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『暗殺教室』を読み解く

 普段は配信だとかモデレーターの話を書いているけれども(基本的にはそれに特化するつもりであったけれども)、「暗殺教室」を改めて読み返して感じるところがあったので、読み解いてみたいと思った。もう10年前の作品ではあるけれども、今読んでもおもしろい名作だ。そして、逃げ若を最近見始めた人にとっても、楽しめると思う。
 「暗殺教室」を読み解くに際し、「どういう人になるべきなのか(生徒をどのような人間にすべきなのか)」という話と、「そういう人に育てるためにはどうすべきなのか」という話とを、区別した方が良いと感じた。前者は、人の理想像だ。これに対し、後者はそのように育てるための教育論だ。もちろん、両者は密接に関連するものではあるけれども、前者は到達目標、後者はそれに至るための手段であって別物だから、区別した方がよい。
 この記事でも、両者を区別して論じる。


1.人としての理想像

(1)理不尽の中で戦える力、理不尽と戦える力が必要

 「暗殺教室」では、幾度となく「力」とか「武器」ということばが出てくる。これが中心的な概念の1つであることは間違いない。
 そこでいう「力」や「武器」は何かというと、この社会で生きていくための力だ。単純な腕力などではない。

松井優征『暗殺教室(2)』(集英社・2012)

 典型的にこの「力」を持っていなかった生徒がいる。寺坂竜馬だ。彼は小学生の頃までは、ジャイアンのようなガキ大将だった。そして、中学校でも同じようなポジションにいようとした。しかし、失敗した。そんな安物の武器は、この中学校では何の意味も持たないことを彼は悟った。しかも、それは椚ヶ丘中学だけの話ではなく、社会に出てもずっとそうなのだと気づいた。賢いやつが勝つ。ただ声がでかいだけのやつは負ける。

松井優征『暗殺教室(6)』(集英社・2013)

 そして、敗北者集団であるE組ですら彼は浮いていった。しかし、自分の価値は司令塔として発揮されるのではなく、現場で発揮されることに気づいた。これも社会を生き抜く「力」だ。彼は、自分の本当の「力」「武器」に気づいたのだ。
 他にも、E組には様々な個性的な生徒がいる。何かしら長所がある。その長所を活かすためにはどうすべきか。この社会において、その長所を発揮するためにはどうすべきなのか。「暗殺教室」はそれを描いている。一芸に秀でているとしても、一芸に秀でているだけではダメなのだ。
 エリートであるA組との戦いを通じて、自分たちの持っている能力をどうやって発揮し、どうやって戦っていくべきなのかを、E組の生徒らは学んでいったのである。

 加えて、社会というのは理不尽である。E組システムも、理事長と多くの学生からみれば合理的であろうが、E組の生徒からすれば理不尽に映るだろう。E組の生徒は、最初は理不尽な戦いを放棄しようとした。しかし、最終的には、その理不尽の中で戦い勝つ術を身につけた。

松井優征『暗殺教室(21)』(集英社・2016)

 現実社会ではE組システムは存在しない。しかし、同様の、あるいはもっと理不尽なシステムは存在する。「どの家に生まれるか」なんていうのは、最たるものかもしれない。けれども、我々はその中で生きて戦わなければならない。そんな理不尽との戦いをも描いた漫画である。

(2)本当の勝負によって勝ちと負けを知ることが大事

 「暗殺教室」は、勝負にも強く拘っている。「みんな違ってみんないい」だと、えてして勝負を回避する方向に流れがちだ。しかし、「暗殺教室」はそれを許さない。「暗殺教室」は、テストという勝負から逃さないのだ。
 それは、もちろん椚ヶ丘中学のシステムがそうなっているからなのだが、より根本的に、この作品の思想が勝負から逃さないシステムにさせている。「テストから逃げるな」「暗殺から逃げるな」というコンセプトで設計されているのである。
 なぜ勝負が大事なのか。1つは、社会が勝負の連続だから、というのがある。現実の社会で生きていく上で、勝負は避けられない。「力を身につける」というコンセプトの作品である以上、現実において避けられない勝負に勝つということも、必然的に意識しなければならないということだ。
 ただ、恐らくもっと重要なのは、勝負によって成長するからだろう。人は、勝負によって成長する。勝負によって、自分の劣っている部分、自分の勝っている部分を明確に認識することができる。そういった長所・短所を踏まえ、次の戦いに勝てるように努力する。これが大事なのだ。

