21. 「産業革命」の地域性

今日、全ての考え方の前提に、「初期採集・狩猟経済から次段階へ、それからまた次の段階へと『発展』して、現在の自由経済に至る」という概念があるが、この「発展」という捉え方には懐疑的である。

昔と今の経済のあり方が異なるのは、「人類共通の進化発展の過程」なのではなくて、生活の形態が自然や社会の移り変わりにより変化し、集団が社会生活を営んでいく上での「必要性」が、それに応じて「変化」を遂げる、という行為が繰り返されてきたからに過ぎないと考えている。

したがって、例えば狩猟・採集経済のままでいる「未開」の社会は、「原始社会のまま発展を遂げていない」のではなく、その土地と気候とそこにおける人間生活を鑑みた時、それ以上の変化の必要性がなかった=その形がその地で生活を営む上で最適だった、というだけなのではないかと思う。文明や知性の優劣ではなく、各土地における必要性を満たすものの完成形の違いだ。

さらに言えば、「産業革命」は、本当のところ、「イギリスという土地と文化と風土における社会の中で必要とされた変化」であり、ブリテン島の生活において必要性が生じたからこそ起こったものだと考えている。

だから世界の他の国では、「他国(=イギリス)の生活の必要性から生まれた変化の形態」を、「人間の頭脳と理性の理解」によって、「本来そういう変化が起こる必要性のない場所にまで持ち込んだ」形になっていて、それを近代化と呼んでいるのだと思う。

つまり、「西欧化・近代化」というものは、「本来必要ではないかもしれない変化」が、「人間の理解力」が先行する中で、「それぞれの異なる生活形態の中(上)に導入された」事例になるのだと考える。

しかし、それ(西欧化・近代化)は、実のところ、「産業革命の起こったイギリス本国」か、もしくは、人間の頭によって理解された「その概念」をうまく土地の必要性と結びつけ変化させて、導入咀嚼することができた文化においてしか、まともには機能しないものなのではないか、と疑っている。

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