古墳の数への一考察

✡ はじめに

過般、平成29年3月文化庁文化財部記念物課発刊、『埋蔵文化財関係統計資料ー平成28年度ー』参考資料 平成28年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数⑧古墳・横穴 現存なるものを見ていたところ、Wikipedia「古墳」には、以下のように要約されて記載されてあった。

・周知の古墳の数(都道府県別) - 2017年度(平成29年度)末付け、文化庁、2018年(平成30年)5月21日発表。
・第1位 兵庫県(17,647基)、第2位 鳥取県(12,546基)、第3位 京都府(11,556基)、第4位 岡山県(11,038基)、第5位 千葉県(10,494基)。
都道府県別で最も数が多いのは兵庫県であり、この順位が変動する可能性は目下のところ低い。しかし2位以下は大きな変動を見せている。と言うのは、この引用には前回の記録とも言うべきものがあって、

・周知の古墳の数(都道府県別) - 2001年度(平成13年度)末付け、文化庁発表。
・第1位 兵庫県(16,577基)、第2位 千葉県(13,112基)、第3位 鳥取県(13,094基)、第4位 福岡県(11,311基)、第5位 京都府(11,310基)。全国総計 161,560基。
となっている。古墳は未調査・未認定のものが加わったり破壊されて消滅することによって数が変動する。(Wikipedia「古墳」)

前回(2001年度)第2位 千葉県(13,112基)が大きく後退し、2017年度では、第5位 千葉県(10,494基)となっていて、一般人の常識から言うと、「どうしてそこにあった2618基もの有形文化財がなくなるのだ」と言う思いだ。もっとも、Wikipediaでは「破壊されて消滅する」とあるが、それでは千葉県は「金、金、金、マンション、マンション、マンションのガリガリ亡者」ではないのか。一応、兵庫県や京都府など歴史のある県や府は辛うじて増えているが、ほかの県は「開発、開発、開発」で文化財どころではなくなっているようだ。吉備国や筑紫国として古くは有力地域国家だった岡山県や福岡県も浮沈を繰り返しているようだ。
もっとも、古墳の数は古墳時代に造られた数と同じであり、その後の各地域の順位が変動するのは後世(特に現代)の作為に依るとも考えられる。後世の人間はもっぱら壊すのが専門で、未調査・未認定のものが加わる、と言うのは、今までのカウント漏れを正規の数に正したと言うことである。そこで、古墳の問題をその起源に遡らせ検討してみる。

✡古墳の起源

「古墳発生の問題は、戦前から議論されていた。その中で、この問題を日本古代国家の形成途上における政治史の課題として位置づけたのは小林行雄であった。具体的には、伝世鏡論と同笵鏡論を展開した。この両論に疑問を表明したのは後藤守一、原田大六、森浩一、伝世鏡論に疑問や同笵鏡の分有関係の解釈について斎藤忠、系統的・理論的に批判した内藤晃、鏡の賜与だけをもって大和政権と地方首長との政治関係の成立を考察するのは困難とする西嶋定生などがいた。」(Wiki)