松井優征『暗殺教室(6)』(集英社・2013)

 そこで重要なのは、勝負は1回だけではないということ。勝負は無限に続いていく。したがって、1回勝ったところで、それ自体に大きな意味はないのだ。理事長が言っているように、勝者と敗者は簡単に入れ替わる。勝ち続けることこそが本当に難しいのだ。だから、1回勝ったからといって甘えることなく、成長し続けなければならない。負けたのであれば、その屈辱、そして「再び負けるかもしれない」という恐怖心を持ちながら、次なる戦いのために努力する。このプロセスが大事だと、「暗殺教室」は伝えたいのだろう。

松井優征『暗殺教室(7)』(集英社・2013)

 ここからも分かるように、ただ戦いに勝てばいいというわけではない。だから、何の努力もせずに才能だけで勝ってしまうというのは、殺せんせーが言うように危険なのだ。本当の敗北を知らずに育ち、本当の敗北を知ったとき、どうすればいいのか分からなくなってしまうからだ。正しく勝ち、正しく負ける。勝者であろうと敗者であろうと、それを踏まえて成長する。それが大事なのだ。勝ち負けそのものが重要なわけではない。真剣勝負こそが大事なのだ。 

(3)成長のための要素

 次で論じる教育論とも重なる内容なのだが、便宜上こちらで書く。成長をするためには、ただ勝負に挑むだけではダメだ。たとえば、イージーモードでゲームをやったとしても、勝つことは容易だろうが成長はしないだろう。つまり、成長のためには高い壁が必要となる。
 また、1人だけで成長することも難しい。お互いに刺激し合い、協力するような仲間がいてこそ、切磋琢磨し、そして意識を高めることができる
 「暗殺教室」においては、最終的に「高い壁」として立ちはだかるのは殺せんせーだが、最も身近な「高い壁」はA組である。椚ヶ丘中学校の落ちこぼれであるE組とは対照的に、エリート中のエリートがA組である。単純にいえば、椚ヶ丘中学校の勝者と敗者である。敗者は、まず同級生の勝者に勝たねばならない。それ以外にも、鷹岡やら色々と乗り越えるべき壁は登場し、その都度大きな成長はするが、継続的に登場する敵はA組であり、継続的に戦うことで継続的に成長するという構図になっている。

松井優征『暗殺教室(8)』(集英社・2014)

 そして、A組と戦うための仲間は、言うまでもなくE組の生徒である。個性豊かな仲間たちが、お互いに違いを認め合い、刺激し合う。たとえば、体育祭でも、磯貝がリーダーシップを発揮しながら、それぞれの個性・能力を活かした采配を行っている。そのようにして、それぞれ違いを活かしながら協力する。これによって、自信を深めて成長していくのだ。

2.教育論

(1)一人ひとりと向き合うこと。対等な人間として尊敬し、一部分の弱さだけで判断しないこと。

 教育論における中核的なコンセプトは、この「一人ひとりと向き合う」「尊敬する」ということだ。言うまでもなく、教師の理想像は雪村先生である。

松井優征『暗殺教室(16)』(集英社・2015)

 殺せんせーは、超人的な能力をもって、生徒それぞれに異なる対策を立て、全員に対し個別教育を施した。もちろん、これはマッハで行動できる殺せんせーだからこそなせる業ではあるが、教育の理想像を示している。つまり、個別指導が本来のあるべき姿なのだ。大人数教育というのは、単なる効率化のためにやっていることであって、純粋な学力向上という点からしたら適切な手段ではない。
 その人その人の性格や能力、得手不得手を踏まえて教えるのが、本来のあり方なのだ。そのためには、当然教え方や教える内容も異なる。
 この教育論は、理事長の思想の対極であるようにもみえる。椚ヶ丘中学は、生徒の個性を無視し、偏差値でしか見ていない。しかし、もともとの理事長は、その人その人の性格や能力を見ていた教育者だったのだ。それは、小さい私塾を経営していたときのエピソードから理解できるだろう。しかし、教え子の自殺を受けて、理事長は教育方針を変えた。「理不尽に負けずに、現代で生き抜く力を身に付けなければならない」という方針を採った。それ自体は間違っていなかったが、「現代で生き抜く力」を「主要科目の偏差値」と一義的に定義してしまったことが誤りだった。そして、「主要科目の偏差値」を最高効率で伸ばし、強い生徒を量産する方法を考えたために、E組システムが出来上がったのである。

