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大谷翔平『どうだ明るくなったろう?』

人の不幸でお金や知名度を稼いではいけない。これは道徳の観点からは概ね正しいと言える。道徳は正常な社会を構成するための必須要素であり、これがなければ社会性は成立しない。道徳以前の社会が存在したというホッブズの思考実験的仮説は、道徳のない人間を自然人と定義した。しかし『万人の万人に対する闘争』と呼ばれる無道徳社会は思考実験にすぎない。実際の人間は、社会的文化や道徳的規範、法律などの制約の中で生きており、その制約の中で行動する。したがって、万人が万人と闘争する無制約の自己中心的行動が可能な状態は、現実世界では存在しない。社会的な制約や道徳的な規範が、人々の行動を規制し、相互の利益や共存を促進する役割を果たす。我々は、社会というフレームの中で損得のゲームを生きている。道徳とは他者と共存したいという個人の欲求であり、道徳が集合することで社会規範や倫理が設定される。他者を認識できない人間だけで構成された社会が存在するとすれば、それこそが無道徳な社会ということになる。自分と何の関係もないサイコパス的な事件に我々が恐怖するのは、我々が他者性を理解する個人で構成された社会に生きていたい、そうでないものを拒絶したいという精神性からくるものなのかもしれない。すべての人間が思いやりを持った良い社会を作りましょう、めでたしめでたしでよいのだろうか。社会を構成する被差別階級の存在を忘れてはいないか。日本では『穢れが多い』と書いて穢多、『人に非ず』と書いて非人という被差別階級が存在した。また古代ローマにはホモ・サケルという被差別市民が存在し、彼ら彼女らは共同体に所属しながら共同体の法や権利の恩恵を受けることができない生贄的存在であったという。オタク評論家の岡田斗司夫は、善良な市民が善良な市民であり続けるためには生贄が必要であり、現代では有名人やインフルエンサーの炎上が匿名市民たちのガス抜きになっているのだという。上述した江戸時代の非人には河原乞食と呼ばれる歌舞伎役者や芸能を生業とするものも含まれていた。また中世ヨーロッパでは道化師として、小人症や知的障害者が宮廷のエンターテイメントを司っていたという。自由業が生贄の対象に選ばれるのは古今東西で変わらない風潮なのかもしれない。では私が唱える1億総インフルエンサー社会(通称プロ奢杯)では誰が生贄になればいいのだろうか。皆が主役の社会ではターン制で生贄を持ち回りするのが良いのか。しかし、そのリスクを提示してしまえば匿名に甘んじ、クリエイター社会にフリーライドするものが必ず現れるだろう。評価経済社会を導入してフリーライダーには報酬を与えないという仕組みを構築することも可能だが、炎上に見舞われるリスクを考慮しても見合うだけの利益が創造者に与えられるのが望ましい。生贄を維持せずに、次の時代を構築する方法を考えるという理想論も大いに結構ではあるが、社会の多数派は受動的であり自身の意見を言語化することはおろか、一考することもままならない。唯一、人が物事を考えることがあるとすれば、感情を強く揺さぶる事件が発生することである。大谷翔平の専属通訳である水原一平が、違法賭博をして所属球団を解雇されたニュースが話題を呼んでいる。世間の目は水原氏の違法賭博よりも、日本の英雄である大谷翔平は事件に関与しているのか、この事件でメンタルに問題はないのか、大谷に被害を与えた水原の罪は大きいといった意見や疑問が目立つ。これまで、メディアで無私の善人として喧伝されていた大谷翔平のスキャンダルに、認知的不協和が起きている。認知的不協和の解消を試みる人、手のひらを返して大谷を叩く人、大谷絶賛ムードを前々から疑問視していた人がインターネット言論空間に溢れかえり、議論が活発化している。これは素晴らしいことである。確かに大谷翔平の経済圏で飯を食ってきた人にしてみれば、大谷翔平と専属通訳に対するディスブランディングはたまったものではないだろう。しかし、停滞という予定調和をぶち壊す事件を我々は待ち望んでいるはずである。『善人とは何か』という哲学的な問いに、メディアは大谷翔平という答えを出してしまっていた。本来は絶対的な善人など存在せず、自分にとって味方と敵が存在し、味方を善としてカテゴライズしているにすぎない。味方と敵という縦の二軸と、資本主義的強者と弱者の横の二軸で作り出した四象限では、縦の二軸は無視されることが多い。どれほど心強い味方勢力であっても影響力のない人物や集団が、議論の対象になることはない。価値相対化を使えば、大谷翔平とクラスメイトを同列に語ることは可能なのだが、分かりやすい前者の話題が大好きなのが人の常である。社会のトレンドでないことを語りたがるサブカルチャー集団を一つの空間に集めて、好きなタイミングで議論させるという仕組みづくりをしたのが5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)である。5ちゃんねるには日本社会としての炎上はないが、その代わりとしてそれぞれの島宇宙が常に燃えている。太陽だけが恒星なわけではない。六等星以下の恒星たちも地球からは小さく見えるだけで、本当は太陽より大きいこともあるのだ。有名人やインフルエンサーの炎上は我々のお金と知名度を集めるチャンスである。一個人如きが炎上を加速させることなどできない。太陽のプロミネンスをアルコールランプで加速させようとするようなものだ。しかし、プロミネンスでアルコールランプに火をつけることはできる。生贄は堀江貴文が思うほど、根絶する必要があるような悪習ではなく、不特定多数にお金と知名度を与える篝火になるかもしれない。社会科の教科書に載っていた造船成金が万札で足元を照らす絵を思い出した。お金や知名度は腐るほど持っている人がいる。その人たちが多少燃やして我々の足元を照らしてくれててもよいではないか。皆に思想を与えるには、きっかけが必要なのである。大衆に思想を与えたほうが良い理由については別記事の『BASIC THOUGHT 思想の再分配』を参照してほしい。


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