一応、古墳は我が国の墓制の一環として、縄文時代の埋葬(屈葬、抱石葬など)、ストーンサークル、伸展葬、土壙墓(長さ2m以下の楕円形か長方形のものが多く、深さは30cmほどの土を掘って穴を作っただけの墓)、など住居の近くに埋葬した縄文墓制から、集落から少し離れたところに墓地を作ることが一般的となった弥生墓制に変わる。木棺墓、甕棺墓、石棺墓、支石墓、墳丘墓、方形周溝墓、大型墳丘墓など。これらの中・小型墳墓に比べ古墳時代の大型古墳は異質なものである。「鏡の賜与だけをもって大和政権と地方首長との政治関係の成立を考察するのは困難」と言うのも宜なるかなではある。また、形が大型になったのも、
1)弥生時代の簡単な構造の墓が,しだいに複雑化し,規模を大きくした。
2)共同体における司祭者としての任務をもっていた首長が,その地位の固定と権力の増大とによって,首長権の世襲に向かって一歩を踏み出したときに,古墳を作りうるような首長層が発生した。
3)多数の労働力をその工事に動員できるような,首長層の存在のほかに,工事に必要な道具の用意が必要である。(土師宿祢、出雲臣、伊与部、六人部連、尾張連、伊福部宿祢、石作連、水主直、三富部、津守宿祢などの古墳造営専門職)
いずれもお説ごもっともではあるが、古墳時代がやや一挙に到来しているところを見ると、我が国初の古代国家形成に際し、当該統一王の母国の墓制を採用したのではないか。上述の古墳造営専門職の出自も天穂日命とか天火明命を祖神とする氏族が多く、いずれも本来の出身地は山陰地方が多い。例として、天穂日命は出雲氏、土師氏などの祖神で、土師は読んで字のごとく土木建築業と思われ、出雲氏も「雲太、和二、京三。今案、雲太謂出雲国城築明神神殿。和二謂大和国東大寺大仏殿。京三謂大極殿、八省。」と言われたように巨大な神殿を造営し、本業は建設業であったのではないか。出雲氏の有力氏族も建設業者が多い。神門氏など。天火明命は、「天穂日命の系譜、つまり天津神系の出雲神を源流としていることが伺える。」(Wiki)と言う見解もある。言うなれば、天穂日命と天火明命は同一系譜に連なる神ないし人物か。また、以下の見解もある。「(天火明命は)尾張氏が後裔氏族として名前を連ねている点に関しても、系譜記載に対する尾張氏の関与が指摘されている。」(國學院大学 古事記学センター)と。諸説混沌として解りづらいが、私見では天穂日命と天火明命は神名が似ていて(穂日の日を「あかり」と翻訳しただけ)、天穂日命が出雲国へ進出し、返す刀で丹波国(丹後国を含む)をも征服したかとも思われる。いずれにせよ、我が国の祖先神は非常に多く、かつ、各氏族により恣意的に利用されているようだが、エポックメイキングな時代と言えば、神武王朝の終わりと言える「欠史八代」と「イリ王朝」「ワケ王朝」の頃ではなかったか。そして最終的にヘゲモニーを握った「ワケ王朝」の墓制が倭国の墓制となったのではないか。以下、各王朝の天皇の墳丘長を見てみると(宮内庁治定)、

神武王朝

第八代孝元天皇陵
「延喜式の諸陵寮の後、所伝は失われ、元禄の探陵において現陵に治定。」と言うので割愛する。

第九代開化天皇
陵(みささぎ)の名は春日率川坂上陵。
宮内庁により奈良県奈良市油阪町にある遺跡名「念仏寺山古墳」に治定されている。
墳丘長約100メートルの前方後円墳。宮内庁上の形式は前方後円。

イリ王朝

第十代崇神天皇
陵(みささぎ)の名は山邊道勾岡上陵。
宮内庁により奈良県天理市柳本町にある遺跡名「行燈山古墳」に治定されている。
墳丘長242メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円。

第十一代垂仁天皇
陵(みささぎ)の名は菅原伏見東陵。
宮内庁により奈良県奈良市尼辻西町にある遺跡名「宝来山古墳」に治定されている。
墳丘長227メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円。

ワケ王朝

第十二代景行天皇
陵(みささぎ)の名は山邊道上陵。
宮内庁により奈良県天理市渋谷町にある遺跡名「渋谷向山古墳」に治定されている。
墳丘長300メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円。