 このE組システムの間違いの原因は、主要科目の偏差値でしか学生を見なかったことだ。だから、E組は劣等生という扱いを受けた。たしかに、主要科目の偏差値の合計だけでみれば、E組は劣等生である。
 しかし、それだけである。E組は、主要科目の偏差値の合計が劣っているだけに過ぎない。特定の科目で突出した能力を持っている生徒は何人もいた。だからこそ、五英傑をテストで打ち破ることができたのだ。
 それに、E組は、知的能力だけでいえば劣る生徒が多かったかもしれない。しかし、芸術能力に優れた菅谷、人望の厚い磯貝、職人気質の千葉など、偏差値に換算できない優れた能力を持っている生徒はたくさんいた。しかも、それらの能力は、うまく活かせば現代社会で生き抜く力となる。奇しくも理事長は、現代で生き抜く力を持っている生徒を育てたいと願いながら、その力を持つ生徒たちをE組に送り込むことで潰そうとしていたのである。

 この逆説的な事態が生じた原因は単純で、理事長が「現代で生き抜く力」を「主要科目の偏差値」と定義したからである。ただ、理事長のやっていることは、全体としてみれば極めて合理的である。ごく少数を犠牲にすることによって、全体の能力を大きく向上させているのだから。
 したがって、真に理想的な教育法は、このシステムを取りながら、E組を下から支えて伸ばすような方法だったのである。理事長は、最後の最後にそれに気づいた。

松井優征『暗殺教室(18)』(集英社・2016)
同上

 何事にもコストがかかる以上、効率を目指すのはやむを得ないし、むしろそれは正しい姿ではある。ただ、それだけではどうしてもこぼれ落ちるものがある。それを掬うために、一人ひとりに向き合うことも求められる。
 教育というのは、このような矛盾した不可能な試みに挑み続ける営為なのだ。
 Jacques Derridaは、きっとこれを脱構築déconstructionと称したであろう。矛盾した葛藤に苛まれながら、それでも教師は一人ひとりの学生に向き合い、それでいて全体の能力の底上げをしなければならないのである。

松井優征『暗殺教室(16)』(集英社・2015)

 その不可能を可能にしているのは、殺せんせーの持つ超人的能力である。当然のことながら、常人には不可能である。けれども、教師は殺せんせーを目指さなければならない。それが、「暗殺教室」において描かれている教育論なのだ。

(2)教師は正解を求め迷い続け、しかし決断しなければならない

 この点も、暗殺教室において強調されている部分だ。
 教育法に正解はない。人としての理想像が抽象的に決まったとしても、個別具体的な生徒のどこを伸ばすべきか、どう伸ばすべきかなどというのは、簡単に答えが見つかるようなものではない。
 「こうすればうまくいく」などというマニュアルなど、あるわけがないのだ。一人ひとりが違う以上、「この生徒にはこういう教え方をしてうまくいった」としても、別の生徒にそれが当てはまる保障はどこにもない。(1)で書いたように、一人ひとりと向き合って、どう教育するかを組み立てなければならないのだ。
 答えがない以上は、当然失敗する可能性もある。だから、悩んで迷うことになる。しかし、教える以上は、「よくわからないから、何もしません」というわけにはいかない。つまり、決断を強いられるのである。しかも、「よくわからないけど、こう教えます」なんて宣言するわけにはいかない。

松井優征『暗殺教室(5)』(集英社・2013)

 そう、教師は虚勢を張りながら教えるのである。そして、今の教育が正しかったのか、後から振り返って反省する。間違っていたら、さらに正していく。そうやって、教師も悩みながら成長するのである。

3.おわりに

 というように、簡単に「暗殺教室」のコンセプトを整理してまとめてみた。「暗殺教室」で描かれていた主要なテーマは、たぶん盛り込めていると思う。こういったコンセプトとフィロソフィーに基づいて、「暗殺教室」は描かれている。あくまで私の読解にすぎないけれども、こういった視点から読み返して貰えれば、こういったコンセプトに基づいて「暗殺教室」が作られていることに納得して貰えるのではないかと思う。

 「暗殺教室」は、教育論としても優れているし、人生論としても優れている。高いレベルで考え抜かれた内容を、漫画において実現している。何度読み返しても得るものの多い漫画だ。

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