西求女塚古墳再考

✡はじめに

西求女塚古墳は著名な古墳なので再考してみることにする。何回も書いているので今回は項目を整理して簡潔に述べることにする。
特徴的な項目については、
1.墳形について
2.六甲山系の丘陵部に築造された古墳群と平地上に造られた比較的大型の古墳群
3.山陰系土師器
4.古墳に伴う集落の実態
5.天井石
6.石室の構造
7.銅鏡
8.織物
9.赤色顔料
10.鉄の遺物
11.紀年銘鏡

出典は原則として『西求女塚古墳 第5次・第7次発掘調査概報 神戸市教育委員会文化財課』とする。

✡墳形

西求女塚古墳の墳形は少数派に属する「前方後方墳」で、この墳形の古墳は京都府向日市の「元稲荷古墳」が著名である。大王墓には前方後方墳はないようで、臣下の古墳と言ってしまえばそれまでだが、西求女塚古墳は兵庫県神戸市にあり、元稲荷古墳は京都府向日市にある。共通項と言えば兵庫県神戸市は後世の大伴氏(道臣命)の本拠地であり、京都府向日市は八咫烏氏(カラスのことと言う)の本拠地と思われる。この二人は神武天皇即位後の論功行賞で、道臣命(大伴氏の祖)築坂邑の宅地・大来目(久米氏の祖)来目邑の土地、・椎根津彦(珍彦)倭国造に任命・弟猾(菟田主水部の祖)猛田県主に任命・弟磯城(黒速)磯城県主に任命・剣根 葛城国造に任命・八咫烏(葛野主殿県主部の祖)(不明)、とあり、道臣命と八咫烏を除くほかの五人は神武天皇の本拠地である奈良盆地の人であり、道臣命と八咫烏は別の国の人だったのだろう。即ち、道臣命と八咫烏は別に守るべき領国があり、神武天皇と奈良の五名の豪族は奈良盆地を守るための人たちである。これは現代流に言うと論功行賞などではなく、神武天皇以下の奈良盆地を守るための軍事同盟だったと思われる。具体的には、大伴氏が吉備氏に負けそうになると神武天皇以下の奈良豪族勢が神戸まで遠征したのである。その逆はほとんどなかった。当時の奈良盆地はさしたる魅力のある地域ではなかった。
「向日丘陵で相前後してつくられた前方後円墳である五塚原古墳と元稲荷古墳を比較しても、墳形の違いはありますが墳丘構造や造営技術の面で質的な差を見いだすことはできません。両古墳の被葬者間で王権中枢部から与えられた政治階層的序列に大きな差異は無かったものと思われます。」<『元稲荷古墳第10次調査 現地説明会 資料』(向⽇市教育委員会)>
おそらくこれは、「八咫烏」と言うのが「八咫<ヤタ>」と「烏<カラス>」の合成語で八咫は後世の丹後地域の豪族で、烏は後世の山城地域の豪族ではなかったか。言わば、八咫烏とは複姓と思われ、八咫は漢字では矢田と書き、烏は烏と書いたと思われる。このうち、矢田系の人が前方後円墳を烏系の人が前方後方墳を選んだのではないか。方墳とは何かというと山陰系の墳形で四隅突出型墳丘墓が著名である。そこで、前方後方墳を選んだ理由であるが、道臣命も八咫烏も神武天皇以来の大和朝廷の重鎮で、おそらく卑弥呼女王や台与女王の軍事後見人としての立場を強調するためこう言う墳形になったのかも知れない。あるいは、当時の国のトップは卑弥呼女王だったので、女性用古墳として設定されたがあまりにも大型で美々しかったので大王墓の墳形に指定されたか。要するに、前方後方墳は次席の人の墳形だったか。しかし、世界的に見て王の墳墓の形は方墳が多く(秦の始皇帝陵、テオティワカン<月のピラミッドと太陽のピラミッド。神殿説あり>、クフ王のピラミッド、高句麗将軍塚<19代好太王陵か>など。円墳はヨーロッパで紀元前2,200年~800年の青銅器時代~鉄器時代に、王や有力者を円形の墳丘墓に葬る風習が盛んになり、鉄器時代には直径100mに達する巨大なものも現れました。)、日本でも古墳時代末期には大王墓も方墳になった。あるいは、西求女塚古墳の被葬者は始皇帝陵を知っていて方墳に方墳をつないだか。そもそも、日本の前方後円墳とか前方後方墳は円墳や方墳の基本形に方墳を着けたものでこれは何を意味するのか。有力説では円墳や方墳の墳頂で行われていた祭祀を前方部で行うようになった、と言う。

✡六甲山系の丘陵部に築造された古墳群と平地上に造られた古墳群

「神戸市の市街地から芦屋市にかけての六甲南麓には前期古墳が点々とあるが、大きく2つのグループに分けることができる。1つは得能山古墳・会下山二本松古墳・夢野丸山古墳といった西半の六甲山系の丘陵部に築造された一群である。一方、西求女塚古墳以東の処女塚古墳。東求女塚古墳・ヘボソ塚古墳・芦屋市阿保親王塚古墳の東半の一群は平地上に造られた比較的大型の一群である。前者は三角縁神獣鏡を持たない小規模な古墳であり、後者は舶載の三角縁神獣鏡や他の中国鏡が複数面出上している。」

