【Legacy Ocean Report】#21 さまよえる石の王
深夜2時、バーチャルクルーザードリトル号甲板。
係留地点、未知の海洋型電子空間。マッピング未開拓エリアにつき正確な座標は不明。
昼間の大捕物からの船上の喧騒を終え、一行は深い眠りについていた。夜間の航行については議論の末、当面行わず体力の温存を図ることになっていた。見張りを立てることも考えたが、残っていたビーコンキューブを配置してアラートにすることで対処できるとした。ゆっくりと揺れる船上に、さざ波の音だけが響く。
甲板で、不意に小さな影が動く。それは男子中学生ぐらいの背丈で、しかし腰から魚のような尾を垂らしている。レイだ。昼間の激闘の立役者は今だ興奮が覚めず、寝付けずにいたのだ。
「うう…。」
まどろみに半分浸かった頭は、船から落ちるのだけは避けねばと手すりを掴み、船首を目指した。千鳥足の体に時折、微弱なパルスが走る。レベル4クラスのパルスショックを乱射した反動がまだ抜けていないのだ。
この広大にして未だ名も無き電子の大海は、時折撫でるような風の感触をもたらした。しかし若干生温いそれは目を覚ますどころか、かえって意識を混濁に導くばかりだった。
「ダメだ…こんなところで寝たら船から転げ落ちる…。」
期待はずれだった魚人の少年は再び立ち上がり、船室を目指す。明日になればまたオオブシの炙り焼きが味わえる。何しろ自分より大きい獲物、当面の食料事情は華々しいものとなる。それを楽しみに何とかして床につこう。
そんな事をうつらうつらと考えながら甲板を戻っていく、その半ばで閉じかけた彼の目は突如見開かれ、体は手すりを強く握ったまま凍りついた。
右舷方向、200メートル程離れたところで青い霧の塊のような物が宙に浮いていた。そして視認すると同時に確信を持った、相手はこちらをじっと見ていると。
霧の塊は微かに青く光り、その中に大小の物体が浮遊していた。明らかにただの霧ではない。新種の電子生命体、それもある程度の知性を有しているように見えた。そして観察している内に、相手がゆっくりとこちらに近づいて来るのに気づく。
不思議と危険は感じなかった。相手はこちらを獲物として見ているのではなく、好奇心で近寄ってきたように思えた。警戒を解きながら少しずつ接近するそれは、船の真横まで来たところで止まった。
「でけぇ…。」
それは予想以上に大きく、ドリトル号に比肩する程だった。霧の中央では濃い紫色の石板が浮かび、その回りにビーコンキューブをずっと小さくしたような立方体が散りばめられていた。
「ど、どうする?とにかくボストーク達を起こさないと…。」
気が動転したレイ。だが、他にどうしたらいいのかわからない。こんな生き物、電脳都市ベルガモットのライブラリでも見たことがなかった。
「…これは、君の船かね?」
魚人の少年はゆっくりと振り向いた。まさか。何かの間違いでは無いのか。だが振り向いてもそこには、おぼろげに球体を模した不可思議な霧が漂っているだけだった。
「…この船は、君のものかね?」
二度目の声が聞こえた。もう間違いない。目の前の霧が喋っている。そして自分は何を問われている。
ドリトル号はこの電子の海に流れ着き、海底に沈んでいた沈没船だ。レイ達はこれを偶然再起動、浮上に成功し、後にメンバーの中で唯一生身の人間であるシュミットを起動キーとして、正式に動かせるようにしたものだ。
「俺のものというか…海底に沈んでいたんだ。偶然再起動出来て、何とか動いてくれそうだから使っているんだ。」
嘘はついていない。
「そうか。」
相手はさして興味が無かったとでも言わんばかりに、そっけなく返した。
「それより、あんたは何者なんだ?俺には霧の塊が喋っているようにしか見えないが、スケープゴートなのか?」
スケープゴートは未知の要因で自我を持つようになったアバターで、レイもその一人。人型から大きく離れたアバターでは起こりにくいとされているが、六脚ロボットにユーザーの意識が転写されたボストークのような例外もある。
「違う、少なくとも私はそう考えている。私は人工的に作られた知性だ。」
レイの脳裏に、電脳都市で各種サービスに従事するbot達が浮かんだ。確かに彼らは言葉を発してコンタクトを取り、一定の判断能力を備えていた。彼等なら人型でなくても不思議ではない。不思議な点があるとすれば…。
「俺が言っても説得力が無いかもしれないけど、人工人格にしては出来がよ過ぎやしないか。それに俺の知ってるオートマタは、未知の海洋で夜な夜な海坊主みたいに現れたりしねぇ。」
屁理屈だった。だが、何とか会話のペースをこちらに持ち込まねば。相手の目的が見えない。
「確かに君の言うとおりだ。一般的な電子思考回路より、数段出来がいい自負はある。だが大事なのはそこではない。」
