【Legacy Ocean Report】#19 沈没船ドリトル号
海底を蹴って、二つの影が動く。彼らが灯すヘッドランプの光は海中で急速に減衰し、あまり遠くまで届かない。水深およそ120m、頭上で燦々と照りつけているはずの太陽の光も、この深みでは無力だ。
「視界が悪いな、ダストの量が控えめなのがせめてもの救いだ。」
海底を歩く、巨大なカニのような機械の体からは鎌首のようにアームが延びていて、先端には監視カメラに似た頭部が据えられている。彼の名はボストーク。自ら制作したこの多脚ドロイドのアバターに、VRダイブ中に突然死した本人の意識や記憶が、未知のプロセスで転写されたものだ。
その頭上を大きな魚が平行して泳ぐ。正確にはその大魚には人間に似た手足があり、顔つきもどちらかというと人に近い。レイというこの少年もまた、魚人のアバターが自我を宿したものだが、彼の魂がどこに由来しているのかは全くの不明である。
彼らは電子空間上に突如出現した未知のエリアの探査中に脱出不能に陥り、出口を求めているうちにこの広大な電子の海に放り出された。海底に沈む残骸の中に状態のいい船でもあれば、帰還の大きな助けとなる。
ボストークのコンティネントスキャナが海底を走査する。コンティネントとは電子空間網を構成するエリアサーバーのことで、電脳都市とも呼ばれた。電子の都市空間をハックする探偵まがいのスキャナーツールは、頼りないダウジングマシンとなって無数の情報を探り当てる。
「どうだ?」
「場所は悪くない。このあたりの反応は、電脳都市目録が正しければ港町に由来するものだ。船舶があっても不思議ではない。」
二人は立ち止まり、周辺の反応と、目立つ物体が無いかを確認した。
「でも、なにも見えないぜ。サイバーダストが何メートルも積もっている訳じゃないんだろ?」
「その通りだ、潮流が速いのか軽いものは容易く押し流されてしまう。大きな物体があればすぐに気づく筈だ。」
海底を行く彼らは港湾都市「オービタルブルー」に由来する、特定のID反応が濃く出るエリアから外れようとしていた。
「気を付けな、足元一気に深くなるみたいだぜ。」
魚人の少年が言い終わるのを待たず、この器用な多脚ドロイドは岸壁を掴み、ドロップオフを垂直に降下していく。断崖の下にも相当広い空間がある、見逃すわけにはいかない。
「この体は私が自ら作り上げた一点ものだ、この程度の障害なんともない。対応最大深度は350mだ。」
ライトの強度を上げる、深度が130,140と増していくに従って疑似水圧感が増していく。
「タフだなぁ、俺なんてこんな姿してるのに頭が痛くなってきたぜ。」
レイは左手で頭を抱えながら真っ逆さまに沈んでいく。
「魚にも適切な水深というものがある、シミーの発光紋が周りから消えた辺り、電子生命体も似たようなものなのだろう。」
水深220m、周囲は頭上から差す微かな青い光を除くと暗黒の世界だった。
「コンソールに警告が出ている。レガシーオーシャンでは400m以上潜った記録があるというが、負荷の高いこの海ではこれが限界だろうな。」
レガシーオーシャンとは十数年前に電脳都市を侵食して出現した謎の海洋型電子空間で、海底調査中にかつて大火災で焼失したはずの文化記録が発見されたことで「遺産の海」と名付けられ、ゴールドラッシュ紛いの発掘ブームを呼んだ。その中には、パープルダイバーという大深度電子潜水の技術を持った者達が居たのだ。そして、その真似事をして痛い目に遭った者達が少なからず居たことも知られていた。
二人はランプの強度を最大にして周囲を照らす。
「苦労した割に何もねぇな…ん、どうした?」
ボストークがある一点を見つめている。その先には明緑色に明滅する正体不明の発光体があった。
「何だ、ありゃ。」
レイは目を凝らすが物体の正体が掴めない。
「通常の探査なら、こういう未知の相手には無人のドローンbotをけしかけるものだが…生憎我々には手持ちがない。気を付けろ。」
深海の闇の中、霜柱程に固まったサイバーダストを踏みつけながら近づく二つの影。発光体は明滅を繰り返すだけで、ピクリとも動こうとしない。
「全く動かないけど、生物じゃないのか?」
「電子生物にそういう常識は通用しない。危険なスクリプトを呑み込んだブラストシェルという生物に、無謀な発掘野郎が何人もやられている。」
「うげ、じゃああれも罠かもしれないのかよ。」
「わからん。距離50、思っていたより強い光だ。」
ところが近付いてみるとそれは、街灯ほどの明るさのランプで、地面から伸びた棒に固定されていた。
「…思ったほど強烈な光じゃないな。」
「推測に過ぎないが、海中の減衰の影響を受けにくい特殊な光源と思われる。」
「しかしこれもただのガラクタかぁ、どうせその棒から取り外せないんだろう?」
レイはランプを掴んで引っ張ってみるが、びくともしない。