得能山古墳・会下山二本松古墳・夢野丸山古墳は全て墳形は前方後円墳であり、舶載の三角縁神獣鏡を持たないなどと決めつけられても遺物には舶載の鏡や鉄刀、鉄剣、鉄鏃などがあり、一応、当時の埋納品の一揃えはあると思う。小規模な古墳になったのは丘陵の突端などに造られ立地条件が良くなかったからではないのか。一方、西求女塚古墳以東の処女塚古墳・東求女塚古墳・ヘボソ塚古墳・戸屋市阿保親王塚古墳の東半の一群は平地上に造られた比較的大型の古墳というのもやや大げさに言うと断崖の上よりは墓地面積も増えて比較的大型の古墳が造営できたのではないか。条件の良い平地の墳墓は氏長者などが墓地として使い、丘陵上のやや墓地に不向きなところは氏長者の家族や臣下のものの墓を造営したのではないか。
「古墳出現期には墳丘長290mの箸墓古墳を頂点に170m、140m、120m、100m、90mなどの大きさによって、地方首長の王権による格付けが厳格に⾏われていた」<『元稲荷古墳第10次調査 現地説明会 資料』(向⽇市教育委員会)>と言うのもいかがなものか。そんな格付けをしてどうするのと言う感じだ。箸墓古墳を卑弥呼女王の墓とするならば卑弥呼女王が独身なこともあってこの王朝は卑弥呼女王で終わった。格付けなどと言うものは当該王朝を未来永劫続けようとするときに行うもの(徳川幕府の御三家、親藩、譜代、外様など)で、「王権による地方首長の厳格な格付け」などと言われても意味不明である。

✡山陰系土師器

「処女塚古墳は全長約70mの南向きの前方後方墳であり、スタンプ文を付した二重口縁壷や鼓形器台などの山陰系土師器が出上している。」

「板石の落ち込んでいる窪みの上層からは山陰系の土師器が多量に出上した。板石が落ち込んでいる窪地は大きく広がり、その上層の黒褐色細砂層から、1次調査時と同様に山陰系土師器が多数出土した。」

「これまでに出土している器種は、大型の二重口縁壷。二重回縁小型丸底壷。直口壷。鼓形器台・低脚坏・高坏がある。これらのほとんどは、いわゆる「山陰系土器」と呼ばれているものである。」

など、西求女塚古墳や処女塚古墳の前方後方墳は山陰系土師器が多量に出土している。山陰系土器とは、
「スタンプで文様を付けた弥生土器は、現在の鳥取県でよく見つかります。なかでも土器棺によく見られることから、お葬式に使われたと考えられています。(岡山市埋蔵文化財センター)」と言い、これによって西求女塚古墳の被葬者の葬式には山陰の人がたくさん来た、とか、葬式の執行者(現代で言うと葬儀会社か)が山陰の人とか、西求女塚古墳の被葬者は山陰地方の豪族とも広くお付き合いがあったとか、果ては、葬儀の後始末をきちんとしなかったとか、諸説がある。
そもそも、前方後方墳は「前方後方墳は弥生後期の墓制から生まれ、近江を中心に首長墓として確立したことが明らかとなった。」(http://usprepo.office.usp.ac.jp/dspace/handle/11355/623)などと言う人もおり、西求女塚古墳、処女塚古墳が前方後方墳、東求女塚古墳が前方後円墳であることを考え合わせると、あるいは前方後方墳が先行し、その後前方後円墳が出現したのかも知れない。前方後方墳の発祥地は方墳が多い出雲地方や伯耆、因幡、但馬、丹後などがあげられると思われる。従って、当時最先端の墳墓形である前方後方墳を採用した西求女塚古墳の被葬者にとっては山陰系土師器が出ても全くおかしくはない。
また、西求女塚古墳や処女塚古墳の被葬者が山陰地方に何らかの基盤があったかは確証はないものの大伴氏が但馬国にその名を残し(大伴姓は兵庫県豊岡市日撫<ひなど>に多い)、景行天皇は実名を忍代別(おしろわけ)と言い、これは【延喜式神名帳】恩志呂(おしろ)神社 因幡国 巨濃郡鎮座【現住所】鳥取県岩美郡岩美町恩志95、と関係があるのではないか。加うるに、武内宿禰は当初景行天皇に忠誠を尽くし「景行天皇の51年正月の宴に〈非常(おもいのほか)に備へて〉門下に侍し忠誠を賞され、同年棟梁の臣となった。」など、因幡国巨濃郡宇治郷出身で景行天皇と武内宿禰は同郷の人ではなかったか。さらに、忍代別(おしろわけ)とか恩志呂(おしろ)神社などの忍代、恩志呂は当時としては珍しい名前や地名であったらしく(小代、小城、尾城、尾代、尾白などの<をしろ>はあるようだ)、忍代別と恩志呂神社はなにがしかの関係があったのではないか。一説に「今此地を恩智と云ふ是旧人の姓名なり。姓氏録曰<恩智の神主高魂命の児伊久魂命の後なり>神號恩志呂は恩智の転訛か」発音が違うのに漢字一字が同じだからと同類と見なすのは賛成できない。『新撰姓氏録』には「河内国 神別 天神 恩智神主 高魂命児伊久魂命之後也」とある。「恩智」は(おんぢ)と読むのが一般的だったらしく、恩志(おんじ)もあるが恩志呂(おしろ)と訓じているので、当時、「ん」の音があったかどうか。「恩智」は後世の読み間違え、あるいは、書き間違えではないか。恩志(おんじ)は地名の二字化政策のたまもので、おそらく「恩志」と二字化して「おしろ」と読ませようとしたのだが、普及しなかった。当時の畿内は、何かにつけてゴタゴタが起こり、紛争が絶えなかった。その場合、畿内の豪族は山陰の豪族に 加勢を求めたのではないか。例えば、山城の(八咫)烏氏は丹波の矢田氏(丹波氏)、摂津の大伴氏は但馬の田島氏(三宅氏)および因幡の忍代氏、吉備の吉備氏は出雲の出雲氏の応援を受けていたのではないか。もし、因幡の忍代氏が祖神は高皇産霊神などと言おうものなら全く大伴配下の人だったのではないか。また、『記紀』に天日槍命の系図がやけに詳しいのも大伴氏の記録があったためか。一応、山陰地方は畿内に比べ比較的紛争は少なかった。