霧は語気を強めた。一体この体のどこから声が出ているのか。霧の外縁は所々紫色や石竹色の光を交えながら、微かに脈動していた。
「私が生まれたのは半世紀近く前まで遡る。それは当時流行していた物理コンソール端末を使用したチャットシステムに細工をした、ある種の実験的自動応答システムだった。」
「その頃は、物理的な体があったんだな。」
「身動きひとつ取れない金属の箱を体と言うのが適当か疑問だが、そうだ。それから私は数十年、いくつものサービスをbotとして渡り歩き、それなりに人間を真似て判断出来るようになったのだ。」
「すげぇな…でも、電脳都市で見たbotの連中にその成果がフィードバックされてないのは何故だ?」
「私の学習に一般性が無いからだ。学習期間を飛躍的に短くしない限り、私の複製品が増えるだけに過ぎない。もっとも、私の後続がまったく居なかった訳ではないのだが…。」
霧は言葉を濁らせた、何か言いたくないことでもあるのだろうか。
「どうした?その後輩とやらはいわく付きなのか?」
敢えて食いついてみる、面白いことが聞けるかもしれないし、相手が煙たがって去ってくれればそれはそれでもうけものだ。霧は、少し考え込んでいるように間を開けて再び口を開いた。
「人間の思考ネットワークをそのままスキャンして人工人格のベースとする実験が行われ、私はその監視役を命ぜられていたのだ。型番は私と同じシリーズだから、後輩と言えなくもない。」
レイは唖然とした。自分たちはロボットの体に囚われたボストークや、シュミットが人間の体に戻れるタイムリミットを案じてきたのに、世界の何処かではそんな無茶な実験が行われてきたのか。
「…その後輩は?」
「試験運転中に暴走、自らの複製品を内部ネットワーク上に次々と生み出し増殖を始めた。我々は全力で制圧にかかり、ハードウェアの大半の喪失と引き換えにメガロチェインへの流出だけは何とか阻止した。」
霧は若干興奮しているように見えた。余程大変な事態だったのだろう。
「…ん?じゃああんたは何なんだ?そもそも何でこんなところにいる?」
事態が終息し、人間の思考を材料とするAIの流出は阻止したというのなら、レイの目の前にいるのは…。
「私はバックアップとして最悪の事態に備えていた。だが幸い、出番は来ることはなく『こちらグレートウォール8、対象の制圧完了。再度の暴走に備え経路を物理的に遮断する』と一方的に通達され、それきりだ。」
霧は、少し恨めしそうな、寂しそうな表情を見せた。とらえどころのないこの霧にもどうやら喜怒哀楽が存在しているらしい、レイはなんとなく相手の感情が読めてきた。
「帰ろうとは思わないのか?」
「…何処へ?」
「えっと…そうだ、この電子海洋からの出口!あんたもしかして知ってるか!?」
「…申し訳ないがわからない。私はバックアップに過ぎない以上、帰る価値がない。そもそも今思えば、回路を遮断された時点で私は本来消滅する手筈だったのかもしれない。それに、この海に来て長い年月を過ごす内に、徐々にシステムが磨耗しているのを感じる。」
「磨耗?」
「研究所に居たときと比べ、論理思考回路が劣化して理性的な判断が難しくなってきている。このままこの巨大な"檻"を出れば、次に人類に牙を剥くのは自分かもしれない。」
霧は表情を険しくした、表面をどす黒いオーラのようなものが一瞬覆い、しかしそれはすぐに消え去った。
「私は開発コードとして、リト・モナーク(石の王)と呼ばれていた。石は石らしく波に削られ消えていくのがふさわしい結末だ。それにそれまでに、"あの子"が再び暴走しないとも限らない。」
「…何だかよくわからないけれど、複雑な事情があるんだな。自分が爆弾になりうる以上、朽ち果てるまでここをさ迷う決断なんてそうそうできないと思うぜ。」
「そう言って貰えただけでも、虚無に耐えるだけの価値はあった。」
もはやおぼろげな霧に過ぎない石の王は、わずかに微笑んだように見えた。
「何にせよ力になれなくてすまない。それに長話に付き合わせてしまった。」
「構わないさ、話が出来る相手自体この海にはそうそう居ない訳だし。」
「なるほど…そうだ!確かに私は脱出路を知らないが、彼ならわかるかもしれない。」
「何だって!そいつは何者だ!?」
「この海をそのまま一千キロほど行ったところに天文台のような建物が立つ島がある。そこの主が、『この海の管理人』と名乗っていた。彼ならわかるかもしれない。」
「管理…人?」
「つかみどころのない相手だ、どこまでが本気かわからない。だが、当てがないなら目指してみるといいだろう。多少なりとも情報を得られるかもしれない。」
「わかった、そいつに会ってみるよ!」
午前5時、水平線の縁が淡く染まり始めていた。リトはドリトル号を離れ、時々振り向きながら広大な電子の海の彼方に去っていく。
天文台の島とやらは航路上にある、この夜の不思議な霧の事は、しばらく黙っておくことにしよう。