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あいたとびらがしまるまで-『すずめの戸締まり』雑感-

新海誠監督の新作である『すずめの戸締り』を見た。配給元の要求通り、当該作品はシネコンをオキュパイし、マイナー映画を「締め出す」形での公開となった。今やメジャー作家となった新海の新作であればこのくらいのプロモーションは不思議なことではない。じじつ、私が鑑賞した回は地方のレイトショーであったにも関わらず、ほぼ満席であり、その人気の高さを伺うことができた。今作の公開に先駆け、地上波で『君の名は。』『天気の子』という大文字タイトルが放送されるのと同時に、放送終了直後からネットフリックスやプライムビデオで新海作品の配信が始まり、映画への機運は高まっていた。

さて、すでに多くの識者によって指摘されていることであるが、今作は明らかに村上春樹の「かえるくん、東京を救う」(『神の子はみな踊る』所収)が下敷きになっている(ちなみにこれは『輪るピングドラム』で陽毬が探していた本のタイトルでもある)。当作では突然部屋に現れた「かえるくん」が、東京の地下に蠢く「みみずくん」の引き起こす「とてもとても大きな地震」を防ぐのだが、『すずめの戸締まり』の中にも、地震を起こす「みみず」が登場する。脚色も粉飾も衒いもなく、地震がみみずそのものとして描かれているのは象徴的であった。堂々とプロットやアイディアを借用する姿勢は、新海の自信の表れだろうか。『神の子はみな踊る』に収められた村上の短編には「阪神淡路大震災」と「地下鉄サリン事件」が深く影を落としていてーそれはこの後、研ぎ澄まされ『アンダーグラウンド』として結実することになるー今回、東日本大震災と向き合う物語を作ろうとした新海がレファレンスするのに重要な鍵作品となっている。

やや話は逸れるが、村上作品で描かれる善と悪は単なる二項対立には回収されない。「かえるくん、東京を救う」における「かえるくん対みみずくん」という「バウト」は一見、善と悪の代理戦争のように見えるが、戦い終えたかえるくんの身体からはウジやムカデが湧き出している。「かえるくん=善」の中にも「非かえるくん=悪」が生きており、それらを截然と切り分けることができないということがメッセージとして込められているのである。我々は揺らぎながら変化し続けるひとつの現象であり、善と悪のどちらかに分けることはできないということだろう。

『すずめの戸締り』のプロットからもうひとつ思い浮かぶ作品がある。濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』である。これもまた村上作品が原作(「ドライブ・マイ・カー」『女のいない男たち』所収)であり、傷ついた2人が赤いサーブでふるさとの東北へ行き、人間性を回復するロードムービーであった。『すずめの戸締り』は基本的にこのプロットに忠実である。

「企画書」の中で新海が「物語に忠実に、『行って帰る物語』を作りたかったんです」と述べているように本作は「行きて帰りし物語」の構造を持っている(『新海誠本』p.5)。「行きて帰りし物語」とはその効果を『千と千尋の神隠し』が鮮やかに示したように、少年少女が彼岸へ行き、成長して此岸に戻ってくるという物語構造のことである(これを安易に振り回して失敗し続けているのが細田守だ)。「後ろ戸」という扉を通じて彼岸(=現世)と此岸(=常世)が繋がっており、そこを行き来することによって鈴芽が成長を遂げるのが作品の軸である。そして『君の名は。』で自家薬籠中の物とした時間感覚によって、未来の自分が過去の自分へ「椅子」が贈ることで、物語はその輪を閉じるのである。映画的マナーに則したこの文法は適切に機能しているように感じられた。

「後ろ戸」は「廃墟」すなわち人から忘れられ、過去となった場所にあり、そこから地震の原因である「みみず」が登場してくる。鈴芽は日本各地を旅し、その扉を閉めて回ることによって地震を未然に防ぐ役割を担うことになる。本来は「閉じ師」という世襲の宿命を背負った青年がいるわけだが、彼は魔法により、鈴芽がかつて大切にしていた母の形見である椅子に縛りつけられている(その椅子もやはり持ち主から「忘れられていた存在」である)。椅子に青年の魂が宿ることによって鈴芽は震災で亡くなってしまった「母」の存在を確認していくことになるが、どこまで行っても鈴芽は母に会えない。母はすでに死者であり、この世に戻ってくることはないからである。無辜の死をひとつの死として悼むこと。それがこの映画の伝えたかったひとつのメッセージであるように思う。椅子の脚が三本しかないのは「不完全」さのメタファーだが、物語が結末を迎えても脚は修復されない。「社会の不自由さを描きたかった」(『新海誠本』p. 5)と新海が述べているように、脚の欠損は人間の不自由さや不完全さを肯定する新海なりの表現なのだろう。『天気の子』で、少年たちの幼い決断を肯定し祝福したように、そこには新海の慈愛が感じられる。