ボストークは明滅する緑色の光を遮りながら、それを支える棒を手持ちのライトで照らす。
「何やってるんだ?」
「信号灯のように見える。型番でもあればこの物体の正体がわかるのだが…。」
その時、ドーム状の機体から伸びていたワイヤーの様に細い腕が、一斉に止まった。
「どうした?」
レイは海底に降り立ち、ライトで照らされている箇所を覗き込む。
「…どうやら我々は大きな勘違いをしていたようだ。」
ボストークはおもむろにライトを掴み直すと、背後の足跡を照らした。
「勘違いって何だ?何か危険な事でもあるのか?」
その時だった。突然緑色の発光が黄色に変わり、激しく明滅し始めた。同時に、足元の地面が地鳴りのように揺れ、表面に薄く貼り付いたダストを振り落としていく。
「何だ何だ、何が起きてる!?」
「直ぐにわかる、しっかり掴まってろ!」
次の瞬間、彼らの真下の海底がいきなり隆起した。いや、海底に沈んでいた巨大な物体が唐突に浮上を始めたのだ。
海上では、尖った耳の青年と幼い少女が釣糸を垂らしていた。昨晩のように首尾よく魚が手に入れば、まともな食事にありつけるだろう。ゾンビアバターの残骸を加工したレーションなんてもう御免だ。
「なかなかつれないね…。」
「釣りってものはそう簡単にはいかないものさ。それに、昼食分は確保したからひとまずは安心だよ。」
ハイエルフアバターのシュミットは生身の人間で、肉体との接続が断絶した状態でこの電子空間に閉じ込められている。時間はないが焦っても精神を消耗するだけと割り切った彼は、気持ちを落ち着けるべく食料調達に回っていた。
一方隣に座るジャスミンは自我を有するアバターだが、恐らく二十年以上生きているにもかかわらず、せいぜい幼稚園児程度の知力しかないため複雑な任務は向かず、釣竿の番をしている。もっともこの釣竿自体、彼女の「電脳都市一つの機能が丸ごと転写されている」という異常能力によって作り出したものなのだが。
「おや?」
シュミットの視線が、釣糸が垂れるそのさらに先に向く。150m程先で、海面にぶくぶくと泡が昇ってくる。
「どしたの?」
ジャスミンがそちらに視線を向けた次の瞬間。
海中から突如30m近い水しぶきが上がり、続いて巨大な黒い船が浮上してきた。ダストを被りサイバーケルプが絡んだその甲板には、必死でしがみ付くレイとボストークの姿が。
「…あっちはずいぶんと大物を釣り上げたみたいだね。」
4人は波が落ち着くのを待って、船体の調査を始めた。真っ黒に見えた船体は実は表面に固着したタール状物質によるもので、日光を浴びるにつれて皮をむく様に徐々に剥がれ、真っ白な船体があらわになった。
「すごいじゃないか、これでこの海を高速で航行できる!」
シュミットは手すりをポンと叩いた。
「まだだ、まだ勝手に浮上しただけでまともに動くかどうかもわからない。サイバーダストがタール状に変質するには10年はかかると聞く、この船も相当な年代物だ。あまり期待しない方がいい。」
船橋のドアもまるで固く錆び付いたようにタールがこびり付き、1時間近い格闘の末にようやく引き剥がすことに成功した。
船内は暗かったが最低限の照明は灯り、まるで閉館した施設のような様相を呈していた。
「きみがわるい…。」
「ブリッジの窓を覆うタールが落ちれば、十分な採光が出来るはずだ。今だけの我慢だ。」
ボストークが船内に長い首を伸ばして、覗き込む。頭部サーチライトが舐めるように船内を探るが、特に目立った物品は見つからなかった。
「流石にもぬけの殻か。」
「それよりあんた、船内に入れないだろう。まさかこの先ずっと吹きっさらしか?」
「いや、流石に露天駐機は免れそうだ。」
ボストークが船体後部を向き、指差す。
「船尾楼をガレージ代わりに使えそうだ。扉が開けばの話だが。」
「あそこは船長室だね、という事はキミがキャプテンかな?」
ニヤニヤするハイエルフの丈夫、しかし6本足のロボットは冷静に返した。
「どうかな……この船の詳細な仕様はわからないが、恐らく”人間”の操作が無ければこの船は動かない。浮上してきたのはただの偶然ではないかと思われる。」
ボストークを含む自我を持つアバター、スケープゴートは特定の操作の際に人間と判定されないことがあった。この中で生身の人間はシュミットただ一人。金髪の青年はやれやれと船内の操縦コンソールを開き、起動キーに手をかける。
「キーを回してくれ、故障していなければ恐らく動くはずだ。…君の肉体がまだ生きていて、魂との紐付けがまだ途切れていなければ。」
シュミットの手が止まる。これは宣告でもあった。思わず息を呑む。
祈りを込めて、刺さったままのキーを掴み、回す。
数秒の間を置いて、それに応えるように船体が静かに震え始めた。
「動いた…。」
端正な顔が起き上がる、その表情に宿った微かだが確かな希望を、船外から覗き込む三人は神妙な面持ちで見つめていた。
「僕は、まだ、生きている…!」