ」
「ん?」
「急でごめんなさい…でももう気付いちゃった」
「…急に謝るなんて君らしくないね」
「…離婚しましょう」

居場所は、彩で溢れ、もうどこにも増やす事が出来なくなってしまった。

紅茶の入ったポットを持ったまま、落としそうになりながらも彼女が座るソファまで駆け寄った。

「どうしたの…?俺の事はもう嫌い?」
「、違うわ!そうじゃない…そうじゃないの…!ラムダを嫌いになんて…なれない…っ」
「…じゃあ、どうしてか…話を聞かせてくれるかい?」

苦しんで、悩んで、ずっと誤魔化していた事がある。彼は向かいに座って、彼女に紅茶を飲むように勧める。小さくありがとうの言葉を紡ぐとティーカップに口付けた。

…いつも通り、とても美味しい。

美味しくて…あの時のように涙が出そう。

「…わたし、貴方のセンスに甘えてた。」

彼は自分をいつも驚かせてくれる。だけど、自分は自分が思っている程彼を驚かせた記憶が無い。スランプの時だって、いつも優しく励ましてくれて、大好きなスイーツを沢山作ってくれて…支えてくれる彼がいなければ、きっととっくに挫折している。離婚だって、後悔して引き摺るのはきっと、自分の方だ。

「…でも、それでも…!私は私の夢をこのまま霞ませたくない…!もっと、納得のいく服を作りたい…!っでも!私、貴方に…!ランディの優しさに、ずっと…ほんと、ずっと甘えてた…っ これじゃ、これじゃあダメなの…!」

こんな事を急に話しても、この人は怒りはしない。ただ…ただ今は、今回ばかりは怒って欲しい。怒って、追い出して欲しい。…そうすれば、きっと、諦めがつく。その筈なのに

「…ごめんね」

貴方はどうしてそんな顔をするの。

「俺は君といるのが好きでね、君と案を出し合うのが好きだよ。だけど、俺は君の葛藤に気付けなくて、君をずっと傷付けていたんだね。」
「…」
「ごめんね。もう、君がそう決めてしまったなら…俺は止められない。正直に言うと、ずっと一緒に暮らして欲しいけど、俺が君の夢に足枷をしているなら、遠慮なく捨てて。君の夢がこれ以上の幸福をきっと待ち侘びてる。」

そう…そうだ。私はまた甘えようとしてる。
この優しさが…私にはきっと、甘すぎたんだ。
柔らかいパンケーキにバターとアイスクリームを乗せて…たっぷりメープルシロップをかけたような人。

何度でも言うわ。離れたくないのは私の方…

「貴方は許してくれるの……どうして許せるの…?こんな急な非常識、どうして受け入れてくれるの…!」
「非常識なんかじゃないさ。君はずっと考えていただろ?それを、勇気を出して言ってくれた。俺にはそれだけで十分だ。…だから、もう泣かないでくれるかい?愛しい人。」

崩れる妻を支えて、日に日に塗り替えていた鮮やかな恋を終わらせる。これが最後。
それから日は経ち、別れた2人は夢に再び歩みを始める。

──────

「…それで、今度エルダーに店を構える事にしたんだ。だから、また暫く会いに来られないんだ。」

墓石の前に座って語る男は、墓石に可愛らしい包を添えた。

「俺は、貴女の夢に…貴女の思うような『ラムダ・クォーツ』になれたかな。」

いいや、きっとなれた。そう信じて、また新たな誰かを繋ぎ止め、幸福を与えにエルダーへと旅立つ。

きっとあの老婆は魔女だったのだろう。
自分は魔女の魔法を食べてしまった。
そして今度は、魔法使いとなった自分が誰かに魔法をかける番だ。

扉が開き、ベルが鳴り、客を向かい入れる声が今日もする。

「いらっしゃい。今日は美味しいアップルパイが焼けているよ。」

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