ゆきえ

37年間仕事一筋の生活から解放されたときには、後期高齢者になっていました。PCなどとは…

ゆきえ

37年間仕事一筋の生活から解放されたときには、後期高齢者になっていました。PCなどとは縁のない生活でした。ふとしたことからPCに興味を持ち、最近日記を書いたり、知人へのハガキを写真を入れて送ったりして楽しんでいます。

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最初の投稿は

初めての投稿は思い出深い猫の話を書こうと思ったのだが、少し重たい話になってしまいそうなので、私の息子で次男の話を書こうと思う。 5月15日、間もなく次男の誕生日がくる。毎年何もしてやれないので、『おめでとう』のメールだけでも、と思って送信している。48歳になったと思うが、子供の年齢も覚えていられないほど年数が経ってしまった。  生まれたときは3080gしかなかった。長男が3700gでしっかりした赤ん坊というよりは普通よりは子どもという感じで生まれてきたので、小さくて心配なほ

    •      雪はこわい

       風が冷たい。冬型の気圧配置で、どこも気温が低く寒いようだ。会津地方は雪がかなり積もったようで、49号も磐越道も閉鎖されたという。主な2つの道路を閉鎖されたら、抜け道を知っている人はいいが、知らない人はどうなるのかと他人事でも心配になる。 49号線ではスリップしたトラックが道を塞ぎ、次々と車が止まり、300台以上が立ち往生したそうだ。子どもや高齢者もおり、体調の悪い人もいたという。国土交通省郡山国道事務所は、昨日除雪を行う一方、ドライバーに食べ物を配ったり、車への給油作業

      •      クリスマス休戦

        洗濯物を干すのに竿を拭くと、氷のかけらのようなものが付いてきた。水滴はあっても手ごたえのあるものは付いてきたことがなかったので、やはり寒かったのだろう。水道のところに置いたバケツの水も凍っていた。確かに寒かったのだ。  落合恵子さんのエッセイを読んだ。古道具屋で買った机の引き出しに、「いとしいコニーへ」と書かれた一通の手紙が入っていた。その手紙の書き手ジムを含むイギリス軍は、無人地帯をはさんで、ドイツ軍と対峙(たいじ)していた。ドイツ軍の塹壕で白旗が振られ、中から声が響

        •       表現の仕方

            日本語の「わんわん」と「にゃあ」は、海を渡ると「バウバウ」「ミュウ」になるそうだ。 言われてみれば日本語を聞きなれた耳でも、犬の鳴き声はいつも「わんわん」ではないし、どの犬もどんなときでも「わんわん」ではない。猫にしてもいつも「にゃあ」ではなく、自分の気持ちをいろいろな鳴き声で表現する。飼い主は、その鳴き方で何を要求しているのかを判断できる。そういえば高校生の頃、英語の教科書にイソップ物語が出てきた。その中のうさぎが逃げる様子を、日本なら「ピョンピョン」と表現するのだが、

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        最初の投稿は

          宇宙飛行士の持ち帰ったものは

           携帯電話のCMで、犬が宇宙飛行士の古川さんと会話するものがある。その古川聡さんが、宇宙から帰って来た。もうこのコマーシャルは終りだと言う人がいたが、今度は犬が宇宙へ行った。何人の宇宙飛行士を見ても、穏やかな表情で、しっかりした受け答えで、的確に表現しているのには感心してしまう。厳しい訓練に耐え、それくらいは何とも思わないように鍛えられているのだろうが、宇宙から戻って疲れも体調不良もあるだろうに、そんなことは全く感じさせず、にこやかに応対している。 古川さんはカザフスタン

          宇宙飛行士の持ち帰ったものは

              言葉の冷凍は

           夫の転勤で1960年に渡米し、ニューヨーク郊外で半世紀を過ごした江崎真佐子さん(81)が、『私の日本語は冷凍品』という一文を新聞に寄せられたそうだ。『ら抜き』表現の広がりを知り、驚かれたという。江崎さんの日本語は、米国に持ち込んだときの状態だという。「後生大事の日本語が得体のつかめぬものへと変身中の今、私の言葉は地球温暖化で徐々に沈む南方の島のごとく、立つ瀬をだんだん失っています。」と結ばれていたそうだ。  ある人は、欧州暮らしの長い人に会い、若いときに日本を離れ、外国人の

              言葉の冷凍は

              どうだんつつじに思う

           回覧板を持って行った1軒先の家の庭のどうだんつつじが、真っ赤に色づいていた。寒い地方では、もうとっくにきれいな色に輝いていることだろう。朝と夜の寒暖の差が大きいほどきれいに色づくという。山形の斎藤茂吉記念館の入り口の登り坂に添って植えられたどうだんつつじも、真っ赤に色づいてきれいだった。輝いている、とそのとき思った。  以前茂吉は、母が認知症になりあまりにひどい状態に耐えられなくな、東京に逃げるように帰った。その母が危篤という知らせを受けて、電車の中を走りたい思いだったとい

              どうだんつつじに思う

               結婚記念日

           誰にも言わず何もしなかったが、今日は結婚記念日だった。主人が元気な間もお祝いしたことは少ないし、忘れていることが殆どだった。外国のドラマなどでは、結婚記念日と誕生日を忘れると大変なことになる。そのほかにも、初めて会った日とかつき合って100日めとかいろいろな記憶しなければならない日がある。花束を用意したり、ケーキを作ったり、男性側も女性側も大変なようだ。それに比べると私達はなんのサプライズもなしに19日をやり過ごし、後で思い出すという風だった。  1966年11月19日から