以下、天皇等の巨大古墳が続く。

以上を簡略にまとめると、開化天皇陵が約100mと西求女塚古墳(兵庫県神戸市灘区)の墳丘長98m、元稲荷古墳(京都府向日市)の墳丘長94mとはほぼ同一規模で、おそらく当時の近畿地方では大豪族の墳墓は中・小型古墳が一般的だったと思われる。急に倍増したのが「イリ王朝」の崇神・垂仁陵で、おそらくお二方は吉備国の出身で、神武王朝消滅後本来なら序列二位の大伴氏が「大王(おおきみ)」となるところを大伴氏の都合で吉備国からも人材が招聘された。大伴氏が招聘したのは、いわゆる『魏志倭人伝』に言う「卑弥弓呼」や『記紀』に言う「吉備津彦命」とか、「稚武彦命」とかではなく、「むら」(一定地域)の首長ほどの人物ではなかったかと思われる。大伴氏としては吉備国には調略の大伴氏と武力の忍代別(景行天皇)で対抗したのであろうが、おそらく大伴氏の妥協のしすぎで忍代別の不満が爆発し、忍代別は別途軍事同盟を結成し(参加有力者としては葛城とか倭国造とか山代内臣、賀茂、物部、吉備武彦系の吉備などがある) 吉備を払いのけたのではないか。景行陵は吉備系の一倍半の大きさである。この場合は、大型古墳の起源は山陰の大型方墳と言うことになるのだろう。大型古墳には吉備系の古墳もある。「宮山型特殊器台は奈良県桜井市の「箸墓古墳」、天理市の「西殿塚古墳」、「中山大塚古墳」、橿原市の「弁天塚古墳」からしか出土していません。」と言い、思い当たるのは、『魏志倭人伝』で邪馬台国の官に「邪馬壹国  官有 伊支馬 次曰 彌馬升 次曰 彌馬獲支 次曰 奴佳鞮」と。私見ではこれらの人は大伴氏が懐柔した吉備の人と思われるが、もしそうなら、宮内庁により奈良県天理市柳本町にある遺跡名「行燈山古墳」(崇神天皇陵)は卑弥呼女王(倭姫命)の墓に、同じく宮内庁により奈良県奈良市尼辻西町にある遺跡名「宝来山古墳」(垂仁天皇陵)は台与女王(豊鍬入姫命か)の墓となるのか。また、「前方後円墳に宮山型の特殊器台・特殊壺(岡山県総社市宮山古墳。弥生墳丘墓から前方後円墳への移行時期の古墳で、「むら」の首長の墓か)が採用されていることは、吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画したことの現れだとされている(吉備勢力の東遷説もある)。」(Wikipedia)と言うのも、例えば、神戸市の西求女塚古墳や処女塚古墳では「祭祀に用いられた土師器には山陰系の特徴をもつものが出土している」と言うのと同様、宮山型の特殊器台・特殊壺も吉備国から古墳造営用に贈られたのではないか。墳墓が急に大型になったのも軍事同盟における大和国の優位性を示すため吉備国の様式を取り入れたからか。そもそも、吉備国は政権中枢にも親大和とか親大伴の人々が多く、とても大和国の乗っ取りまでは行かなかったのではないか。大和国には多くの国からの遺物があり、「吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画した」とか「吉備勢力の東遷説」は今のところは考えづらい。そういうことがあれば、文献的にも何らかの痕跡が残っているはずだ。但し、私見で恐縮ではあるが、欠史八代の後のイリ王朝の崇神天皇、垂仁天皇は吉備の出身と思われ、はたまた、『魏志倭人伝』に言う「官有 伊支馬 次曰 彌馬升 次曰 彌馬獲支 次曰 奴佳鞮」も吉備国の人で、卑弥呼女王の頃に既に吉備国から何らかの人材登用をはかっていたと思う。従って、「吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画」と言うのは、吉備津彦のことではなく、序列二位とか三位の人で単刀直入に言えば邪馬台国に寝返った人であり、「吉備勢力の東遷説」はあり得ない話で、総じて邪馬台国ないし大伴氏が大和へ吉備国中堅人材の一本釣りをした、と言うことかと思う。吉備国の主流(卑弥弓呼、狗古智卑狗など)が大和へ来たわけではない。吉備国から見ると崇神、垂仁は裏切り者以外の何者でもない。

✡周知の埋蔵文化財包蔵地数の古墳・横穴(現存)2017年の都道府県別数

古墳時代が始まった理由は、一に崇神・垂仁の吉備系大型古墳、二に景行の山陰系大型古墳にあるかと思うが、当初の目的は応神・仁徳の半島出兵による国家財政困窮にあったかと思う。おそらく武内宿禰の発案かによる「墳墓有償案」(当時は、半島から生還しても半島の劣悪な戦場での栄養失調等による早死、感染症の流行等(例えば、好太王は享年39歳といい、息子の長寿王は98歳と言うのも、好太王は何か感染症にでも罹って亡くなったか)で亡くなる者が多かったので武内宿禰の目の付け所は良かったが、有償というのが不評で、結局、応召して戦地に赴いた者の論功行賞(無償)で墳墓(古墳)が造られたのではないか。大伴武以などは反対だったろうが、「吉備からあんな馬鹿でかい墳墓を導入したのはお前の親父(武日命)だぞ。当時は物事すべからくお前の親父の采配一つで決まっていた。」と嫌みを言われ武以はポシャってしまった。武内宿禰は申し訳ない気持ちであっただろう。
ところで、倭・高句麗戦争の兵站(へいたん、英語: Military Logistics)を担ったのは大伴氏と思われ、特に、徴兵業務には大きな勢力が割かれたと思う。その形跡を考察するに、

・周知の古墳の数(都道府県別) - 2017年度(平成29年度)末付け、文化庁、2018年(平成30年)5月21日発表。
・第1位 兵庫県(17,647基)、第2位 鳥取県(12,546基)、第3位 京都府(11,556基)、第4位 岡山県(11,038基)、第5位 千葉県(10,494基)。
によく現れているのではないか。大伴氏といえども徴兵のために縁(えん)も因(ゆかり)もないところへは行かないと思われ、私見の勝手な解釈では、

