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25日間フィビヒチャレンジ!23日目

 全音28曲目(Op.47-Ⅹ-11)。オペラ「シャールカ」のアリアに転用されたこの曲、全音版では「ヴィシェフラト墓地」というタイトルがついています。ヴィシェフラト(チェコ語で「高い城」)はスメタナ「わが祖国」の一曲目としてご存知の方もおいででしょう(有名なモルダウは第二曲)。プラハ市街地の南にあるヴィシェフラトには、かつてその名の通り城がありましたが、15世紀『フス戦争』の際にフス派に占拠され、城も破壊されてしまいました。17世紀以降ハプスプルグの為政となった時、要塞としての役割を担うようになりますが、土地は荒れ果てたままでした。19世紀に公園として整備され、城壁の一部等にも修復が加えられ、今日ではのんびり散策できるプラハ市民に人気の場所になっています。また、ヴィシェフラトにはスメタナ、ドヴォルザークはじめ数々の著名人が眠る墓地があり、フィビヒも妻ベッティとともにここに眠っています。フィビヒは50歳の誕生日まであと2ヶ月という1900年10月、ジョフィーン島の紅葉の下を時間を忘れて散策し風邪をひき、一週間後にこの世を去りました。妻ベッティも翌01年に後を追うように亡くなっています。なお、愛人であったアネシカ・シュルツォヴァーは、フィビヒの死後すぐ「フィビヒ ー その音楽的シルエット」という本を出版し、その後もフィビヒに関する記事の寄稿などあったようですが、1905年自ら命を絶ちました。

 本編最後の日に改めてこの言葉を出そうと思います ー 『国民楽派』。政治的、社会的な民族意識の高まりに呼応して、音楽でも愛国心や自国の歴史、民謡や風物などを題材にした作品を生み出した作曲家たち。チェコにおいてはスメタナ、ドヴォルザーク、フィビヒがその創始者とされます。
 フィビヒ生誕の1850年ごろというと、ヨーロッパ全土に波及した2月革命の影響で、大国に囲まれたチェコはまさに混乱の最中にあったといえます。60年代の民族意識の高まり、こと67年のオーストリア=ハンガリー帝国の成立はさらにチェコ人の不満を加速させました。68年にはプラハで国民劇場の建設が始まるという重大なイベントもありました。このような情勢の中、71年に西欧的な音楽流儀を身につけたフィビヒが勉学の時期を終えプラハに定住します。
 ところでスメタナは元々ドイツ語話者でリストとも交友があり、北欧でも活動しましたが、最終的になんとかプラハで根を下ろそうと苦労しました(チェコ語も成人してから習得した)。スメタナとフィビヒは、チェコの歴史・伝説的な主題を生かす(というか拠り所にする)標題音楽を作曲して、チェコらしい音楽とする姿勢でした。しかし彼らは西欧寄り、ワーグナーの亜流と非難されます。

 実際音楽修行時代にフィビヒにとってもっとも大きな影響を与えたこと、それはワーグナーの音楽、とりわけ『マイスタージンガー』との出会い。そう、フィビヒは相当なワグネリアンでした。民族的なるもの・チェコ的なるものを希求する時代の中で、フィビヒはしばしば作品にワーグナーの影響が見られるとして批判されます(私からしたらそのスタイルこそがフィビヒによるメロドラマ再興の鍵だと思うのですが、いずれにせよ批判勢力はワーグナー・リスト・ベルリオーズを危険としていた(?)ようです。彼らが祭り上げたかったのは交響曲のような絶対音楽でチェコ音楽を世界に押し上げたドヴォルザークでした。この論争はスメタナにとって望まぬもので辟易していたといいますし、後ろに政治もチラ見えしてて、なんだか私もあんまり書きたくないなあと思います。私怨とかもありそうだし)。
 73年、フィビヒの『ザーボイ、スラヴォイとルジェク』(チェコの伝説を扱った交響詩)がスメタナの指揮で演奏されましたが、ここにスメタナの交響詩『わが祖国』の第一曲「ヴィシェフラト」の冒頭主題が既に現れているのはとても興味深いです(ヴィシェフラトはこの一年後に書かれた)。『わが祖国』が完成を見るまでには長い時を要しますし、その間にスメタナは失聴してしまいますが、チェコの誰もが知るメロディをちりばめ、国の混乱の暗黒時代から未来を希んだ偉大な交響詩となったこと、そして何より「モルダウ」の旋律は今日世界の皆が知るところです。

 ただ、民族的なるもの、というのは恐らくこの三者で捉え方に差があるのではないかと推測します。ドイツ語で育ち成人してからチェコ語を学び、国外の生活も長かったスメタナ、バイリンガルで育ち音楽修行時代はほぼドイツにいたフィビヒ、チェコ語を話し歌い育った(ドイツ語は子供の頃から習った)ドヴォルザーク…発想に差が出るのは想像に難くありません。
 また、例えばある地域のある歌がヨーロッパ全土で流行るとか、同じような節の歌が各所で見られるとか、そういう感覚も身をもって知っているスメタナとフィビヒでしょうが、フィビヒの捉え方は非常にゆるやかであり、そのゆるやかさが8日目に書いた苦味の緩慢さにも繋がるのだと思います。そういう意味で、三者三様ではあるけれど、フィビヒの立ち位置はなんとも特異だと思います。

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 21日目から今日までは本当に書くのに心をすり減らしました。普段言い慣れていないことをいきなり書くのは本当に大変。育休中はほんとに音楽の話なんてほとんどしていないもんなあ。もう連日どう書くか悩みすぎて気になりすぎて眠れてもいない。とりあえず少し寝ます(子供がそれを許してくれればだけど)。
 クリスマスイブとクリスマスの両日は、もう好きなことを好きなように書きます。信じるか信じないかはあなた次第。それではまた明日ー!

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