アーティキュレーション

・ここでのアーティキュレーションは一般にいう音楽用語のことではなく、分節化という意味のことである。

・何かエンタメ(小説やアニメ、漫画、映画、ドラマ、ユーチューブ、展示、スポーツ観戦などなど)の一番はじめを知覚するとき、うまくアーティキュレーションが作動しないものと、作動するものがある。

・例えば、全くあらすじも知らない前情報なしで映画を見る時、流れる映像に対して一体どこに注目すればよいのか、何が今後の展開に関係がありそうなのか、ということがわからない(私の体験ではクリストファー・ノーランによる映画TENETがまさにそれで、見終わった後は大変頭が混乱した)。アーティキュレーションがうまく作動していない場合、伏線をうまく記憶していなかったり、物語の軸を掴めなかったりする。

・対して、ユーチューブでSlay the Spire(最近筆者が熱中しているローグライク・デッキ構築ゲームである)のライブ実況を見る時や、好きなサッカーチームの試合を見る時は、次の展開や進行を知らないにも関わらず決定的瞬間を見落としたりそのメッセージ性を見失うことはほとんどない。

・この場合意識の中で何が起こっているのかというと、2Dの画を(松岡正剛の言葉を借りれば)「地」と「図」に区別して対象を差異化し、意味として重要度の高いオブジェクトにカーソルを合わせることに成功しているということだ。

・こういった情報処理には、前情報や経験知が役立っている。
例えばジャンルに関する情報。この本はミステリだとかSFだとか恋愛だとか、そういう物語としての枠組みを知っていることで、どの登場人物・どの状況に焦点を当てて読むべきかがなんとなくわかるだろう。ちなみにSFだということは知っていても円城塔のBoy's Surfaceは何が書かれているのかがほとんどわからなかった。あれを楽しむにはより高度な知識や比較材料が必要だと思う。

他にはルールに関する情報。私の父親の実家は兵庫県にあって、幼い頃お盆休みなどに遊びに行くと、テレビのチャンネルは決まって阪神タイガースが放映されていた(中継中にチャンネルをまわすことは断じて許されないし、リモコンを持った瞬間に関西弁でシバかれる)。私は全く野球に興味がないしやったこともないので、試合で何が起きているのかをうまく掴めずに面白さもわからなかった。

・それらはまとめると、未知情報に対するある枠組みのことだ。それを知ることによって、意識を向ける部分のあたりをつけて意味を追い、あまり記憶しなくてもよい情報を背景やノイズとして処理することができる(ラディカルな射精目的のオナニストがエロ漫画内の文脈やナラトロジーを無視して抜ける部分だけに視線をコンセントレートするのとほとんど近しい現象である)。

・その枠組みはいくつものレイヤーがあり、前述したようなざっくりとしたものや、より詳細で個別の情報(作者情報やその作品のコンセプトなど)もある。スポーツだったらルール以外にもポジションや選手、戦略、フォーメーションなどを知っているとより楽しむことができるだろう。

・ただ、情報は必ずしも多ければ多いほどよいとはいえなさそうである。情報を知らないことで主題とは関係のない部分に気づくことができたり、パターン化された消費の仕方とは別の視点で見ることができたりするからだ。

・今書いていて気づいたが、文章における接続詞も、一種の"未知情報に対する枠組み"といってもよいだろう。文章の初めに「しかし」がくればさっきとは逆の主張が来るだろうという"あたり"をつけることができ、その文章の意味をキャッチする姿勢をとる。目次などもそうだ。

・「人に物事を説明するとき」、あなたは何を意識して説明するだろうか?相手がその物事を知らないとすると、いきなり個別具体的な話をするのはナンセンスである。私はボードゲームサークルに入っている(今はほとんど活動に参加していないが・・・)のだが、ルールを説明するときは大枠や種類、全体像、勝利条件や目的から説明するようにと意識している。大まかなルールのフレームワークを用意してもらったところで、具体的な説明を詰めていく。

・映画やアニメなどだと、主題とはずれたカットが差し込まれることがよくある。シリアスな内容、ぎすぎすした雰囲気のストーリーの中に、4コマっぽくてコミカルなショートストーリーが挿入されていたりする。あれは、本筋や重要な意味を追い続けるときの休憩ゾーンといえるかもしれない。本筋やメインテーマというのは"今"面白いわけではない。今後への"期待"がおもしろくさせているわけであって、今までは伏線や物語の地盤を整えている前段階に過ぎない。そこでギャグを挟むことによって、今の楽しさを視聴者に与え、主題を追うための息抜きとしても機能する。興味を持たせ、作品に惹きつけつづけるためのギミックはセーブポイントのように至る所に設置されている。

・枠組みを提供することは、受け取り手の期待や興味を誘発させ、物語を読み進めるための推進力にもなる。例えば「推理小説」というジャンルで関心をもち、題名を見てどんな事件なんだろうと疑問がわく、「このミス20XX年1位受賞」という評価で一定の面白さが担保されていることを知り、「クローズドサークル」「安楽死椅子」モノという推理小説の形式で読み方の作法のあたりをつけ、あらすじを読んで事件やシチュエーションをあれこれ想像していく、帯に好きな小説家の推薦文が書いてあったり「伏線が○○」などの文句があったりして興味をそそられる、そういう枠組みを収集してそれを消費していくのである。パッケージ化や商品としてのラベリング・マーケティングの作用としてみることもできるが・・・。

・漫画やアニメ、映画などよりも小説が読みにくい(気力と体力を要する)と感じるのは、文字をひとつひとつ目で追っていく地道な文字情報の入力作業が、情報処理の前に義務化されているからだ。対してアニメや映画などでは、視覚情報で背景や状況、登場人物を一篇に処理できる。

・小説だと例えば三島由紀夫の『愛の渇き』を引用してみよう。「ここで舗装が終っている未完の自動車路、取入れのちかい豊かな田圃や、立ち並んだ唐黍畑や、杜やそのかげのささやかな隠沼や、阪急電車の線路や、村道や、小川や、それらさまざまのもののあいだを目路のかぎり走っている自動車路を、この末端からこうして眺めていると、悦子は気の遠くなるような心地がした。」(『愛の渇き』新潮文庫96頁より抜粋)のように、描写を一度読み込んで映像化(するなり意味を理解するなり)して、物語の筋を追えるように情報を圧縮したり編集したりして記憶しなくてはいけない。

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