第1位 兵庫県 大伴氏の出身地である。日岡山古墳群など古墳時代前期の古墳も多い。
第2位 鳥取県 景行天皇や武内宿禰の出身地である。大伴氏とは親族関係にあるか。中小古墳が密集して築造。
第3位 京都府 八咫烏氏の出身地で、同氏と大伴氏は神武天皇以来の旧友である。前方後方墳を同じくする。宇治古墳群など。
第4位 岡山県 仲は悪いが、現代流に言うと隣家同士である。それなりのお付き合いはあった。長福寺裏山古墳群など。
第5位 千葉県 大伴氏と千葉県の関係は不明。千葉・菊間等の各国造は古墳時代草創期より畿内と関係あり。神門古墳群など。

こう見ると、大伴氏はやはり縁故を頼って徴兵を行っていたのではないか。それらの人の論功行賞のため墳墓も美々しくなり、かつ、数も多くなったのではないか。

✡まとめ

古墳時代の起源を各大物豪族の権力の誇示と解する向きが多いようだが、山陰と吉備を除いては常識的な中・小型古墳が主流であり、必ずしも「権力の誇示」が大型化の根源ではない。一応、畿内の古墳大型化は吉備国から導入されたようだ。何度もしつこいようだが、『魏志倭人伝』に言う「官有 伊支馬 次曰 彌馬升 次曰 彌馬獲支 次曰 奴佳鞮」は、伊支馬(活目入彦五十狭茅=垂仁天皇)、彌馬升(観松彦香殖稲=孝昭天皇)、彌馬獲支(御間城入彦五十瓊殖=崇神天皇)、奴佳鞮(足仲彦=仲哀天皇)と思うのだが、活目入彦五十狭茅は「伊久米」「活目」が多いようで、伊久米なら美作国久米郡出身か。また、皇后も日葉酢媛命と言うが、母は丹波之河上之麻須郎女と言い、河上と言うのは備中国川上郡のことか。日葉酢とは備中国賀夜郡日羽郷(総社市日羽)のことか。当該地は高梁川の川沿いにあり日羽州(=日葉酢)と言ってもおかしくない土地だ。また、『古事記』垂仁天皇段末尾に「比婆須比賣の命の時に、石祝作(いしつくり)を定め、また土師部(はにしべ)を定めき」とあるのは古墳造営の二大要素である石材業と土木業を言ったもので、垂仁天皇が吉備国から大和へ大型古墳技術導入を行い、反対する大伴武日(あるいは、豊日)を押し切り自分たちの大型古墳を造営したと言うことか。但し、古墳時代の石材業者は伊福部氏、土木業は土師氏が主力なのでこれらの人々と吉備系の古墳造営業者の検討を要する。もっとも、土師氏は『日本書紀』垂仁紀にも記載があり、出雲系で一体化されているようである。また、伊福部氏は出自はいろいろあるものの天火明命系と思われ、石作氏も天火明命系(祖神を六世孫建真利根命と言う)と考えられ同根の氏族かと思われる。おそらく、伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮の諸氏は吉備国では「むら」の首長クラスの中間管理職的な人で吉備津彦命一族に何らかの不満があったか。そこを大伴氏が狙ったかも知れないが、またまた大和国でも不満を募らせたか。インターネットを見ていたら「イリ王朝」は二代で何ができたの、とか言う意見もあった。『記紀』では皇位の順序を10代崇神、11代垂仁となっているが、傍証(『魏志倭人伝』)では10代垂仁、11代孝昭、12代崇神、13代仲哀となっており、『記紀』や崇神には疑問符が付く。また、「欠史八代」というのも孝昭天皇など一部の人を除いては氏素性の解らない人たちかも知れない。何せ古い神名を天皇名に置き換えただけなどという見解もあるそうな。
もし前方後円墳が朝鮮半島出兵の論功行賞だったなら、倭・高句麗戦争は倭にとっては意外と総力戦になったのかも知れない。前方後円墳がない都道府県は、北海道・沖縄県・青森県・秋田県と言い、ほかに岩手県は1基、高知県は2基と言う。当時の僻地で徴兵担当者も手が回らなかったと言うことか。前方後円墳(前方後方墳を含む)が多いのは、千葉県・茨城県・群馬県・栃木県と言い、後世の防人を思わせる統計である。防人も白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅軍に大敗してから設置されたといい、倭・高句麗戦争も倭が負けたとまでは言えないものの半島からの撤退後に何らかの論功行賞や対高句麗対策が施されたのではないか。
前方後円墳も思いのほか全国に行き渡っており、「ワケ王朝」が半島から帰還後の経済運営を古墳造営で失業対策、秦(土木建築、酒造、養蚕など)、服部(機織。綿・麻織物)、呉服(呉織・くれはとり、絹織物)、赤染(染色)、息長(採銅)、東儀(楽師)等の人材投入で産業振興を図り、思いのほか戦後復興はよく行ったのか。
以上をまとめると、
1.徴兵は畿内およびその周辺地域と東国(現在の関東地方)、九州が主力で、東国からの徴兵は後世の防人の前身となったか。九州は後方支援基地として我が国玄関口の防備に当たったか。
2.国内徴兵は大伴氏により行われたようである。古墳の数も大伴氏に縁故があるところが多い。
3.戦地での徴兵は秦氏等半島在住の人々が行ったか。倭国が10年間余りも現地に居座り続けられたのもこの人たちの存在が大きい。
4.古墳の数が増えてくると専門職の細分化が図られ、古墳のあるところにはメンテナンス係が置かれた。代表例として土師郷と伊福郷を取り上げてみると、

