憂国 三島由紀夫



三島は『憂国』についてあとがき部分で、自身でこう語っている。

『憂国』は、物語自体は単なる二・二六事件外伝であるが、ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福であると云ってよい。しかし、悲しいことに、このような至福は、ついに書物の紙の上にしか実現されえないのかもしれず、それならそれで、私は小説家として、『憂国』一遍を書きえたことを以って、満足すべきかもしれない。

『花ざかりの森・憂国』三島由紀夫

愛とは永遠性・無限性の果敢なさを纏い、死とはその終焉を意味する。エロスとは単なる性的行為のみならず本能に従った欲望の行使、(エロティシズムにおける)聖空間と、大義という政治性・道徳性を含んだ俗空間。巧みな文章構成と美しい文体によってそれらは耽美に溶け合って、互いに作用しあう。そのまとまりは単純な総和に留まらず全体として現れ、波立つ欲動を感じさせる。


信二中尉と麗子夫人は結婚し、新居を構える。第一夜を過ごしたその家で黙契を交わす。

信二は軍刀を膝の前に置き、軍人らしい訓戒を垂れた。軍人の妻たる者は、いつなんどきでも良人の死を覚悟してなければならない。それが明日来るかもしれぬ。あさって来るかもしれぬ。いつ来てもうろたえぬ覚悟があるかと訊いたのである。

『花ざかりの森・憂国』229頁

これに対して麗子はもっとも大切な嫁入道具である懐剣を軍刀と同じように膝の前に置いたのであった。この契約場面では愛と死というテーマが色濃く映し出されている。死という自らの生を自らで閉ざす意味価値の結びつきを以って、先反省的な愛の観念が非言語的な空気を通して顕在化するともいえるような仕組みが存在する。覚悟というのは寧ろ精神に於ける大きな決断、摩擦する心のエネルギーすべてを捧げることだ。

これらのことはすべて道徳的であり、教育勅語の「夫婦相和シ」の訓えにも叶っていた。… 階下の神棚には皇太神宮の御札と共に、天皇皇后両陛下の御真影が飾られ朝毎に、出勤前の中尉は妻と共に、神棚の下で深く頭を垂れた。捧げる水は毎朝組み直され、榊はいつもつややかに新しかった。…

『花ざかりの森・憂国』230頁

道徳に実直で、毎朝その誓いを欠かさない堅実さ。怖いほどに美しい天皇信仰。精神に宿されたその灯は身体の隅々までにその熱を持たせ、身も震えるような快楽で溢れているさまがこちらまで伝わってくる。異常なまでの崇拝はエロスとの強烈な対比をひきたたせている。


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