自分の居場所

さて、今年は新年早々思うところがあり。
「自分の居場所」とはなんぞや?と。

なんでこんなこと思ったかというと、お正月に家でゴロゴロしてるとき、子供のベットに寝っころがっていたら子供に「むこう行って!」と邪険にされたからなのですが。とほほ。

子供のベッドは子供の居場所、誰でも自分のベッドに他の人が寝てたら、そらいい気持ちしません。ある朝出勤して会社の自分の席で他の人が普通に座って仕事してたら、そらやっぱりびっくりする。リビングでこの席はお父さんの席、この席はお母さんとか決まってるおうちもあるでしょうし。あと家を買うというのもそこを終の棲家とする、ここを死ぬまで自分の居場所とするという決意なのかもしれません。

そういう自分の居場所っていうのはある意味、自分に力や自信を与えてくれる時もあると思います。会社でのポジションも居場所だと思いますが、これも誇りや、やりがいにつながってくるかと。

ふりかえって、自分は気づけばフリーランスでエンジニアをやっていますが、これは狙ってというよりかは、ほんとに好きなことしかしてこなかったのと器用ではなく不器用な結果で、今こういう仕事スタイルになっていると思ってます。
おかげさまで時代的に求められる職種でもありごひいきをいただいていますが、このポジションもあやういものでして。
当たり前なんですが永久ではないんですよね。

時代とともになくなってしまった仕事・職種はたくさんあります。また、なにかモノに象徴される居場所、ベッドや椅子なんかは、それがなくなればあっけなく居場所は消えます。会社でのポジションもそうで、役職や地位なんかも不況による人員整理や社内再編、吸収・合併・買収などで、昨日まで普通だったものが軽く吹き飛びます。

余談ですが、社内のフラット化を目指して名字のあとに役職名をつけて呼ぶ呼び方(例えば山田部長とか)をなくしすべて「山田さん」のように呼ぶようにしたら、部長が呼んでも返事してくれなくなったと苦笑しながら話していた方がいらっしゃいました。

家庭だってそうで両親の離婚などで今までみたいには生活できなくなる場合もありますし、災害などで自宅が被害をうけてしまうこともあります。

改めて思うと、ほんとうにモノや相対的価値観に頼ったポジショニングは大変はかない。かといって絶対的普遍的なポジショニングなんて狙ってできるほど安くない。

じゃあ自分はどうすべきなのかなあと考えると、これはまあすぐ答えがでたのですが「居場所を作らない」というところなのかなと。そもそもですが。

自分は住まいも賃貸ですし、自分の会社と言っても個人企業ですから肩書きの意味もほぼありません。自宅のなかでも、これは性分もあるのかもしれませんが、極力、自分の居場所みたいなものを作らないようにしてます。
(家がせまいっていうのもあるんですけどもね)

全部『仮』なんですよね。
なんだかよくわからないのですが気持ちの部分でずっと「安定を否定している」ところがあるなあと自覚はあります。自分の居場所を守ることより、そこで安心しておごってしまうことに怯えるというか。まあもちろん足場をちゃんと固めてからの探究・挑戦なんだぜ?と理屈では分かっているつもりなのですが。

良く言って旅人でいたいという気持ちが強いというか。
悪く言うと根無し草?

で、まあそんな根無し草が子供のベッドに寝っころがっていたら追い出されたというお話しでございます。

ぎゃふん(昭和)

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