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サヨナラわんわん、こんにちはワンワン。(死を受け入れられない私について)

2ヶ月ほど前、実家で飼っていたラブラドールレトリーバーのマックスが亡くなった。

私はハタチの頃に実家を出て以来、親元を離れ7年間一人暮らしをしている。
3/21、母親からの連絡で知らされた。
マックスは肺に癌を患っていて、なくなる2年ほど前から医者に、後半年かも、1ヶ月かも、と脅されていたもんだから、医者の宣告を無視してケロッとした顔で大好物のキュウリにガブついていたマックスに、"ねえ、本当はウソなんじゃないの〜?"なんて思ったものだ。

マックスの闘病生活

マックスの癌は、一度は摘出手術をしたものの、癌はお尻に転移していて、次第に大きなコブのようになり歩行を困難にしていた。
コブの切除は、若くはないマックスにとっては負担が大きく、お尻の半分くらいに影響してしまっていたため、片脚もろとも取り除かなくてはならないうえに、脚を切除しても、他に転移していたら意味がないと言われてしまい、泣く泣く治療を断念した。

日に日に大きくなっていくコブの歪さと、それと付き合っていかなければいけない家族の苦悩からか、逆に母達は"マックスのお尻のドラゴンボール"なんて言って愛着を持って(?)呼んだりしていた。
コブがあるだけであれば問題はないのだが、それは癌の塊で、晩年には大きく風船のようにふくらんで床擦れになった部分から、頻繁に大量出血を起こすようになったり(朝起きたらマックスが血まみれなので、スプラッター映画か!と思ったわ!と母からよく連絡が入っていた。)、脚を圧迫しだし、ついにはズリバイでしか動けなくなってしまった。
勿論そんな状態で散歩も行けず、家で寝たきりのマックスに少しでも気分転換をと、父は犬用バギーを買ったり犬用車椅子(?)を買ったりしていたが、実際バギーで散歩に連れて行ってあげると、弱々しく尻尾をパタパタと振ったり、バギーから顔を出して辺りをキョロキョロし匂いを嗅いだりしていたので、マックスも喜んでくれたのかな、と。



マックスとわたし

とはいえ正直、マックスの晩年はコロナ禍であったので、私はほとんど実家に帰省できず、家族から話を聞くだけであまり実感を持てずにいた。
私の中では、
全く吠えないので声を聞くと、いつ振り!?と驚いてしまうマックス
私が家に帰っても静かに玄関ドアに頭をくっつけて待っていてくれるマックス
ただいまと言うとすぐにリビングに帰ってしまうツンデレマックス
お腹や首を撫でられるのが好きなマックス
豆腐やキュウリが大好きなヘルシーマックス
ドッグランに行っても犬より人が好きで、全飼い主に挨拶してまわるマックス
畑の畦道を散歩すると喜んで昆虫採集(?)ばかりするマックス
海に連れてっても興味を示さないマックス
おじいちゃんの靴下が大好きなマックス
ヨダレの分泌がハンパないマックス
散歩中に石像の如く断固として動かなくなるマックス
…あげ出したらキリがないが、元気で面白いマックスで私の記憶は留まってしまっているように思えてならない。


なので"マックスが死んじゃったよ"と言われても、本当は悲しいことなのだが、涙すら出ず、ひと月半程度経つまで全く実感が湧かなかった。
もしかしたら寂しさすらあまり感じていなかったかもしれない。

では何故ひと月半経って実感が湧いたのかというと、実家から"はじめまして、エマちゃんです"と、子犬の写真が送られてきたからだった。

怒りと寂しさ

マックスを飼いはじめてから長い年月がたち、私の考え方も変わってきていた。
ペットショップによる動物の売買や、そのための繁殖の現状、売れ残りや手放されたペット達の殺処分の問題など、社会的にも取り沙汰されることが多くなってきたこともあり、
私自身、お金を払ってペットを"買う"という行為に違和感を覚えるようになった。
確かにマックスは当時ペットショップで購入したが、今思えば"家族"をお金で買ってきたという現実に矛盾のようなものも感じていた。
"お金で買う"という行為は、生活に対する補充や娯楽のようなイメージがあるからかもしれない。
なのでマックスがいなくなった寂しさを、またお金で埋め合わせをした家族を許せなかったのだ。