✡古墳に伴う集落の実態

「これらの古墳に伴う集落の実態についてはまだよくわかっていない。西求女塚古墳の近辺には古墳時代前期の大規模な集落址はなく、日暮遺跡や篠原南遺跡で竪穴住居址が数棟見つかっている程度である。この時期の拠点的な集落としてはヘボソ塚古墳と阿保親王塚古墳の中間の扇状地上に立地する森北町遺跡があげられる。」と。
古典にまつわるこの地域の地名としては『古事記』大倭根子日子賦斗迩命(孝霊天皇)の段に、
「大吉備津日子命与若建吉備津日子命、二柱相副而、於針間氷河之前、居忌瓮而、針間為道口以言向和吉備国也。」
<大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二柱相副ひて、針間の氷河の前に忌瓮(いはひべ)を居(す)ゑて、針間を道の口として吉備国を言向け和しまたひき。>
この場合の「針間の氷河」はどこかと言うことだ。一般的には、現在の加古川を指すというのが多数だが、ほかに瀬戸内海側の播磨の大きな川としては姫路市の市川がある。姫路市は今も大都市だが往古も播磨国の国府があり、吉備国にも近く、前進基地として適任なのではなかったか。遺跡的にも「和久遺跡は、弥生時代中期後半から古墳時代初頭にかけての集落遺跡である。これまでに実施した発掘調査により、現在のツカザキ病院敷地内に集落の本拠地となる大きな微高地があり、延べ130棟あまりの竪穴建物が連綿と造り続けられていたことがわかっている。大量に出土した土器の中には、出雲・但馬・河内・讃岐・阿波など、遠方の地域とのつながりを示すものもみられる。」(姫路市埋蔵文化財センター)と言う。また、森北町遺跡であるが『森北町遺跡第20次調査発掘調査報告書2004・12・31神戸市教育委員会文化財課』なる報告書を見ても広大な地域に無数の遺跡があり、ここで取り上げられるものではない。しかも、森北町遺跡の範疇には旧住吉村(現在の神戸市東灘区住吉各町および灘区六甲山町の東部にあたる。)があり、私見で恐縮であるが、この姫路市の和久遺跡から神戸市の森北町遺跡あたりまでが最重要地盤で得能山古墳・会下山二本松古墳・夢野丸山古墳から西求女塚古墳以東の処女塚古墳、東求女塚古墳・ヘボソ塚古墳・芦屋市阿保親王塚古墳のある地域は現代流の大伴氏一族にまつわる墓地ではなかったか。人が大勢住んでいたのは本住吉神社がある旧住吉村界隈や旧本山村、旧魚崎町当りではなかったか。姫路市では和久遺跡(姫路市網干区和久)あたりか。何分にも神戸市は六甲山地が海岸に沿って横たわり、田畑を整えて大勢の人々が居住するには適さなかったのではないか。人間と農業が共存できるのは芦屋市以東および明石市以西ではなかったか。従って、弥生時代後期や古墳時代初期には現在の神戸市には大きな集落はできず、さしたる人も住んでいなかった。ましてや吉備氏と戦う人材は明石市以西に住んでいたのではないか。

