コミュニケーション・エラー

注:これは8/23(日)の10:00~17:00に開催されたオンラインイベント「SNS医療のカタチ」の感想です。この文章は8/23深夜から8/24に書いたものであり、アーカイブで確認できないため放送内容及びチャット欄に関することは記憶のみで記しています。ファーストインプレッションを消さないために衝動的に書き、あまり推敲してませんのでご了承ください。

最初に書くが私はこのイベントがあって良かったと思っている。色々と考えることが出来て勉強になった。意義については疑っていなかったし、開催まで様々なことを犠牲にした人がいるのは知っていたのでスーパーチャットで1万円程度の寄付をしている。YouTubeが手数料を結構持って行くと聞くのでいくらかは届いていないと思うが、少しでも足しになるとありがたい。(ちなみに金額を書いたのは本気度を示すためで他意はない。)

で、なぜこれを書く気になったかというと、あの着地で良かったのか?と思ったからだ。

どうしても説明がいると思うのでざっとこの7時間のオンラインイベントを紹介する。中心となった人物は3+1の四人の医師で、大塚医師(皮膚科医)、山本医師(外科医)、堀向医師(小児科医)、そして市原医師(病理医)。この方々が中心となって「医療におけるコミュニケーション・エラー」を減らすことを目指しているのが「SNS医療のカタチ」で、週に1回のペースで様々な医師をゲストに呼び、話を聞き、質問し合うというYouTube番組を続けていた。この方々はSNSで積極的な発信をしており、けっして医学知識一辺倒ではないこともあってかフォロワーも多い。YouTubeのチャット欄には「ファン」とも言える人が集い、時には出演したことのある医師がチャットに登場することもあって、フランクなコミュニケーションが行われていた。その試みの大規模版をリアルイベントとして計画していたところ昨今の事情により不可能となり、その代わりに実現したのがこのオンラインイベントということのようである。

進行としては中心になった医師たち、がん患者、生と死の問題をテーマに含む作品を描く漫画家、僧侶、企業公式アカウントの「中の人」などがメンバーを変えながら各一時間のセッションに登場して話し合う、というもの。ハッシュタグは「やさしい医療」が使われたのは冒頭に書いた通り。つまり「医療」と「人」との「やさしい」かかわりが主軸であったのだと思う。「かかわり」に立ちはだかるのがコミュニケーション・エラーだ。

セッションは目を開かされることが多く楽しんで見た。機材トラブルに心無い言葉を書き込んだ者もいたが、普段のYouTube番組と似たような雰囲気で、出演者を元々知っている人たちによるおおむね温かいチャット欄であったように思う。

このチャット欄が荒れ始めたのは最後のセッションだった。司会である浅生鴨氏、命にかかわる病を持つ写真家の幡野弘志氏というメンバーがスタジオに、大塚医師と山本医師が京都からオンラインで参加するという状況に、糸井重里氏が加わったところだ。
そこで糸井氏は「ほぼ日の仲間」というノリで今回のイベントと関係ない会話を始めたのである。その間医師たちは会話に入れなかった。司会の浅生氏は「勝手にどんどん入ってきてください」と言ったが、大塚医師は「タイムラグがあるので難しい」と答えた。
医師が発言しようとしてもタイムラグのせいで話し出した瞬間にはもう糸井氏がしゃべっている。
「関係ない話はやめて」「糸井さんうるさい」のような書き込みがチャット欄に出始めた。

こういうことを書き込む人はどんどん増えていくことが多い。増えればエスカレートし、強い言葉が出るようになる。人は他人がやっているのを見て自分の中のハードルを下げる。みんなで渡ってしまうのだ。

そこで主催者の一人、ヤンデル先生こと市原医師がツイッターとチャット欄に書き込んだ。
「医者同士でしゃべっていてもしょうがないからこれでいいのだ」という内容である。
現在チャットはアーカイブが公開されておらず正確に拾うことはできないが、公式アカウントからされたツイートには「医者が言いたいことだけ言ってたらそれはコミュニケーションエラーです。」と書かれていた。
チャットの方では「キャッキャウフフ」という言葉が使われていた。このイベントは「医者同士がキャッキャウフフ」するのが目的ではないと。では何が目的なのか。

キーワードの「やさしい医療」は結局定義はしないまま使い続けていく言葉のようで、「コミュニケーション・エラーを減らす」のがこの集まりの目的なら「よりよいコミュニケーションを図るための機会」だったのだろう。
違う立場の者同士が意見を交換する場。
だから市原医師は医者ではない糸井氏たちの雑談を「これでいい」と言った。果たしてそうだろうか。
もちろんあの場は何とかして収めねばならなかった。そういう意味で書き込みをしたのは主催者として正しい。

だけど、あの雑談を「これでいい」と言ってしまうのは違う気がするんである。

医療の上でのコミュニケーションなのだから、相対するものとしてくくられるのは医療者サイド(医者以外を含む)と医療を受けるもの=患者サイド(患者、患者の家族・身近なもの、これから患者になる人を含むだろう)のはずだ。このイベントは医療者サイドと患者サイドのコミュニケーションを軸に、違う立場・意見の者同士が分かり合おうとする場であったはずだ。