               結婚記念日

             相手を見て言うべきだった 

          『いわせてもらお』の欄に載っていた話。ある青年が、アルバイト先で同年齢の若者に『焼きナス』という注文を受けた。できあがって、ふといたずら心で「はい、ボケナスです。」と差し出したら「ありがとう、オタンコナス。」と返されたそうだ。互いに同じような遊び心を持っていたから成立する会話だろう。正面から受け取って、馬鹿にされているとか、ふざけているという受け取り方をしたら、殺気だった雰囲気になったことだろう。相手を選んで対処すべきということだろうか。  30年前、そのときの上司に孫が生ま

             相手を見て言うべきだった 

              いなご取りの時に

           会津の朝は、今頃は深い霧に包まれているだろう。穫り入れがすんだ頃、学校ではいなご取りをする。中学生になると、各自自宅から自由に出かけ、昼過ぎに学校に集合する。学校では、いなごを茹でるためのお湯を沸かして待っている。当時は1升いくらで売られる。そのお金は、教材費になると聞いていた。どこにどのように使われるかなど、生徒の私達には分からなかった。  私は、山菜採りも嫌だったが、このいなご取りも嫌だった。朝早く霧で周囲が見えない頃に出かけないと、いなごの動きが速くなりつかまえること

              いなご取りの時に

              いかのおすし一人前

           ある人が幼稚園のそばに『いかのおすし一人前』と書かれている看板を見つけた。近くに寿司屋はないし、何だろうと不思議に思ったら    知らない人にはついていかない    車にのらない    おおきな声を出す    すぐ逃げる    知らせる の語頭を取った警句で、それができたら一人前という意味だそうだ。判断力のない子どもには「知らない人に話しかけられたら返事をしてはいけない」というしかないのだろうが、顔見知りでなくても必要があって話しかける人もいるはずだ。それをみなまとめて「返

              いかのおすし一人前

               翼をください

           三重県志摩半島、半島の中の半島である大崎半島の大部分を占める『合歓の郷』。リゾートと聞いて思い浮かぶ全ての施設がそろっているが、よそにないものがミュージックキャンプと呼ばれる施設だそうだ。屋内外に2つのホール、録音スタジオがある。前のヤマハの社長川上源一氏が造ったものだという。ここでは、ヤマハ主催のいろいろな音楽イベントが行われた時代もあった。70年11月、『合歓ポピュラーフェステバル』が開かれた。『第一線で活躍中の作曲家が、未発表のオリジナル曲を持って参加するユニークな新

               翼をください

              10月から11月へ

           今日で10月が終わる。暑い日々から解放され、ほっとする9月、10月は豊かな実りへの期待感がある。だが11月は、枯れてゆくのを待つだけのような気がする。12月になれば冬支度、雪を待つ楽しさ、新年への希望とそれなりの期待が持てる。だが11月は寂しいだけだ。 昨年、共立病院で年一度の視野検査を行った。結果は「昨年と変わりがない。」と言われて安心した。駐車場には、周囲に植えられたプラタナスの葉が風に流され、からからと音を立てていた。寂しい音のはずだが、目の悪化を告げられなかっ

              10月から11月へ

          ハミズハナミズと

          『ハミズハナミズ』ともいうそうだが、初めて知った。『葉見ず花見ず』ということだそうだ。彼岸花のまたの名である。葉が出る前にするすると茎が伸びて花が咲き、葉は花が終わってから出る。葉と花をいちどきに見られないところからの名前だという。その土地土地で様々に呼ばれ、異名は50を超えるそうだ。昔は田んぼの土手やお墓にしか咲かなかった。そこにしか生えなかったのか、生えても狩り取られてしまうのか、あまり見かけなかったことは事実だ。それがどういうわけか、この頃では空き地いっぱいに、赤い花

          ハミズハナミズと

              『荒城の月』は  

          『荒城の月』に関する文が載っていた。歌詞と曲というものは、何度か話し合ったり、下準備をして作られ、名曲になるものと思っていたが、今まで知ったいろいろな曲は、曲を送られて作詞者が詩をつける、会ったこともない人の詩に曲をつけるなど、全く別々の道を歩いていて突然出会うようにしてできることが分かって、やはり両方とも特殊な才能が備わっている達人なのだろうと思った。 1902(明治35)年8月24日夕刻、ロンドン郊外のテムズ河口、ディルベリードックに、日本郵船の大型客船『若狭丸

              『荒城の月』は  

          カレー焼きそば?会津ソースカツ

           先日会津にツーリングに行った息子から電話があって、「今、カレー焼きそばを食べている。」と言う。カレー焼きそばなど会津にあることも知らなかった。カレー味の焼きそばかと思ったら、焼きそばの上に普通のカレーがかかっているという。何十年も前からあるというのにも驚いた。会津を離れてから50年にもなり、喜多方ラーメンがブームのころしか知らない。カレー焼きそばがその後にできたとしても、不思議ではない。 新聞の小欄に、会津ソースカツのことが載っていた。ご飯にごま油で炒めたキャベツが敷か

          カレー焼きそば?会津ソースカツ