✡天井石

「天井石は全部で5石あり、南北に並んでいる。南の2石は、ほぼ完全に残っていたが、北の3石は折れて割れている。」
「石材は最北の石は緑泥片岩で、その他の石は石英斑岩である。これらの石材は、この付近では産出されず、緑泥片岩は和歌山県ないしは徳島県のものである。石英斑岩は西求女塚古墳の約20km東を流れる猪名川を上流に約20km逆上った兵庫県川西市から川辺郡にかけて産出される石である。」
「天井石と天井石の継ぎ目の部分には、幅20cm・厚さ2 cmほどの薄い緑泥片岩で上から被せた後から、粘土で覆っている。この緑泥片岩は、最北の天井石に使われている緑泥片岩とは若干、質が異なり、より軟質で層状に剥離しやすい石材である。」
天井石の5石の石材は最北の石は緑泥片岩で、和歌山県ないしは徳島県のものと言い、残りの4石は石英斑岩で兵庫県川西市から川辺郡にかけて産出される石である、と言い、緑泥片岩は二種類あると言うので、あるいは和歌山県と徳島県から運んだものか。いずれにせよ、忌部氏は天太玉命、天日鷲命(阿波忌部)、天道根命(紀伊忌部、讃岐忌部)とあり、高皇産霊神ないし神皇産霊神の子孫と称し、大伴氏ともども紀伊国や阿波国に勢力があったのではないか。忌部氏の得意技は物資調達で、大伴氏に天井石がないので集めてくれと言われたところ予期に反して紀伊や阿波から持ってきた。おそらく大伴氏は山陰地方(特に、因幡)から持ってくることを期待していたと思う。よって、西求女塚古墳の古墳の材料や埋納品は大伴氏がその権勢を見せつけるために遠くから運んだのではなく、大伴氏お抱えの葬儀会社(忌部氏か)の都合により集められたものか。そもそも、大伴氏は同族の葬儀専門会社である忌部葬祭株式会社(大企業・忌部氏)と同盟している氏族ではあるが因幡国の小領主兼神主で葬儀も執り行っている忍代氏との板挟みに遭って心労著しかったのではないか。とは言え、「スタンプで文様を付けた弥生土器は、現在の鳥取県でよく見つかります。なかでも土器棺によく見られることから、お葬式に使われたと考えられています。(岡山市埋蔵文化財センター)」と言うので、山陰地方の葬儀の歴史も古いものであったと思われる。

✡石室の構造

「この石室の構造で特徴的なことは、南小口から75cmのところで1枚の板石を立てて石室の内部空間を区切り、遺体を安置した棺を埋納する主室と、副葬品を埋納する副室に分けていることである。壁体の石材はすべて輝石安山岩の板石で、板石の側面を内側に向け積み上げている。多くは長側面を内側に向けている。石室の内面にはすべて赤色顔料が塗布されている。仕切り石は石室構築の最初から立てており、それに沿わせて壁体を積み上げている。」
「銅鏡は破片も含めて12面分が出上している。すべて石室が崩壊した際に、石室の石材と同様にかなり動いて、原位置を保って出土したものはない。しかし、いずれも仕切り石より北側から出土していることから、全て棺の埋納されていた主室に置かれていたものと考えられる。」
石室を「遺体を安置した棺を埋納する主室と、副葬品を埋納する副室に分けている」とあるが、副葬品のうち銅鏡だけが主室にあると言うのは、1.鏡は単純に物の姿を映し出す道具としてではなく、祭祀・呪術用の道具として用いられた。2.弥生時代の中期、北部九州では、甕棺墓に前漢鏡が副葬されるようになった。銅鏡は宝器として珍重され、後期になって副葬され始めるようになった後漢鏡は、不老長寿への祈りを込めた文が鋳出され、その鏡を持った人は長寿や子孫の繁栄が約されるというものだった。(以上、Wiki・銅鏡)
即ち、主室の鏡は被葬者個人に関わるもので被葬者が良い人生を送ることができたように子孫も繁栄することが願われたのではないか。また、副室の副葬品は被葬者の生前の日常を表したもので仕事に使うものや高級日用品が多かったのではないか。現実の仕事と願望をごちゃ混ぜにするのは良くないと言うことで物理的な部屋も分けたのではないか。

✡銅鏡

出土した銅鏡12面のうち7~ 12号鏡はその出土位置と状況から、敷板石の上に置かれていた可能性が高い。その他の鏡は棺内に埋納されたのか、棺外に埋納されたのかは不明である、と。一般的に言って、7~ 12号鏡と同様に敷板石の上に置かれていた可能性が高いのではないか。やや大げさに言うと整然と棺を囲んだ銅鏡に対し「鏡よ鏡、我をその呪力によって未来永劫守ってくれ」と言うことではないのか。厚かましくも、子孫繁栄をも加えていたかも知れない。鏡は祭祀・呪術用の道具として用いられた、と言うので、あるいは高価さばかりが強調され、被葬者ないし遺族の見栄や虚勢で埋納されたか。とは言え、西求女塚古墳の三角縁神獣鏡は卑弥呼女王のご下賜品という説もあるので、埋納品は被葬者の実態を表しているのかも知れない。発見された一つの古墳から12枚というのも必ずしも多いものではなく、30枚以上という古墳もたくさんある。
理化学的な銅鏡云々については素人では如何ともしがたく割愛させていただく。しかし、発見された12枚の銅鏡は全て舶載品でこの時代の遺物は本物志向が強いのではないか。以前、考古学者の文庫本を読んでいたとき「佐紀陵山古墳」(さきみささぎやまこふん。被葬者 日葉酢媛命か)が盗掘(1916年(大正5年)の大がかりな盗掘)にあい盗品には仿製品が多かったと感想を述べられていたが、「大后比婆須比売命(ヒバスヒメノミコト)の時に石祝作を定め、また土師部を定めたまひき。この后は、狭木の寺間陵(テラマノハカ)に葬りまつりき」を読んで古墳の元祖と思っている人がこの有様じゃあがっかりだ。もっとも、「佐紀陵山古墳」の遺物は犯人が他の古墳を盗掘した際の盗品も混じっているという説もある。

