[内村鑑三] 信仰治療法

内村鑑三の文筆活動における最初の作品『基督(キリスト)信徒のなぐさめ』には、「不治の病に罹(かか)りし時」という文章がある。

その中に「信仰治療法」なるものが記述されており、興味深かったので、ここに紹介しておきたい。

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汝(なんじ)如何にして汝の病は不治なるを知るや、名医已(すで)に汝に不治の宣告を申渡(もうしわた)したるが故に汝は不治と決せしか、然(され)ども汝は不治と称せし病の全癒(ぜんゆ)せし例の多くあるを知らざる也、汝は十九世紀の医学は人間という奇蹟的の小天地を悉(ことごと)く究め尽せしものと思うや、近来医学の進歩は実に驚くべきなり、されども医者は造物主にあらざるなり、時計師のみが悉(ことごと)く時計の構造を知る、神のみが悉く汝の躰(からだ)を知るなり、殊(こと)にこの診断粗陋(そろう)の時代に当て我等は容易に失望すべきにあらざるなり、生気(せいき)は天地に充ち満て常に腐敗と分解とを留めつつあるなり、医師悉く我を捨てなば我は医師の医師なる天地の造主(つくりぬし)に行かん、彼に人智の及ばざる治療法と薬品あるべし、生命は彼より来るものなれば我は真(まこと)に生命の泉に至て飲まん、医学の進歩と同時に人類が医学を専信するに至り、医学の及ばざるを以(もっ)て人力も神力も及ばざる処と見做(みな)すに至りしは実に人類の大損耗と云わざるべからず、我等勿論(もちろん)旧記に載(の)する奇蹟的の治療今日尚(なお)存するとは信ぜず、屋根より落ちて骨を挫きし時医師に行かずして祈祷(きとう)に頼るは愚なり、不信仰なり、神は熱病を癒さんが為に「キナイン」剤を我等に与え賜へり、人これあるを知て之(これ)を用ひざるは罪なり、局部切断の時に当り「コロロホルム」剤は天賜(てんし)の麻酔剤なれば感謝して受くべきなり、然(さ)れども我等病める時に悉(ことごと)く医者と薬品とに頼るは我等の為す可(べか)らざる事なり、我等病重くして庸医(ようい)を去て名医に行くが如く、名医も尚(なお)我等を治(ぢ)する能ざる時は神なる最上の医師に至る也、庸医が我の病は不治なりと診断する時は我は絶望に沈むべきや、否(いな)然(しか)らず、名医の診断は庸医の診断の全く誤謬(ごびゅう)なるを示す事あるが如く、全能の神より見賜(たま)う時は不治と称する汝の病も又治(ぢ)し難(がたき)の病にあらざるべし。

世に信仰治療法なるものあり、即ち医薬を用いず全く衛生と祈祷(きとう)とに由り病を治する法を云ふ、我等は或る一派の信仰治療者の云ふが如く、医師は悪鬼の使者にして薬品は悪魔の供する毒物なりと云わず、されども信仰は難病治療法として莫大の実功ある事を疑わず、勿論(もちろん)我等の称する信仰治療法なるものはかの偶像崇拝者が医薬を軽んじて神仏に祈願し、或いは霊水を飲むの類を云うにあらず、信仰治療法は身体を自然の造主(つくりぬし)とその法則とに任(まか)し、怡(たい)然として心に安じ宇宙に存在する霊気をして我の身体を平常体に復(ふく)さしむるにあり、是迷信にあらずして学術的の真理なり、殊(こと)に医師の称する不治の病に於(おい)ては唯(ただ)此治療の頼るべきあるのみ、我は我が病を治せんが為めに法便(ほうべん)として信仰せず、是(これ)真正の信仰にあらざればなり、如斯(かくのごとき)の信仰治療法は無益なり、然(しか)れども我信ぜざるを得ざれば信ずるなり、
見よ下等動物の傷痍(きづ)を癒すに於(おい)て自然法の速やかにして実功多きを、清浄なる空気に勝(まさ)る強壮剤のあるなく、水晶の如き清水に勝る下熱剤のあるなし、殊に平安なる精神は最上の回復剤なるを知るべし、博識に依(よ)る信仰治療法は病体を試験物視する治療法に優(まさ)る数等なるを知れ。

内村鑑三『基督信徒のなぐさめ』岩波文庫P.89-91
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不治の病、あるいは重い病の中にある信仰者にとって、常識的なバランスの取れたこの信仰治療法の指針は、何らかの希望の灯火(ともしび)となるものと思われ、また現に病に臥せる親しい人々には、祈りを添えて送りたくなるような文章である。

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