見出し画像

しかがみさま 第一章 第八夜

第八夜 登山

「ぁあああ!」
何かを振り払う様に叫んで、俺は飛び起きた。手に掴んでいた布団から手を離すと、掴んでいた辺りがしっとり濡れていた。慌てて手のひらを見れば、びったりと手汗が張り付いている。手汗を布団に擦り付け誤魔化し、口元を拭った。
「うげ」
最悪だ。口を開けて寝ていたのかヨダレがはみ出していたらしい。拭った手の甲に、びろーんと嫌なヨダレが着いている。
「何してんの?」
俺では無い声がして、ふとそちらを見れば、美緒が軽蔑の色を浮かべてこちらを見ていた。
「いや、ちょっとヨダレが...」
言い訳をしてみたが、美緒はその軽蔑を浮かべた顔を戻そうとはしなかった。
「なんでヨダレが出るような寝方してんのよ。どう寝たらそうなんの?」
ごもっともだ。と言うか、俺もその寝方が知りたい。…まぁ、その前にどうにかヨダレを処理したいんだけど。
「美緒、ティッシュ取ってよ」
美緒は心底嫌そうな顔して言った。
「なんで私に取らせんのよ。自分で取りなよ」
正論はやめてくれ。そう思いつつ空いている片手ははるか遠くのティッシュを取ろうと宙を掻いた。
「ほら、取れないから。ね、おねがーい」
いい歳した男子高生のぶりっ子はどうだ。美緒は呆れた様に軽くかぶりを振ったが、ふと、思いついた様に悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「じゃあさ、取ってあげるから私の言う事聞いてよ」
俺は思わずうげ、という顔をしてしまう。こういう時はだいたい面倒臭い事を頼まれるのだ。…まぁ、3年ぶりという事で大目に見てやろう。
「…面倒臭くない奴なら良いけど」
美緒は歯をニカッと見せて笑った。
「じゃあ交渉成立ね」
じいちゃんには勿体無い位柔らかなティッシュがボックスごと机の端から滑らされてきた。空いている方の手でそのティッシュを2枚ほど引き抜くと、ずっとねちゃねちゃとへばりついていたヨダレを綺麗さっぱり拭き取った。
「…で、何がご所望で?」
「そうだなぁ、山にでも行く?」
「山ぁ?」
オウムのように繰り返す。そりゃそうだろう。山なんて久々に聞いた。普段は青い空に溶けそうな影みたいな山しか見ていないのだ。
しかし、ちらりと窓から外を覗けば、威風堂々と大きな山が伸びている。あそこの麓には小川が流れていて、夏に入れば気持ち良かった。あの山の名前は確か…
「どんどこ山?」
「どんこ山」
「あ、そっか」
昔チビに同じ様な事を聞かれて、どんこ山と答えたら、わざとらしく『どんどこ山ぁ?』とぷりぷりと可愛こぶって言われたっけ。あの時はムカついた癖に俺にも移ってしまった様だ。それにしても山とはどういう事だろうか。大して俺は山が好きな訳じゃないし、それは美緒もまた同じの筈だ。
「山登りなんて、どういう風の吹き回しなん?」
「えーと、山登りってゆーか、まぁ、そうなんだけど、軽くお散歩って感じ?そんなに難しくないでしょ」
「いや、そうじゃなくてさ、なんで山登りなんてやろうと思ったん?」
美緒は1拍置いてへにゃりと眉を下げて言った。
「なんかね、懐かしくなっちゃったの。ちぃさい頃はよく小川で遊んだでしょ?じいちゃんに連れてってもらって山にも行った。…なんだかね、それが、ずぅっと昔の事みたいに感じちゃって、すっごい行きたくなった」
「そんだけ?」
「それだけ」
「なんだよ。浅いなぁ」
「ひどーい!かわいい従兄妹の頼みを貶すとか、差別だよ、差別!」
「何の差別だよ」
そんな事をけらけら笑いながら言い合った。あぁ、こんなに笑った美緒も久しぶりな気がする。そりゃそうか。3年ぶりに会って昨日は互いに緊張してた。1晩過ごしてようやく笑い合える位になったのかも知れないと密かに思った。
「で、その山登りはいつ行くの?」
「今日」
「は?」
「今日」
「聞き間違いじゃなくて?」
「そう、今日行くの」
なんてこった。これは面倒な事になった。そんな準備はしていない。だってじいちゃんにしかがみさまの事を聞いてゆっくり休むつもりだったんだ。山登りなんて想定している訳が無い。
「いや、何の準備もしてないって」
「私もだよ。軽く散歩する程度だから帽子と日焼け止めでいいんじゃない?」
『軽く散歩』程度なら、まぁその位でも良いのだろうか。それでもムッツリと顔をしかめて不満をちょっとでも理解させようとする。
「なにその顔。ブッサ」
「酷いな。人の顔貶すとかお前の方が差別じゃん」
「私は良いの!」
何だろう。美緒ってこんなに面倒臭い奴だったっけ?
「良いわけないだろ。それこそ差別じゃん」
美緒はぐぬぬ、と顔を顰める。さっきの俺の顔にそっくりだろう。美緒と目を合わせると、互いに1拍押し黙って、それからほろりと崩れる砂糖のように笑った。顔をくちゃっと崩して笑った。張り詰められた糸がぷっつんと音を立てて切れた様な気がした。
「…しょうがないな。ちょっと行ったら帰るからな」
美緒は微笑んだ。盛りを過ぎて尚燦々さんさんと輝く9月の太陽のように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?