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小池美波によって『ソニア』は、櫻坂46の『二人セゾン』になりうるか

「ソニア、ソニア、ソニア…」と、サビで、タイトルを連呼する曲、かすかなデジャヴ感。音源公開時の歌い出しからなんとなく想像できてたものの、センターが小池美波と判明したとき、ああ、『二人セゾン』に似ているんだとやっと気づいた。私の中で『二人セゾン』はもう小池美波の曲である。

『ソニア』の第一印象は、おそらくフロントに位置するだろう守屋・大園らが笑顔で歌うイメージがぴったりな、そんなただの神曲だと思ってた。大人になったら、自分のリップスティックで、自分らしい色に染めたい——真っ白なグループとしてはじまった櫻坂に色を添える、そんな幸多き未来を夢見る曲。『流れ弾』『Dead end』と対になる女の子らしい曲。櫻坂もこういう曲を歌うことになるんだな…ぐらいに受け止めていた。
ライブで披露されるようになり、欅のハーネス衣装に似た白い衣裳に身を包んだメンバーがキラキラした笑顔を振りまくその中心で、小池だけが一人泣きそうなどこか不安げな遠い視線と、曖昧な笑顔を投げかける。ん、なんだろう隣の守屋はもちろん、藤吉ですら笑顔を見せる楽曲で、この表情は何を表現しているか。初披露前後で、小池は、『ソニア』は、もっと切ない、大切な人を思う曲といった解釈を展開していた(さらに大園により、僕がママに語ってくれたおばあちゃんの話という背景が紹介されるが…、確かにそう読めなくもないけど、それが公式見解なら、それに従おう)。緊張してた、というのはあるかもしれないけど、回数を重ねるごとにだいぶ整理されて、BACKS LIVE!!でだいぶやりたい形になったのではないだろうか。具体的な解釈は、観る側に委ねられるのだが、より深い解釈ができるように余白のある表現になってたのではないか。私はこの楽曲のパフォーマンスを通して、大人の自由を獲得する喜びと、大人になってしまうことの淋しさが入り混じった、思春期ならではのアンビバレントな感情が、センターとそれ以外のメンバーの対比によって表現されていると感じた(浅薄だけど)。

欅坂から櫻坂になって、全体的に楽曲の主人公の年齢が引き上げられているが(『地下鉄』で欅時代の厨二病を自虐的に振り返るぐらいの年齢には)、『ソニア』ももともとは少女時代を振り返る年齢の曲だと思う。一人称が僕なのか、僕の話し相手なのかが不明だけど、語り手も聞き手も大人の年齢であることは間違いないだろう。
でも、小池の解釈でパフォーマンスを観ると、主人公は、ママのリップを盗んだり、恋をして色に迷う少女が《今ここ》を生きる人物として現れてくる。楽曲の振り付けや表情、全体の演出にどれだけ、自分達のアレンジを盛り込めるものなのかわからないけど、『ソニア』の物語は、まぎれもなく、小池とメンバーたちがつくりだした少女によって生きられる。この少女像が生まれたとき、『ソニア』を歌う16人のメンバーには、『二人セゾン』の21人に匹敵するような、強い絆ができてるんじゃないかと思う。

さて『二人セゾン』ってどんな曲だったろうか。

欅坂46から、1曲選べといわれたら、もう『二人セゾン』一択だ。移ろう季節の、《今ここ》の刹那の時間を、少女たちの成長を、こんなにも美しく描けるものなのか、はじめて秋元天才かと思ったと同時に、なんだこのアイドルグループは、と思った曲だった(ずっと音源だけ聴いていたので、このグループには絶対的センターというのが存在していて、それがどの子なのかというのは結構後から知ったのだった)。今にして思えば、こんな曲を歌っていたら、グループは長続きしない。そんな刹那的な危うさ、脆さ、だからこそ美しい儚さみたいなものが全部つまってる、そう思った。
そんなMVの世界の中で、彼女たちがまさに、その時間を生きてるのだと思った。アイドルグループ欅坂46のメンバー、MVの中で描かれる少女たち、実在の彼女たちが、それぞれ別人格であるはずなのに、シームレスにつながっているように錯覚してしまう。MV撮影時に「この時間は二度とない」という言葉をいわれたとき、それを100%受け止めてしまう感受性が彼女たちにあった。

実際は《今ここ》を共有するといってもそんな特殊能力でなくて、ちょっと感受性が強いぐらいの意味だ。彼女たちは自分たちが普通のアイドルグループだと思っていたのだから(LASTLIVEで菅井が「普通のアイドルグループじゃなかったのかな…」と振り返っている)。ただ「大人に反抗する曲を大人に歌わされてる」というナイーブな揶揄なんかも受け止めてしまう弱さも否定できないが、それも全部含めて欅坂だったのだ。

花のない桜を見上げて満開の日を想ったことはあったか?
生きるとは変わること
想像しなきゃ夢は見られない

二人セゾン

同じ曲を何度繰り返しても、《今ここ》は代替がきかない一瞬。
それが何よりも大切なものだけど、生きるために、その一瞬一瞬を胸に刻みながら変わり続ける。『二人セゾン』の主人公は「僕」だけど、『ソニア』の主人公にも同じ逡巡と決断があるように思う。
そして『ソニア』にも、《今ここ》を共有するための舞台装置(歌詞や振り付け)があって、前述のような感受性を増幅させる効果があるように思うのだ。
もしくは、小池美波そのものが《今ここ》を生きる触媒となって、メンバーに作用している。少なくとも、BACKS LIVE!!では、彼女たちの感受性は振り切れっぱなしだったろう。

と、意味不明になったあたりで。


1st YEAR ANNIVERSARY LIVEは配信で観る限りだったけど、『ソニア』の背景で流れた16人の美少女がリップつける動画は、MVにまとめて4thの特典とかにならないかな。

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