✡織物

「西求女塚古墳の青銅鏡や鉄製品には少なくとも2種類の材質の平織りの織物が付着している。このことは、これらの副葬品が、布や袋によって包まれたか、あるいは織物そのものが副葬品として、納められていたことを示している。」
「これらの織物の材質や、密度や織り方など」今のところ何も解っていないという。
「11号鏡鏡背付着織物 2種類の織物が付着している。繊維の太さも密度も異なっている。青銅鏡のサビや赤色顔料で変色している部分と、ほとんど腐食せず、当時の姿を止めている部分がある。」
素人目には現代の織物に比べ繊維の太さも密度違うというのは見た目が荒く現代の粗悪品と高級品の中間の種類のものに見える。崩壊しつつある織物(8号鏡)と言う写真も意味深だ。粗い目があるものと目が目立たないものは製品価値も違ったような気がする。今のところ製作地は解らないと言うことだが、材質の一種類は絹のようなので生産地を特定してほしいものだ。

✡赤色顔料

「弥生時代や古墳時代の墓には何故か赤色顔料が多く用いられてる。しかし、すべての墓に用いられているわけではない。そこには、当時の信仰や社会関係の一端が見え隠れしている。赤色顔料と呼んでいるものにも、幾つかの種類がある。西求女塚古墳でも2種類の材質の赤色顔料が使われている。今後、その使われ方について、各種の機器を用いた分析調査を行うことによって、石室作りから埋葬までの間の幾つかの儀礼での意識の違いや、入手方法の違いなどが判る可能性もある。」

矢島國雄明治大学文学部教授は、
「我が国においては1万年を越えるこの時代(旧石器時代)での顔料を用いた着彩は知られていない。」
「世界的には死者の埋葬に伴う酸化鉄を原材とする赤色顔料の散布は,後期旧石器時代に始まっている。」
「ベンガラを土器や土偶,耳飾りなどにも塗布された例は特に縄文時代の後期・晩期における各種の呪具や儀礼に伴う仮面,装身具などに著しい。また,死者の埋葬に当たってベンガラを散布する例がある。」
「弥生時代に新たに加わるのは盾や鎧といった対人戦闘用の武具や防具もあり,赤色の顔料や漆を塗布する例が多い。」
「北部九州を中心とした甕棺葬ではベンガラや朱を甕棺内面に塗布するものや,死者に散布する例が著しい。」
「古墳の棺や石室におけるベンガラや朱の塗布や散布も著しい。また,埴輪には彩色を加えたものが数多く知られている。ベンガラを用いた赤の彩色が最も多いが,黒白などの彩色が知られている。古墳時代で特に際立っのは九州を中心に発達する装飾古墳で,石室内部,石棺外面に各種の顔料を用いて稚拙な絵画や幾何学的な文様を描くものである。その色は赤,黄白,緑,青,黒が知られている。それぞれの顔料はベンガラ,黄色粘土,白色粘土,緑色一青色の岩石粉末,鉄・マンガンを含む黒色鉱物と炭である。」

いろいろくどくどと引用してきたが、結論は以下のごとしである。

「世界的には,死者の埋葬に当たり各地で酸化鉄を素材とする赤の顔料の使用が認められる。血の色であり,生命の色である赤に,再生の祈りを込めたものであろう。」

私見でかつ日本語の話で恐縮ではあるが、「赤」は。「明るい」とか「明かり」「上がる」と同根かと思われるが、「明明」と書けば「日中の日ざしの盛んなさま」を意味し、「赤赤」と書けば夕日を意味するという説がある。(金田房子・清泉女子大学文学部非常勤講師『「あかあかと」句文考』での紹介説)私見では赤赤の夕日に対応して明明は朝日ではないか。有名な清少納言『枕草子』(春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明 ( あ ) かりて、紫(むらさき)だちたる雲の細くたなびきたる。)「明(あ)かりて」とか「紫(むらさき)だちたる」とかが出てくる。換言すれば、「明明」は人生のはじめもしくは最盛期で、「赤赤」は人生の終わりを意味すると思われ、人生とは毎日、毎日が再生の連続で「明明」は誕生、「赤赤」は臨終を意味し、まさに無限に輪廻転生を繰り返すようだ。このような社会では子供が生まれたときの産着(赤ちゃんが直接着るもので、現代の産着ではない)は白に近いピンク色ではなかったか。もっとも、上述の矢島國雄先生のお説では当時あった人工的に再現した色は赤,黄白,緑,青,黒で、桃色はない。葬儀に関する色では現代では「黒」が一般的だが、これも「黒」=くらいで黄泉の国を意味したものか。但し、黄泉は中国の概念で古代の中国人は、地下に死者の世界があると考え、そこを黄泉と呼んだ、と言う。日本のあの世は暗い世界と考えられたのであろうか。『古事記』では「黄泉の国の物語は、古墳に造られた横穴式石室での行為や体験がもとになっていると考えられます。暗い通路の先にある石室のなかには、黄泉の国の食べ物を盛るためか、土器がたくさん副葬されます。また、石室の入口は大きな石を立てたりして塞ぎます。」(鳥取県教育文化財団 調査室 美和調査事務所)黄泉は暗いは比較的新しい概念か。

