「国民性」と「〜主義」

国民性というものは、土地土地に応じた暮らし方の中から生まれてきていると考えている。単純に、その土地の気候風土、自然環境とそこから成立してきた文化、立地からくる他文化の影響などの歴史的背景、そういったものを見ていけば、例えばなぜ日本人が、集団的、没個性、空気を読む、などの特徴を持っているのか、その基盤となっているものが何かの説明はおのずとついてくると思っている。ヒトの強みは適応する能力と捉えているので、環境→適応であり、ごくごく単純に、環境への適化が積もり積もって文化や国民性になっているという構図。そう考えることが一番附に落ちる。そこには「環境が人間の思考を決定づける」というような受動的な意味合いはほぼない。

それを、「〜主義である」例えば、日本であるならば、「集団主義」である、や「排他主義」であるというふうに、あたかも自らの「意思」でその特性を決め選んできたような呼び名をつけるから、少々奇妙な話になるのだと考える。

「日本人の集団主義が生かされる」などの言い方からは、日本人の特徴がそもそも「教育」という人為的なものに起因しているかのような印象を受けるので、賛同しない。これからは、ますます異文化との比較から、そして外国の視点から自国を見る、理解するという時代になっていくのだと思っているが、その際、国民性を語るのに「〜主義」という考え方を使ってしまうと、「言葉の意味」と「その理解」の間に潜むトリックで色々問題が生じてくるはずだ。

「ヒト」と「土地・環境」と「言語」と「文化」そして「考え方」の切っても切れない関係が、もっと明確に定義されたほうが、おそらくこれからの世の中は上手くいくと考えている。

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