マックスが亡くなる一年前に、祖父も肺がんによって他界した。
当時も皆悲しみに暮れ、祖母は泣き寝入りをする毎日だったが、皆が寂しさを共有しながら互いに想い出として昇華させていき、自然治癒的に気持ちの回復ができた。
失ったものへの寂しさは、時間の経過によって現在から過去へと変化し、寂しさの感情から共に過ごした時間の想い出になるのだと信じていた。
なので、寂しさを別のもので埋め合わせをして、突貫工事的に傷を塞ぐやり方は、自分達さえ良ければそれでいい、というエゴにしか見えなかった。
祖父が亡くなって寂しいからって、誰も新しいおじいちゃんを連れてきたりしないはずなのに、
なんでペットだとそれが出来ちゃうの?と、とても混乱したのだ。

新しい仔犬を飼ってしまった以上、当時のマックス同様に、目一杯の愛を注いで家族同様大事にしなければいけないということもわかっているが、
気持ちが抑えきれず、家族に対しても過剰に突っ掛かってしまった。
だってそんなのってただの寂しさの代用じゃん!
それに対する母の回答は、寂しいのだから仕方がないでしょう、だった。
また祖母は、新しい仔犬を飼うなどしないと、寂しさのあまり生活ができなかったと言っていた。

全く話が通用しなかった。

そして"マックスがいた場所に、今は別の子が居るのよ!"という現実に、
マックスがもう居ないことへの喪失を感じて、私は初めて泣いた。

故郷といまを生きる場所

自分がこれからのいまを生きる場所が今住んでいる東京なのだとしたら、大阪の故郷は私の想い出が生きる場所なのだと思う。
故郷のデータを勝手に更新するな!とは言えないけど、それでもあの頃で時が止まってくれていたら、と願う場所なのだろう。

想い出が生きる場所において、私の想い出が存在していたスペースに、自らの想像により想い出を再現することを、あえて"想造"と呼ぶとしよう。
想造するためには、その想い出が存在していた実際のスペースがいる。勿論マストではないだろうが、そのスペースが健在であれば容易く想い出を想造することができるので、想い出達がまだそこで、当時の時間の流れの中で、生活しているように思える。

例えば、母校を懐かしむ時、その場所が存在しているという事実は、その校舎の中に私達の記憶もしっかり留めてくれているように感じるが、
もしその校舎が取り壊されるとなれば、その記憶の蓄積ごと、クレーンでグシャグシャにされてしまうような気分になってしまう。
さらにもし、その校舎跡地にショッピングモールが出来たりしたら、私達の記憶を上から上書きして消し去られようとしているように感じてしまうと思う。
校舎さえ残っていれば、記憶の延長として、あの頃の私達はそこでいつものように授業を受け、友達と話し、学生生活を当時と変わることなく送っているように感じられるのに、と。

だから、実際にはマックスはこの世にもういないけれど、実家に帰ればまた元気な姿で会えるんじゃないかみたいな想造のおかげで、"もう居ない"感を自己的に和らげることができていたとすると、本来マックスが居たはずの場所に別の仔犬がいるなんて。
"あんたの幻想ももう終わりね"と突きつけられたようだったのだ。

想い出として生き続けるとか、そんなこと言われなくたって分かってるし、そういう精神的なことでなく、実体がないということを気付かぬふりして過ごしてたので、
唐突に突きつけられた現実に対してやるせない気持ちになっているのか
現実を突きつけた親に対して腹が立っているのか
そもそも初めから素直に悲しむことができなかった自分自身に幻滅してるのか
…なんだかよくわからなくなってしまった。

失恋には新しい恋とよく言うが、
恋人と過ごす時間はいまを生きる場所であり、これからの未来にも変わらず相手が側にいると思っていたのにも関わらず、唐突に離れていったら、実体ごと消えてしまうので、相手が居るはずの場所は空白になってしまう。
その空白の補完をするために、新しい恋人と付き合うと言うのは、まさに寂しさの代用だ。

家族にとって、マックスのいた現実は過去でも何でもなく、まさに現在進行形で、いまを生きる場所だった。
そして家族にとってマックスは形を持つ、まさに実体だった。
けれど、離れて住む私はどうだろう。
私にとってのマックスは、実体に触れることは距離の関係上できないので、想造によって再現される、故郷の想い出になっていたのではないか。