✡鉄の遺物

畿内特に大和国で弱いと言われる鉄関連の遺物であるが、

鉄鏃 鉄鏃は現在確認できるものとしては、50本近くが出土
鉄刀 破片で10点弱が出土
鉄剣 現状で10本が確認される。
鉄鉾 2点が出土
槍先・短剣 槍先ないし短剣と考えられるもので40本以上が出土
工具 ヤリガンナ(2本)、ノミ(1本)
漁具 ヤス(3or4)
などがあるようで、これが鉄遺物として多いか少ないかは解らないが、利用頻度が高かったものとして鉄鏃(50本近く)および槍先ないし短剣(40本以上)が主用途と思われ、鉄刀・鉄剣は量から見て実戦用ではなく儀式用か。鉄鉾は極端に少なく、鉄槍より効率が劣ったのであろうか。工具、漁具はますます少なく被葬者は生活のための仕事には携わっていなかった。いろいろ言われる畿内の鉄の実戦的主用途は鉄鏃と槍先・短剣であり、さほど実戦には役に立たなかった。それが我が国が紛争の多い国と海外では思われたのではないか。西求女塚古墳の埋納品は常識的なものであり、そもそも西求女塚古墳の被葬者が大伴氏関連の人とするならばすでに卑弥呼女王時代に淡路島に鉄の工房を持っており、五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき・弥生時代後期の鉄器生産遺跡。古代国家成立に重要な役割を果たした鉄器文化を畿内に先駆けて取り入れたことを示す遺跡です。鉄鏃(てつぞく、矢じり)などの武器類が多く出土した)、舟木遺跡(ふなきいせき・1世紀中頃に突然出現。弥生時代末期(2世紀中頃~3世紀初め)に存在したとみられ、武器以外の鉄製品が出土した。)が著名。淡路島の鉄遺物と西求女塚古墳の鉄遺物は後ほど関連性を検討されなければならないと思われる。

✡紀年銘鏡

紀年銘鏡には以下のものがある。

魏の年号銘
青龍三年 235年 方格規矩四神鏡 3面
01.大田南5号墳  京都府京丹後市 国の重要文化財 京丹後市所有   京都府立丹後郷土資料館保管
02.安満宮山古墳 大阪府高槻市 国の重要文化財 国(文化庁)所有 高槻市立埋蔵文化財調査センター
03.(出土地不明) 個人蔵 東京国立博物館寄託

景初三年 239年
04.三角縁神獣鏡 1面 神原神社古墳 島根県雲南市 国の重要文化財 国(文化庁)所有 島根県立古代出雲歴史博物館
05.平縁神獣鏡 1面 和泉黄金塚古墳 大阪府和泉市 国の重要文化財 東京国立博物館

景初四年(非実在年紀) 240年  斜縁盤龍鏡 2面
06.広峯15号墳 京都府福知山市 国の重要文化財 福知山市
07.(伝)持田古墳群 宮崎県西都市 辰馬考古資料館

正始元年 240年 三角縁神獣鏡 3面
08.竹島御家老屋敷古墳 山口県周南市 国の重要文化財 個人
09.蟹沢古墳 群馬県高崎市 国の重要文化財 東京国立博物館
10.森尾古墳 兵庫県豊岡市 京都大学総合博物館

呉の年号銘
赤烏元年 238年
11.平縁神獣鏡 1面 鳥居原狐塚古墳 山梨県西八代郡市川三郷町 国の重要文化財 一宮浅間神社東京国立博物館寄託 1894年(明治27年)に市川三郷町大塚の鳥居原狐塚古墳から出土し、当神社に奉納された銅鏡(四神四獣鏡)。鏡背の内区には四神像と四獣像を交互に配し、外区には右廻りで「赤烏元年五月廿五日丙子 造作明竟 百凍清銅 服者君侯 宣子孫 寿万年」の銘文を鋳出されていることが岡崎敬により報告されている。この神獣鏡は1924年(大正13年)に後藤守一により学会に報告された。
赤烏七年 244年
12.平縁神獣鏡 1面 安倉高塚古墳 兵庫県宝塚市 兵庫県指定有形文化財 国の重要美術品 兵庫県立歴史博物館

晋の年号銘
13.元康口年 291-299年 平縁神獣鏡 1面 (伝)上狛古墳 京都府木津川市 五島美術館
南斉の年号銘
14.建武五年 498年[4] 画文帯神獣鏡 1面 (出土地不明) 国の重要文化財 和泉市久保惣記念美術館