だけど、じゃあ糸井氏はあそこに何としていたのか。お友達とだべることを求められたんではないはずだ。医療者サイド代表である医師と相対するのが、このイベントで最低限求められていたことだったんじゃないのか。

チャット欄には実名の医師も医療者らしき人もたくさんいたが、割合で言えば患者サイドの人が多かったろう。相対するものが医療者サイド対患者サイドなら、患者サイドは当然画面の中に医療者サイドを求めて来ていたのだ。「仲間の雑談」にそれはない。

糸井氏自体についてはおそらくメディアへの出演の経験から「流れ」の途切れる沈黙の時間を恐れてのしゃべりであったろうし、途中で気づいて素早く軌道修正したのはさすがと思ったので、いつまでも責める気はしない。(後ほどツイッターで問題にしている人を見かけた、娼婦がどうこう、というのはチャット欄を追っていて聞き逃した。)
でも「これでいい」はずはなかった、というのは変わらない。なぜならこのイベントの根本にかかわる問題を引き起こしてしまったと思うからだ。

違う立場を「理解し切れる」という前提に立たないで、それでも理解し合おうという努力を続けていく、何が「正解」ということはない、そのままで「やさしい」距離を保ちながら、それでも進んでいこうという認識がおそらく一日を通してまとまりかけていたところだったと私は思っている。
そこで「医師の立場と違う視点が欲しかったからこれでいいのだ」という言葉が医師から降ってきた。
これでいい、という発言に反応した人の中には、ヤンデル先生が言うんだから、と「正解」を見つけて納得しようとしてしまったような人を見かけた。それは本当に納得していいのか。

その流れの中で、市原医師と親しい國松医師(内科医)が「弱いままでいらっしゃい」とチャット欄に書き込んだ。
「SNS医療のカタチ」の中でも人気のあるこの医師(はっきり言って私もファンだ)のこの書き込みに「やさしい、感激した」という反応がいくつかあり、ここでも「弱いままでいいのよね」という納得があった。

これは私の勝手な解釈だが、國松医師の「弱いままでいらっしゃい」というのは、「納得」なんてしなくてもいい、何が正解か分かったのか分かっていないのか宙に浮いたままでいいという話じゃなかったのかと思う。
それに対して「感動しました、先生のおっしゃるように納得しないことにします」と反応するのは、もう納得しないことに納得してしまったために固定されており、つまり「弱いまま」ではないのではないか。(仏教の「空」の概念を書きかけたけど繋げられなくなるので割愛。)
それぞれが考え、それぞれのままで医療者の所に来て相対する。それでよかったのに、最後に医師たちがイベントの「正解」を決める発言をしたことで、結果的に「お医者様すごい、言うことを聞きます」みたいなとこにはまってしまった人がいるのではないか。患者は医者を「分かってやる」必要なんてないんじゃないのか。そういう話に途中までなりかけてたんじゃないのか。それはコミュニケーションをしないということではなく「やさしい」距離と気遣いをもってお互いが違うままで存在することだ、ということをみんながなんとなく理解し始めていたところにハプニングで設置してしまった罠ではないのか。
医師たちにそんなつもりはなかったのかもしれない。でも結局「私はその正解を分かってなかったんですね、先生のおっしゃる通りです、言うことを聞きます」という医者が権威勾配として圧倒的に大きい状態、医者が正解を与え、患者はそれを受け入れるというコミュニケーション・エラーの状態に戻ってしまったんじゃないか。

もちろんたくさんの人がこの罠にはまらず、医療者サイドとの関係を考え直す機会を得たとは思う。私自身は市原医師の書き込みに一瞬反発を覚え、次の瞬間に、医師側の視点がゼロだったことに気付いた。お互いがある、ことを認識していなければコミュニケーションにならないのだ。それはその通りだった。
だから、この「荒れる」というどうしようもない状況を打開しようとして着地が歪んでしまったことについては「医者も人間なんだな」という、言語化すると薄っぺらいけど、そういう感覚を改めて持てた。

当然だけど、私は今誰にも怒っていない。通りすがりとしてただ着地が少々残念だっただけだ。
主催者は満足しているのだろうか。もちろん彼らが私よりずっと高い知性を持っている人々であることは知っている。だけど「いい人たち」だからこそ気になっている。感謝せねばならない状況だったからと言って、すべてが正解だったと自分を納得させる必要はないはずだ。時間がたてばあの時の言葉の真意や、イベントに対する率直な気持ちは教えてもらえるのだろうか。

大変すばらしいイベントだったのは間違いない。こんなに大きなことを実現した人々はどれだけ労力を割いたろうかと思う。テレビのようにはいかなかったし不満を書き込む人もいたけど、出演者だけでなくカメラのこちら側で見えないスタッフや様々な手配をした人、チャット欄で私の中になかった意見を書き込んで気付かせてくれた人たち含めて、私もこの機会に立ち会えたことに感謝する。

次回があればリアルイベントで、VRで血管の隙間を通り抜けてみたいです。

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