しかがみさま 第一章 第十夜
第十夜 ある種の終焉
「マジかよ...」
本当になぜか分からないのだが、美緒の当てずっぽうで向う見ずな歩み方で、あの張り出した棚の様な所へ着いてしまった。
「ほら、私って天才だからさ」
美緒は得意気に笑うが、当初の目的としていた服の乾燥はもう意味を成さない。なぜなら9月のこの暖かな陽気に、山道を歩いてきた服に引っ付いた水分はいつの間にか俺達に別れを告げたからだ。
「もう、服乾いちゃったんだけど」
「…わ、私と歩いたから乾いたんでしょ?感謝してよね」
こういう時だけ都合が良い。
しかし、そんな事もどうでも良くなりそうだ。それはなぜか?目の前に広がる丁度俺らが2人寝転がれる位の大きさの棚のせいだ。
それは煌々と日に当たり、時折爽やかな風をくすぐらせる、まるで天然の日光浴場のような所だった。
お先に失礼と言わんばかりに美緒が進み出て、ぴょんぴょんと跳ねた。
「ちょっ、危ないって」
「そんな事言ってたらなーんにも出来ないよ」
ふわぁ〜あ、と漫画か何かの様に大きく口を開けて欠伸をかました美緒は空に足を投げ出す如く、向こう側に足を放り出して大の字に寝転んでしまった。
「あー、気持ちいい」
「そんなに良い?」
「めっちゃ。丁度いい温もり」
不覚にも体験してみたいという気持ちが出たのか体がうずうずしてくる。
「ちょっと真ん中占領するなよ。俺が入らないじゃん」
「えー、来るの?」
「何の為に俺連れ回してたんだよ」
「もう。別にいいけどさ」
美緒はぶつくされて、渋々という風に体を捻って左に寄せた。空いた右側に遠慮無く腰を下ろすと、美緒の言う通り皮膚にじっくり伝わる温かさが、心地よい。まるで大きな動物の上に座っている気分だ。
座っているだけでこれなら寝ればどうなってしまうのだろう。意を決してごろんと寝っ転がると、背中全体に人肌の様な温かさを感じて、全身の筋肉が時解されている様に力が抜けた。
「ほんとだ、めっちゃ気持ちいい」
目を閉じれば、すぐにとろんと微睡んで今にも眠ってしまいそうだ。
美緒の返事が無い。あの美緒なら『でしょでしょー』とか自分の物みたいに自慢してくると思ったのに。
美緒の方を向けば、美緒は泣いていた。あの美緒が。
「…は?え、あ。どうしたん?」
美緒は困った様にくしゃっと笑った。いつもの笑顔。とめどなく流れている涙を除けば。
「いや、嫌な事思い出しちゃって」
ぽつ、ぽつと美緒は喋った。
「ここはめっちゃ気持ちいいし、あったかいし、離れたくないぐらいなんだけど。私がこんなとこいていいのかなっ、て、わたし、あんたがおもってるほど、つ、つよくなれなくて」
カチカチと歯を鳴らしていた。寒さじゃない事は充分過ぎるほど明確で。先程からの変貌ぶりに俺はどうする事もできなかった。背を撫でてやろうと手を伸ばすと、美緒は体を捩った。
「嫌!」
ビクッと伸ばしかけた手を止める。美緒はこちらを向くと、瞳を絶望に彩らせた。
「あ、ご、ごめん。ほんと」
「いや、大丈夫。ごめん。こっちこそ。急に触ろうとして。でもさ、どうしたん?なんかあった?俺に話してよ。何も言わずに泣かれるのが一番辛いんだよ。」
美緒は目を点にしていたが、徐々に意味を理解した様だった。
「そ、うだよね。うん、ごめん。全部話す」
「うん」
「しかがみさまの夢を見る前。数ヶ月位前。好きな人がね、居たんだ」
「うん」
「その人、『誠』って言うんだけどね。タレントもやってて、皆にモテてたの」
「うん」
「ある日ね、その人が学校休んだ時に誰かこれ持ってってってさ、宿題渡されたんよね」
「そうなんだ」
「家も近かったし好きだったから会えると思って引き受けたんだ」
「うん」
「放課後その人の家に行ったら、その人が出てきて、家に上げられたの。お礼がしたいって」
「…」
「それで、それで…」
「分かった。分かった。もういい。言わなくていい。辛かったんだよな?頑張ったよ。お前」
美緒は悲しげに笑った。なぜ笑えるのか分からなかった。なぜ自分が気づかなかったのかも分からなかった。
「バカバカしいって思ったんだ。あんな奴。どこが好きだったんだろうって」
「私、変わっちゃったかな。健太の前では普通でいたかったんだけど」
「全然…全然。気づかなかったよ。気づけなかった」
「はは、良かった。本当はこんな事話したくなかったんだけどね。多分。本当は誰かに聞いてもらいたかったんだ。私、頑張ったんだよって」
「ここに連れてきたのも?」
「日常から離れたかったんじゃないかな。あの大っ嫌いになっちゃった日常から」
「日常から乖離したい。そんな時にしかがみさまの夢を見て。口実にしてこっちに逃げて来たの」
「嫌いたくなかったんだ。健太の事」
「でもね、無理だった。生理的嫌悪?って言うの?体が受け付けなかった」
もう美緒の目から涙が滝のように流れるのを、美緒自身止められないようだった。がばりと美緒は体を起こしてそのまま立ち上がった。
「もう1個。最低な事言っていい?」
「良いよ。何でも聞いてやる」
美緒はへにゃりと笑った。風に髪がたなびいて、暮れそうな日が頬を照らす。美緒が美しく見えた。
「最近ね、生理きてないの」
美緒は笑顔を消した。真顔で、涙を流し、そうやって美しく日光に照らされながら、棚から1歩踏み出した。飛んでいくように落ちた。
落ちた。
背中に何かの気配がした。荒い息遣いが聴こえた。しかがみさまだと思った。
その『しかがみさま』は、言った。美緒の声で。
「あーあ、死んじゃったね。止められなかった?」
「それとも」
「ほんとは、君も、死んじゃいたかった?」
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