出土地であるが、京都府京丹後市、大阪府高槻市、島根県雲南市、大阪府和泉市、京都府福知山市、宮崎県西都市、山口県周南市、群馬県高崎市、兵庫県豊岡市、山梨県西八代郡市川三郷町、兵庫県宝塚市、京都府木津川市となっているが、これを俯瞰してみると何やら大伴氏の関わりがうかがわれ、あるいは大伴氏が八咫烏氏とともに吉備包囲網に参加したことが連想される。吉備国の北側からは山陰の京都府京丹後市、島根県雲南市、京都府福知山市、兵庫県豊岡市が、西側からは山口県周南市が、畿内(東側)では大阪府高槻市、大阪府和泉市、兵庫県宝塚市、京都府木津川市の豪族が、宮崎県西都市、群馬県高崎市、山梨県西八代郡市川三郷町は屈強な徴兵地域として指定されたのではないか。宮崎県西都市とか山梨県西八代郡市川三郷町は大伴氏ゆかりの地だ。呉の年号銘のある鏡も意味深で、呉の年号「赤烏(せきう)」は二宮事件(にきゅうじけん。呉における約10年間に及ぶ政治闘争の総称。孫和と孫覇の太子廃立争い)の真っ只中にあり、倭人と称する人々が戦乱などを避けて呉から日本(特に、九州)に亡命移住したという見解がある。大伴氏は現在の豊岡市を拠点としていた天日槍命一族とも懇意にしていて倭国の対外外交交渉の仕事も担っていたのではないか。魏以外に呉とか晋などの鏡があるのは魏もそろそろ怪しくなってきたので呉や晋に保険をかけたのではないか。魏一辺倒の卑弥呼女王は蚊帳の外か。

