メモ

「射精が完了すれば万事OK」なのか?線分とマルで示された、アマゾンの配達状況の進捗案内のように、「注文済み→発送済み→配達中→配達済み」と物事は淡々と進み、最後に主人公は当然の如く意中の女と肌を触れ合い挿入が完了する。「接触→勃起→ドキドキ中→挿入」のこの計算された単純明快ナラトロジーに人々(わたし)は何度も抗いそして敗北のドーパミンを分泌する。

性愛はある意味で郵便的である。言語のなめらかさと複合性を用いればうまくいくとは限らない。温度のちがう唾液を交換し合うような、汗ばんだ指と指を絡めあうような、乾いた唇を重ねて欲を確かめ合うような、瞬きをしたら睫毛が相手の顔に触れてしまうような、そんな身体性の伴った体験は簡単には手に入らない。

一部の新感覚派の読者はクソだ。それは自分のことであり他者のことでもある。相手を推し量り、また同じように推し量られ、感性や価値尺度や言語は液体のようにかたちを変えていく。事象すべては相対化の機序の内側に回収され、そこに特別というものは個々の経験と密接に結びつけられたコンテクストの中にしか見出すことができない。
自分が抱く感情や、自分の起こす行動というものに、もっと説明的であるべきなのではないだろうか。少なくとも、複数他人と関連のあるものについては特にそうだと考える。説明的であるということはつまり言語と論理性によって順序立てられた、他の考えうる推論との差異化を意味する。別にそれは世論や一般的な見解と外れていたってかまわない。
その作業をしてこなかったということについて、あなたに問いたいのである。衛星的であることが問題なのではない。自分というものと世界や他者に境界線をひいて指でなぞることをしてほしいと思う。


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