『サイレントマジョリティー』をアップデートする——櫻坂46『引きこもる時間はない』
欅楽曲の呪いと解放
ゴミの上に倒れている小島のシーンを観て、欅の曲を思い出す。MVで描かれる彼女たちは「時代の片隅で殺されつつある」あの頃の「僕」と重なる。それは『静寂の暴力』の主人公たちが住む世界にもリンクする。
こちら側と向こう側、内と外、子供と大人、個と社会etc.
周囲から切り離され、無視され、自分とは関係なく世界が存在しているかのような感覚は、やがて向こう側への敵意・不信感となり、孤独を助長する。
笑わない、媚びない。まるで大人たちを信用していない彼女たちの態度を見て、秋元康は『サイレントマジョリティー』のモチーフを得たという話は、よく知られるところである(後付けくさいエピソードだが)。
三期生曲『静寂の暴力』は直訳すれば「Violence of Silence」となり、Simon & Garfunkelの『The Sound of Silence』の本歌取りなのだが、この「サイレンス」という言葉からサイマジョとの関連性、つまり一期生との類似性を考えずにはいられない。
彼女たちの第一声は、さすがに表題曲としてキャッチーな言葉で高らかに歌い上げられている。が、ここから『不協和音』に向けて、主人公はどんどん大人=社会への不信感を増幅させていく。最後には、彼女たちのエピソード0である『月曜日の朝、スカートを切られた』では、ストレスの捌け口にしながら、したり顔で手を差しのべてくる大人たちへの強い否定と「私は悲鳴なんか上げない」の決意とともに『サイレントマジョリティー』に回帰する。一番後からリリースされ、かつ最も強い否定を提示する月スカが、一番キャッチーなサイマジョに接続されることで、一度ハマるとなかなか抜け出せない強烈な負のループとなる。
冒頭にも挙げた、彼女たちのパブリックイメージは、制作・運営陣によってつくりあげられたものだ。それは、『サイレントマジョリティー』から『大人は信じてくれない』『不協和音』『月曜日の朝、スカートを切られた』といった楽曲群がこの循環構造をつくることで、完成したといってもいい。
大人は判ってくれない——。このループは非常に危険で、だからこそ魅惑的だった。しかし、グループが打ち出したイメージは、アンチを引き寄せ、また、メンバー自身が大人の年齢になってしまうことで、埋めきれないギャップが広がっていく。このイメージ戦略は、もともと長期プランとしては無理があった。
でも、欅坂崩壊直前の楽曲で、一筋の光が見えていた。
歌詞が歌い手の心情と未来を描くものならば、『砂塵』は何かしらの相互理解が深まったこと、ループの出口が見つかったことを物語っている。
改名して、大人になった彼女たちは、あの頃の自分を相対化する。大人を敵視し、何者かになれると思っていたあの頃の自分はどこか病んでいたのかもしれない。それに気づいたあとも人生は続いていくのだ。このような一・二期生の足跡は先行する物語として、三期生に受け継がれていく。
三期生楽曲がもつ批評性
『引きこもる時間はない』で描かれる内側の世界は、『静寂の暴力』から続く、負のループの世界と同種のものである。
社会(他者)との関係性がうまくとれない自己に対して、欅坂(一期生)は自虐に突き進んでしまった。改名後の彼女たちは、慎重に負のループを回避してきたが、『Start over!』のカップリング曲として、もうひとつのやり直しを企てる。「思考を停止させる暴力」にさらされながら、櫻坂(三期生)はひたすら孤独に突き進んでいく。しかし、それは静寂という名の音が要請したものである。
沈黙が強いる孤独に耐えること。一・二期生たちは停滞と別離によって自ら成長せざるを得なかったが、三期生にはイニシエーション(通過儀礼)としての孤独が与えられた。『静寂の暴力』は、アイドルが誕生する過程を描いた『夏の近道』に先行する、まだ何者でもない11人の少女たちが孤独の夜を潜り抜けるドキュメンタリーである。
君を海に誘いたい気持ちも、孤独の夜も、きっと誰かの経験と重なる。三期生楽曲においては、先行する楽曲群はよくある感情として一般化されていく。
負のループとして機能した欅坂の歌詞世界は呪いの言葉として彼女たちを蝕む。歌詞の呪いを解き放つのは、それが誰かの経験としてありふれた感情であることを示すこと。これまでも、これからも繰り返されるポップソングとして中和されていく。では、解放された彼女たちの独自性は失われたのか。
彼女たちは常に進み続ける。歌詞やMVはその瞬間のスナップショットでしかない。彼女たちの独自性は、ライブ空間における一回性へと転換され、『夏の近道』間奏のソロ、『静寂の暴力』の無音ダンスという、単なるサプライズを超えたパフォーマンスへと結晶する。
季節をモチーフにした『二人セゾン』は『夏の近道』に軽やかに上書きされ、平手のダンスは村井・山下のダンスへと更新される。そのように、三期生楽曲はライブパフォーマンスにおいて完成に向かう。
『サイレントマジョリティー』をアップデートする
MV冒頭に現れるのは『サイレントマジョリティー』MVの撮影地となった渋谷ストリーム、『月曜日の朝、スカートを切られた』冒頭のクレーンを想起させる建設風景。それらを見下ろす視線に向井がいる。
過去楽曲へのオマージュであるとともに、本作がそれを批評的に受け継ぐことを示唆している。彼女たちを取り巻く環境もアップデートされているのだろう。私は、東京の土地勘も、2016年と2024年の変化を分析する術もないので、詳細なことを述べることができない。憂を帯びた顔の11人が意を決して走り出す様は、むしろ『夏の近道』と似ている。
彼女たちは何かと時間がない。もちろん、アイドル人生は無限ではないし、先輩たちとの時間もどんどん少なくなっていくというリアルな境遇もあるだろう。MVでは「僕」に急かされ、走り出した彼女たちがSHIBUYA TSUTAYAの屋上に集結し、最後はそれぞれの方向に向かって散開する様が描かれる。その中で、向井が前後にポジションを移動しながら「サイマジョ」の十戒シーンを一度逆再生し、再現する。
軍隊のような不自由な所作から、字義どおり自由な場所へ。
作詞、作曲、舞台装置と、さまざまなものが『サイレントマジョリティー』に寄せながら、各自バラバラのY2Kファッションに身を包んだ彼女たちは、サイマジョで最も知られるシーン(YouTubeでももっともリプレイされた箇所である)を逆再生し、自分たちのスタイルで再構築していく。
『二人セゾン』から『夏の近道』へ、『サイレントマジョリティー』から『引きこもる時間はない』へのアップデートで共通するのはセンターポジションの解体である。
平手センター曲はそれで完成されたものである。小池の『二人セゾン』、菅井の『不協和音』のように、オルタナティブな形で成立したパターンもあるが、今の櫻坂はもう欅坂を必要としていない。なのに三期生たちを見ていると、まるで欅坂の遺伝子を受け継いでいるかのように見えてしまう……。
欅坂との関連性は当初から意図されたものでなく、彼女たちの資質、TAKAHIRO先生の解釈により、MVやライブの中で発見され、再構築されてきたものだろう。
三期生曲に限らず、3rd TOURあたりからライブでの楽曲アレンジがどんどん広がって、『桜月』のように披露のたびに解釈が変遷していく楽曲も出てきた。『静寂の暴力』『引きこもる時間はない』も同様の変化を見せるポテンシャルがあると思う。
次々と曲は生まれ、解釈もまた変化していく。その意味でも、立ち止まっている時間はないのだ。
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