河内国 志紀郡 土師
河内国 丹北郡 土師
和泉国 大鳥郡 土師
上野国 緑野郡 土師
下野国 足利郡 土師
丹波国 天田郡 土師
因幡国 八上郡 土師
因幡国 知頭郡 土師
備前国 邑久郡 土師
阿波国 名方郡 土師
筑前国 穂浪郡 土師
筑後国 山本郡 土師

大和国 宇陀郡 伊福
尾張国 海部郡 伊福
遠江国 引佐郡 伊福
美濃国 池田郡 伊福
備前国 御野郡 伊福
安芸国 佐伯郡 伊福
山城国 乙訓郡 石作

古墳の数に比例していないのは、兵庫県(摂津国、播磨国、但馬国、丹波国<兵庫県部分>、淡路国など)や千葉県(上総国、下総国、安房国)である。伊福郷は東海地方に偏在している。中国地方にもあり前方後方墳と関係があるのか。また、趣の異なる地域としては、丹波国天田郡に六部(むとべ)郷、土師(はじ)郷、宗部(そがべ)郷、雀部(ささいべ・ささきべ)郷と言う古墳造営にまつわる氏族の郷名がまとまってある。しかし、もっぱら土木工事業者であって肝心の石材工事業者はいない。一説に、これらの人々は天田郡の古墳を造営する人々、と言う説もあるが、当時にあってそんなことは許されるのか。但し、天田郡の古墳は後期のものが多いという。規律も緩んでいたか。六人部氏が石槨、石棺の設計・工事を代行したか。雀部(ささいべ・ささきべ)とは、谷川健一説では「陵戸であったから狭狭城を名乗ったのである。このことから雀部(さざきべ)という部民は陵戸、つまり天皇や皇后の御陵の番人を指したと考えられる」と言う。また、夜久郷というのもあるが、これは古墳造営には直接関係しないが「夜久」の語源は「焼く、焼き」で副葬品や葬儀の際の土器を製作する人の集団ではないか。福知山市夜久野町末や須江神社があり、末、須江は陶器(須恵器)の陶のことである。私見では、天田郡は古墳造営業者への人材供給地域で古墳造営職人の発祥の地ではなかったかと思う。山城国久世郡水主郷は大和・山城の古墳造営業者のための職人の集積地か。当該地の陶器製作は「現状で最も古い窯は、末五号窯(関垣一号窯)であり、窯の焚口部分が調査されている。ここから出土した土器から七世紀前半に位置づけられる。」と言うが、「妙見古墳群(大門)京都府福知山市大門妙見ほか。市報40(古墳中期〜後期-土師器+須恵器)。市報44(不明-土師器+須恵器)」と言う見解もある。必ずしも、古墳時代後期のものばかりではないらしい。
5.日本の墳墓は諸外国のように権力者が「権力の誇示」のために建てたもの(墳丘長200m以上)は少なく、庶民(中間階級の人)に対する論功行賞のために建てたものが多く、従って「数も多く」、「古墳時代も長続きした」のではないか。窮乏生活を説いた仁徳天皇が世界一の陵墓を造れと言ったなどはさらさら考えられない。

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