想い出と場所の関係

想い出を想造できるのであれば、想い出が存在した場所も想造できるのだが、それは完全にヴァーチャルなものとなる。
実際の場所をもとに想造することは、リアリティとヴァーチャルの融合なのだ。
「上手なウソのつき方は、少しだけ真実を交えて話すこと」というのに似ている。
リアリティとヴァーチャルの融合による想造は、想い出にある種の確実性を持たせてくれる。
ARが半リアルに感じるのと同じだと思う。
けれど完全ヴァーチャルな想造は"偽物すぎる"のだ。

私はきっとマックスが亡くなったあとも、マックスがいたはずの場所に紐付けて、想造によって再現することで、マックスを"リアルなヴァーチャル"として認識できたのだろう。

私は非情なのかしら。

そうすると、私は寂しさを想造で誤魔化すことができたが、家族は寂しさに耐えられず新しい実体の補充を選択したのかもしれない、と何となく腑に落ちるものがある。

けれど、そもそも家族というのはこれからもずっと家族であり、これからの人生にも大きく関わってくる存在であるのに、何故私は家族を"想い出"に葬ってしまったのか。
家族を"想い出"に葬った私が非情なのか。

パラレルな二つの場所

とはいえ実家に帰省したときには、家族は私にとって目に見える実体となるので、その時点では家族は想い出という想造による物ではないはずだ。
とすると、自分がその時にいる場所がいまを生きる場所で、それまで想い出が生きる場所だと認識していた実家も、そこを訪れることで再び時間が動き出すということか。
私は同時に複数の場所に存在することはできない。
なので電気のスイッチをパチパチと切り替えるように、いまを生きる場所を切り替えることで、そこで生きた時間が他の場所に移った際に想い出として更新されるのかもしれない。

私にとって、今いるこの場所こそいまを生きる場所で、それ以外の場所は想い出が生きる場所なのだ。
そして、自分がいまを生きる場所での時間の経過によって新たな想い出を創出する。
想い出が生きる場所は、当時の時間の流れに囚われているが、またそこを訪れることでいまを生きる場所に変換すれば、また時間を少し動かしてあげることができるのではないか。

二つの場所は時の流れの異なる、パラレルな空間なのではないか。

私の反省

私にとっての想い出としてのマックスと、
家族にとっての実体としてのマックス。
両者にとってマックスが生きていると感じる場所が異なったために生じた見解の違いだったのかもしれない。
とは言え個人的には大好きだったマックスが亡くなって、すぐに新しい犬を飼うことは考えられないし、それ自体には大反対なのだが、
もしその時家族に共感するにはどうしたらよかったか。

あの時、連絡を受けてすぐに家族の元に飛んで帰ったら、想い出としての時を進められたのに。
マックスがもういないという事実を実体として認識でき、同じように悲しむことができたのに。

とはいえコロナ禍。
コロナが私達の2つの場所を分断してしまったのかもしれない。
私達は都市間の移動を自粛せざるを得ない以上、遠く離れた想い出が生きる場所の時間を進めてあげることが難しくなってしまっているのかもしれない、と。

(思い出への反省という意味では、
よだれでベトベトだけど、ちゃんとオモチャで遊んであげたらよかったとか、散歩はもっとマックスの好きなようにロングコース歩いてあげればよかったとか、挙げ出したらキリがない。)

終わりに

新しい仔犬はエマちゃんと言うらしい。
コッカースパニエルとプードルのミックスだという。
母とはこの件でかなり言い合いになったのだが、今では「今日はお手を習得したよ」と写真付きでLINEを送ってくる。
やはり犬って可愛いなとつくづく感じるけれど…
いつまでもマックスがそこに居ると思いたい私と、次のステップに進んだ家族。
緊急事態宣言が明けて、実家に帰れた時にエマちゃんとマックスの時と同じように接したい気持ちも勿論あるので、むしろ私の方が次のステップに進むべきなのかしら。
でもこの文章を書きながら、マックスとの日々を思い出すと未だに悲しさでいっぱいになるので、私の気持ちの整理はまだ少しかかりそうだ。

※以下メモ



マックス、私の家族になってくれて本当にありがとう。
君と過ごした日々はかけがえのない想い出です。


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