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Legacy Ocean Report #35 はじまりのピアノフォルテ

「…ん……。」
暗闇の中、うつ伏せで倒れていたレイは目を覚ました。ここはいったい。空には解像度の荒いピクセルアートのような星空が瞬き、周囲には黒百合が咲き乱れている。暑いとか、寒いとかいう感覚は全く無かった。

手持ちのライトを点灯させる。ここは一面の花畑の中心、真っ黒な円形の台の上に居る。さっきまで乗っていた筈のドリトル号の姿はない。そうだ、みんなは。

「ボストーク!」
レイは闇の中に鎮座するドームを見つけるや駆け寄り、何度も揺さぶって叩き起こそうとした。間もなく六本の足が上体を起こし、長い首が持ち上がる。
「ここは…?」
「分からない。一つ分かることがあるとすれば、ここは出口じゃ無いってことだ。」


レイの叫び声に反応して、周りで気を失っていた面々が目を覚まし、集まってきた。
「ゴードンが我々を騙したとは考えにくい。上級端末の対応も、ここに出口があると言わんばかりだった。恐らくポータルのゲートがダメージを受けて、行き先がぶれてしまったのだろう。」
レイは台の端まで寄った。直径およそ二十メートル、決して広くはない。
「辺り一面黒い花がどこまでも咲いてるだけで、何にもないな…。」

花畑に踏み込もうとした瞬間、レイは不意に肩をガッチリと掴まれ、引き戻された。
「行かない方がいいですぜ。」
ジーンは伸縮するアームを引き戻すと、緑色に発光するボールを花畑に投げ込んだ。ボールは一瞬ザリッという音を立てて黒百合の花を突き抜け、そのままどこにも当たること無く奈落の底に落ちていった。

「ホログラム…。」
「周囲の光景は全部立体映像ですね、最初暗くてよく分かりませんでしたが、それも少し古い奴ですよこれ。」
ジャスミンが生成した小枝を何本か投げ込んでみる。何れも水面が波打つように僅かにグリッチを起こすだけで、全て闇に飲み込まれていった。


台座の外の世界は全て、触れる事の出来ない映像だった。その台座は皿のように滑らかで、大理石風のテクスチャが全面を覆っている。デバイスらしきものは何一つ無かった。中央に鎮座する、モニュメントじみた一台のピアノを除けば。

「まるで特設のステージですね。実は脱出に成功していて、うっかりMV撮影用の小型コンティネントに迷い込むなんて事は…。」
「だったらよかったんだけどね。」
シュミットの開いたコンソール画面は相変わらず文字化けだらけだ。正常からは程遠い。

「だが、調べてみる価値はありそうだ。」
ボストークの体に据え付けられたコンティネントスキャナが床を、ピアノを走査する。ハッキングツールは多少不安定な情報でも、推論システムが答えを導いてくれる可能性がある。

電脳都市情報:No.1 ピアノフォルテ
信頼度:98%

導かれた答えに、ボストークは声を失った。それは遠い昔に運用停止し、もはやアーカイブにしか残されていない筈の場所。電脳都市の歴史の始まりに名を残すばかりの場所だった。

「ピアノフォルテ…だと…?」
「ピアノフォルテって、とっくの昔に運用停止してるんじゃ…?」
「無論。ユグドラシルの資料館に置かれているあのアーカイブオブジェを除いて存在しないことになっている。」
「なっているって何だよ。」

「はじまりの地は消えてなどいなかった。そして実際に此処にあり、私達は今此処にいる。」
ボストークの目線がジャスミンに向けられた。電脳都市3番、エデンが消失することなく放浪するアバターに取り込まれたように、この場所も何らかの形で存在し続けていたのだ。

突然目を向けられたジャスミンはそっとピアノの影に隠れ、小さな手で鍵盤を掴んだ。その時。調律の狂ったぼやけたような音と共に、周囲を覆いつくしていた黒百合の花畑が一瞬で消滅した。
「一体何が起こった!?」
その代わりに現れたのは、周囲を泳ぐ巨大なクラゲの群れだった。背景は大海原に変貌し、上から海面越しに揺らぐ太陽の光が差してくる。


悠々と泳ぐクラゲたちは時に触れられそうな距離を通過し、海面を目指した。無論触れることは出来ない。これもまたピアノが0と1から生み出したホログラムに過ぎなかった。
「このピアノが制御装置を兼ねているのか。制御と言っても背景を切り替える程度に過ぎないが…。」
大衆受けはするが、原理的には比較的単純なものだ。同列のコンテンツはメガロチェインが生まれて数年後にはほぼ滅亡して久しい今、ある意味ではまた新鮮味があるのかもしれないが。

全員がピアノの前に集合し、鍵盤を一つ一つ鳴らしていく。今や、この楽器が都市に干渉する唯一の手段だ。鍵盤が音を出す度に世界が切り替わっていく。極彩色のパネル。無数のブロックがパズルゲームのようにスライドする空間。視界全域を覆うサイケデリックな映像…。

「まるで世界全てがここにあるみたいだな。」
「ピアノは楽器の王という別名がある。だが王が民無しでは成り立たないのと違い、ピアノは楽曲のあらゆる要素を一台で賄い得る。それはまるで盤上の都市であり、世界であり、宇宙である…。」
「この都市が作られた時の宣誓だっけ、よく覚えてるね。」
シュミットは次の鍵盤を鳴らす。

切り替わった世界はまるでスポンジのように穴だらけの洞窟。内部は明るく、かなり遠くまで見渡すことが出来る。
「全部鳴らしても風景が変わるだけだったらどうする?昔遊んだゲームで、和音を鳴らすとイベントが起こるのがあったけど…。」
シュミットが次の鍵盤に手を伸ばした瞬間、
「待った!!」

叫んだのはレイだった。
「あそこにポータルが見える。どんどん遠ざかっていくぞ!」
岩の狭間、確かにポータル特有の石竹色の光がリングを形成している。だが、そこは台座から五十メートル以上離れている。台座は洞窟の風景の中をどんどん突き進んでおり、ポータルは徐々に離れていく。そしてこの風景は実体のないホログラムだ。

「折角脱出口を見つけたのに!」
不意に残っていた小枝を投げ込むが、小枝はやはり洞窟の壁を貫通していくばかり。もしかするとこのポータルも幻なのかもしれないが、そんなことを言っていたら二度と出られなくなる。この都市が正常に稼働している保証はないし、これが最後のポータルかもしれないのだ。
「何か手段が無いか……むっ。」
焦りに飲まれそうな己を押さえながら判断を試みていたボストークは、思わぬことに気が付いた。

ドーム状の機械の体が開き、手と脚の位置が逆転して巨大な翼が展開された。それはまるで機械で出来た竜。フライトコンポーネントが動作良好を示す低音を響かせ始める。
「この空間では飛行ユニットが有効だ!全員急いで掴まれ!あれに突入する!!」
ポータルとの距離は既に二百メートル近い。

大量のパーティクルをロケットのように噴射し、機械竜は地を蹴って離陸した。その反動で虚空に浮かぶ台座が大きく傾き、ピアノもろとも奈落の底へと落ちて行った。
「さあ、もう戻れないぞ。」
4人がしがみ付いて大きな塊となったまま、ボストークは岸壁に囲まれたポータルを目指す。不意に巨大な岩盤が目の前に飛び込んできては、わずかな電気の感覚と共に後方に去っていった。

目の前に淡い光を漏らすリングが迫ってくる。間違いなく本物のポータルゲートだ。今度こそ出口か、それともあの世へ続く地獄の門か。誰にもわからない。だが行くしかない。機械竜は光の門に飛び込んでいく。