「かえるくん、東京を救う」『ドライブ・マイ・カー』以外にもうひとつ重要なレファレンスがある。それは荒俣宏の『帝都物語』である。風水を扱った日本で最初の小説として評価されるこの作品は、加藤保憲という魔人が平将門の怨霊を利用して帝都を崩壊せしめようとする物語であり、「関東大震災」は彼によって引き起こされたという設定になっている。実際の「震災」を共通項に持つ『すずめの戸締り』との大きな違いは、大震災が「魔人加藤」という絶対悪によって引き起こされてる点である。『すずめの戸締り』における大震災は自我を持たないミミズが後ろ戸から「現世」へ闖入することによって引き起こされるが、「悪」に類する存在は確認できない。村上作品には「絶対悪」あるいは「純粋悪」というべき存在が物語の要請上、存在する。彼らは残虐に殺人を犯し、社会の法制度を蹂躙する。そのような絶対悪を前にしたときに私たちが取りうる倫理的な行動とはなにか? それを村上は問い続けている。「みみず」に「くん」という付加的呼称詞が与えられているのは、自我を持った「みみずくん」が社会から剔抉されるべき悪だという役割を明確に示すためであると考えられる。

話を戻すと、『すずめの戸締り』には「絶対悪」が登場しない。「ミミズ」は意思を持たず、ただ地下で暴れ回る存在として描かれる。これは自然現象である「震災」の性質をそのまま表現している。東日本大震災は誰かの意思によってもたらされたものではない。それは自然現象の一つとして日本列島を襲った。しかしこの描き方では、もしも閉じ師が「間に合っていた」のであればあの震災は防げたということになる。『君の名は。』における村の消滅も、『天気の子』における東京の水没もフィクションであり、だからこそ「私」と「セカイ」を物語(フィクション)で接続する「セカイ系」の回路が有効に機能していた。しかし『すずめの戸締り』における「東日本大震災」はフィクションではない。この点にはもう少し慎重になるべきではなかっただろうか。

加えて、全体を通し気になるのは設定やディテールの甘さである。物語に大きな破綻はないが、細部にはご都合主義やプロットの不整脈が散見される。神の眷属である「ダイジン」というトリックスターの意図がぼやけてしまったのがもったいなかった。「神は気まぐれ」という科白をエクスキューズとして草太に与えているものの、ネグレクトだと批判されても仕方ないだろう。草太が椅子になるまでの展開の早さや御茶ノ水駅での再会やSNSで拡散されるダイジンの動向、サダイジンの唐突感など、粗を探し出すと枚挙に暇がないが、高解像度な背景映像と東日本大震災の現実的記憶との縫合によってそれらを隅に追いやってしまう力技は見事だった。

今作は被災地東北への旅によって、傷ついた人たちを癒し、死者を弔う喪の作品となっており、大きな責任と痛みを伴う作品である。私は新海の大きな挑戦を肯定したいと思う。新海が「映像作家」として鎮魂と癒やしの物語を描出したことに私は感銘を受けた。映画は娯楽であると同時に時代を映す鏡でもある。『君の名は。』『天気の子』というセカイ系のディザスタームービーの掉尾に『すずめの戸締まり』を完成させた新海はやはり現代において高く評価されるべき監督だろう。

鈴芽が各地の「扉」を閉じることによって災厄は防がれ、物語は収束する。重要なのは記憶に蓋をすることでなく、その「扉」の存在をナラティブとして物語っていくことである。「あなたは光の中で大人になる」という鈴芽の前向きな発言は私たちの前にある扉の向こう側に「未来」が開けていることをたしかに伝えている。

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