✡まとめ

『西求女塚古墳 第5次・第7次発掘調査概報』を見てなんともやりきれないのが地震関連の痕跡である。よくまああんなに壊されたものかと思う一方、実際の写真と復元図を見ていると実物はもっと美々しかったのかなと思う。大和朝廷のランク付けが「墳丘長290mの箸墓古墳を頂点に170m、140m、120m、100m、90mなどの大きさによって、地方首長の王権による格付けが厳格に行われていた」との見解もあり、この見解によると西求女塚古墳の100mはかなり評価の低い方だと思われる。あるいは、墳形が前方後方墳と言うことは当時にあって大和朝廷傘下には正式には入ってはおらず、オブザーバだったのか。しかし、出土した銅鏡12面は「全て棺の埋納されていた主室に置かれていたものと考えられる。」と言うので、特に、三角縁神獣鏡は卑弥呼女王からのご下賜品か。しかし、多くの鏡に作者の銘文があり、果たして魏の皇帝が卑弥呼女王に下賜した鏡かは疑問が残る。一般に言って、皇帝のご下賜品に作者のメッセージを載せるというようなことは考えづらい。
西求女塚古墳は誰の墓かと言うことだが、当時、現在の神戸市界隈に勢力を張っていたと思われる豪族には、長田村主(すぐり)氏とか葦屋漢人(からひと)氏とか朝鮮半島出身者が多いようだ。一応、地名から判断すると摂津国雄伴郡(後に八部郡と改称)と言うのがあり、現在でも生田、長田、敏馬などという神戸を代表する著名神社がある。『和名抄』には、生田・宇治・神戸・八部(やたべ)・長田の5つの郷が記されており、八部郷は以前は雄伴郷と言っていたと思われる。雄伴郷は小伴郷と書かれるのが一般的だったとは思うが、大伴とは対の語ではあっても発音は違ったと思われる。しかし、大伴氏の根拠地としては古来の根拠地は摂津国・河内国の沿岸地方であったとか(例として、大伴金村の「住吉の宅」<『日本書紀』欽明元年9月己卯条>)、『万葉集』でも「大伴の御津の浜」「大伴の高師の浜」と詠われている、とか、一方で、遠祖・道臣命が神武東征での功労により大和国高市郡築坂邑に宅地を与えられたとの『日本書紀』の記述や、大伴氏の別業が同国城上郡跡見荘にあったこと等により、のちに根拠地を大和国の磯城・高市地方に移したものと想定される。 また、大伴氏の祖先神大伴武日の古墳が、和歌山県和歌山市の和歌山城(元は金村息子の大伴狭手彦の子孫が所s持していた岡城)近くにあり、岡邑を領有していたことからも、和歌山県にもその根拠地がある。換言すれば、大伴氏の地盤が現在の和歌山県、大阪府、兵庫県、奈良県にあったと思われる。神武天皇の頃は奈良県に常駐していたかも知れないが、神武天皇の死後は天皇氏の跡目相続に絡んで争いが絶えなかったので本拠地を元々の出身地である兵庫県神戸市に移し、奈良県には別邸を構えたのではないか。しかし、ゴタゴタの末の卑弥呼安定政権になると卑弥呼女王と大伴角日命とがしっくりいかず、対吉備国政策で相違があったのではないか。卑弥呼女王にしてみると角日命を征西将軍に任命したものの何の成果も上げていない、と言うところなのだろう。本来なら角日命は吉備氏を粉砕し、卑弥呼女王に次ぐ200mくらいの前方後円墳を与えられて然るべきだったか。一応、大伴角日命は卑弥呼女王と同世代の人で卑弥呼女王との揉めごとの後、前方後方墳、規模は箸墓古墳の三分の一となったのではないか。即ち、西求女塚古墳は大伴角日命の墓と思われる。その後、処女塚古墳は前方後方墳、墳丘長70メートル、山陰系土器出土、3世紀後半乃至4世紀前半築造とあり、大伴豊日命の墓で、この人は台与女王の兄に当たる人かも知れない。生田神社の祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)と言い、台与女王も台与日女尊と言って稚日女尊と同一人物か。東求女塚古墳は前方後円墳、墳丘長80メートル(推定)、銅鏡6面(三角縁神獣鏡4面)・車輪石・須恵器・土師器等、4世紀後半築造とあるが、大伴武日命の墓か。とは言え、大伴氏の勢力は国のトップが女性の時は徐々に衰退へ向かっているか。
「古墳に伴う集落の実態」だが当時の地形にあっては、西求女塚古墳・処女塚古墳の地域は六甲山地が海岸に迫っており、人が住める状態ではなかったと思われる。それに後世のことだが地震も多く「ここから下、家を建てるべからず」のような地域ではなかったか。東求女塚古墳のある神戸市東灘区住吉宮町あたりから人家があったのではないか。旧住吉村界隈で、現今で言う森北町遺跡である。
最後に、西求女塚古墳の被葬者については「山陰や四国・南近畿などの諸地域と深い交流をもっていたことが推察され、瀬戸内海や大阪湾など水上交通に影響をもつ首長の墳墓であったとも考えられる。」(Wiki)とあるが、『記紀』で該当する氏族としては、「倭国造氏(神武天皇・椎根津彦<珍彦>)」、「阿曇氏<応神天皇・大浜宿禰>」、「大伴氏<大伴金村・住吉宅>」が考えられるが、倭国造氏は本拠地を保久良神社とし、有力ではあるが同社はやや祭祀専用の神社で「境内外に多数の磐座群が見られ古代祭祀の場であったと考えられる」と言うが肝心の戦いの遺物や痕跡がない。阿曇氏は騒動を鎮圧した実績はあるが、吉備氏嫌いだったらしく大伴氏が大阪へ引っ越したらすぐさま一緒に引っ越しをした。やはり「山陰や四国・南近畿などの諸地域と深い交流をもっていた」と言うのは祭祀の面ばかりでなく政治家としての大伴氏以外には考えづらい。私見で恐縮ではあるが、『記紀』に出てくる神話の舞台はほとんど大伴氏に関係する土地ばかりだ。まず、伊弉諾尊と伊弉冉尊が新居を構えるのは淡路島である。次いで、素戔男尊と大國主神の出雲国であるがこれは大伴氏とはあまり関係がない。しかし、「因幡の白兎」の説話が『古事記』では多く割かれており、因幡即ち鳥取県は西求女塚古墳や処女塚古墳の山陰系土師器と関係があるのかも知れない。「山幸彦と海幸彦」の日向国、大隅国なども大伴氏ゆかりの地ではなかったか。やはり景行天皇の日本統一も大伴氏の助力がなかったら難しかったのではないか。景行天皇の熊襲親征には大伴氏も同行したと思われる。以上を要約すると、『記紀』の「別天つ神五柱」「神世七代」から「神武天皇」の頃までは実質的な執筆者は大伴氏ではなかったか。
西求女塚古墳の被葬者が大伴角日命とするならば角日命は卑弥呼女王と同世代の人と思われ、軍事同盟と思われる大和朝廷にあって初代の盟主は神武天皇であり、以下のメンバーが加盟していた。道臣命(大伴氏)、大来目(久米氏)、椎根津彦(珍彦)(倭氏)、弟猾(竹田氏か)、弟磯城(黒速)(磯城氏)、剣根(葛城氏)、八咫烏(賀茂氏)が同盟氏族だった。序列一位の神武天皇の子孫が盟主を務めていたが、徐々に人材の劣化も始まり代替わりのたびに跡目相続を巡って小競り合いが起きていたのではなかったか。ついには大がかりな紛争とともに女性(卑弥呼女王・倭姫命か)が盟主になるに及んで序列二位以下の諸氏が不安定な女性盟主を嫌い、まず大伴氏の案とでも言うべきか同盟に吉備氏を加えるべく交渉をしたが、吉備氏本家は不参加、同盟に賛意を示した、後世、崇神天皇とか垂仁天皇とか言われる人はほかの同盟参加者が反対し不成立になった。そこで浮上したのが同盟序列二位の大伴氏の昇格で、角日命の時代は武日の命の就任に向けて着々と準備が進められていたのではないか。無論、卑弥呼女王の嫌がらせや、崇神・垂仁の取り扱いの対立もあり、道臣命(大伴氏)、大来目(久米氏)、剣根(葛城氏)、八咫烏(賀茂氏)が大伴氏を支持、椎根津彦(珍彦)(倭氏)、弟猾(竹田氏か)、弟磯城(黒速)(磯城氏)が神武・吉備系の人物を支持したのであろうが、武力に勝る大伴、久米、葛城、賀茂の諸氏が同盟外のほかの諸氏族の支持も集めて勝利したのではないか。なお、大伴、久米、葛城、賀茂の諸氏は祖神を神魂命裔とか高魂命裔とか言って同族のようなことを言っている。しかし、「神武王朝」から少しゴタゴタがあって「ワケ王朝」につながったのであるが、「ワケ王朝」の開祖が景行天皇とするならば同天皇には大伴氏との血縁関係があったのかと言うことである。もし、景行天皇が大伴氏とは赤の他人と言うことであれば、大伴、久米、葛城、賀茂の諸氏の期待に反することになるのではないか。
とにもかくにも、西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳の被葬者たちの時代は政権交代期における武力闘争があったことは間違いないと思われる。

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