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【雑記】非日常という麻薬

何者かになりたいという漠然とした願望は我々にとっての活力になり得るのかという問題について少し考えてみる。何者かになりたいの『何者か』というワードは非常に観念的である。恐らく自身の願望を上手く言語化できていないために仮に設定している『自身が持っているはずの願望』を指し示す言葉である。抽象概念を作り出すことが出来るのはホモサピエンスの専売特許であり、他のヒト属や類人猿にはできない芸当である。ゆえにチンパンジーやボノボは己の夢について悩むことはない。過去や未来といった概念も持ち合わせていないため、解決しなければいけない問題は常に現在進行形で発生する。食べ物がないために空腹であることや、肉食獣の群れが攻めてきているなど、これらの問題を後回しにすることは命の危機を招くことになる。ホモサピエンスは抽象概念を信じることが出来る認知機能を持っている為、未来や過去のことで悩む。どうやら何者かになりたいという願望はホモサピエンスが広い時間軸でものごとを見ているがゆえに発生する現象らしい。

  • 仕事をやめたい

  • 結婚したい

  • 金持ちになりたい

  • 起業したい

上記に書き出した我々が抱きがちな普遍的で抽象的な願望は、全て同じ類いの性質を持っていると思われる。今と別の人生を歩みたいが、具体的にどのような未来を生きたいかということを想像するための経験値や知識が不足しているので、口をついて出る言葉が抽象的になる。社会学者の宮台真司の著書に『終わりなき日常を生きろ』という本がある。1960年代の若者たちは共産主義の理想を信じて安保闘争に明け暮れた。対米従属の戦後が彼ら彼女らの未来を暗いものにしていると信じられており、漠然とした不安や怒りを抱えていた。安保闘争は失敗に終わり、その後のインテリ層はオカルトに熱中した。時代を象徴とするのはオウム真理教だが、世紀末にはノストラダムスの大予言からくる終末思想は社会から一定の支持を得ていた。その結果、退廃的に興じたり、また真理に至ることで世紀末を乗り切ろうとしていたのだ。しかし、オウムのテロ事件と首謀者の逮捕がきっかけとなり、オカルトブームは下火になり、若者が社会に対して反骨精神を提示するようなムーブメントは見られなくなった。表面化はしていないとはいえ、若者は常に『終わりなき日常からの脱出』を試みており、彼らのエネルギーが絶えてしまったわけではない。ネット右翼の過激化やオタクカルチャーの発展も局所的とはいえ、若者の熱を表すムーブメントだったのかもしれない。

我々は宇宙規模で見れば、視認することすらできないような小さな存在に過ぎない。その我々が80年という短い時間を生きて、そして死ぬ。そこに特別な事件や物語は発生しない。かつて釈迦が悟った生老病死の苦しみとは、終わりなき日常を生きることの苦しみであると考えることもできる。断言するが、私も君も『何者か』にはなれない。私は死ぬまで私であり続け、君は死ぬまで君であり続ける。職業が変わろうが、結婚しようが、収入が増えようが、個人の生き方という哲学的な問題には一切関係がない。物語は世界に対する妄想の中にのみ存在し、それは物理的な次元で発生しているような些末な事象のことではない。人間である自分と動物である自分を分けて考えるべきだ。明日お金が必要で、それがなければ電気ガス水道が止まってしまうなら今すぐお金を稼ぐべきだが、将来の漠然とした不安のためにお金で『悩んでいるフリ』をするのを今すぐ止めるべきだ。人生の伴侶にしたいほど愛する人がいて、子供を作る予定があるのであれば、今すぐプロポーズして婚姻届を提出すべきだが、結婚する相手も予定もないのに『悩んでいるフリ』をするのを今すぐ止めるべきだ。

能力に対して可能性を無限に持ちつつも、目を向ける現実を半径数キロに限定することを心がけよう。あなたは広瀬すずや浜辺美波と付き合うことが出来るポテンシャルを持っているが、あなたにとっての広瀬すずは半径数キロの範囲で探さなければならない。生物学者のロビンダンバー曰く、国家や自治体という高次の概念を信じることが出来る人間も、具体的に相手を認知することが可能な限界はチンパンジーの持つ限界とさほど変わりがないとのこと。我々は周囲の150人という狭いネットワークの中で人生の大半を生きることになる。これをロビンダンバーは自身の名前からダンバー数と名付けた。インターネット空間にSNSを通じて繋がることが出来る他人が増えすぎた(正確には繋がることは出来ないが、繋がることができるように見える他人)。さらに友好関係を築くことのできる性質を持った他人は遺伝学的に決定しているという見方もある。類は友を呼び、それ以外を切り捨てるのだ。これをホモフィリーという。繋がれる人間に対して、無限の可能性を感じるのではなく、自身の能力に対して無限の可能性を感じる方が生産的であるし、行動力も上がる。現状に対して能動的な選択が取れるかどうかはあなた次第だが、環境は必ずしも選び取れるとは限らない。

雑記というか叱咤激励?

この雑記では『君』という言葉を使っているが、語りかけているのは自分に対してである。未来に対して漠然とした不安を抱えたときに、周囲に相談するより前に、自分は何がしたいのかを自問することを優先しよう。これを書いている私(『君』)は、漠然とした不安を、漠然とした願望と目標に転嫁している。問題は現実に発生しているものに限定し、それ以外は全て幻想と切り捨てるのだ。不安のためにしたくもないことに突き動かされるのは馬鹿馬鹿しい。君はどうせ終わりなき日常を生きることになるのだから。

Fate/Zeroのラストシーンで万能の願望機である聖杯を手に入れた衛宮切嗣を思い出した。世界の平和を願ったが、争いを起こす少数派を殺し続けることで解決しようとする聖杯に文句を言う切嗣。君の願いは君のやり方(能力)で叶えなければ、それは嘘だというのだ。元殺し屋の切嗣が世界平和を達成するとすれば、それは殺しによるしかない。人は異次元の方法で願望をかなえることは出来ないという厳しくも当たり前の現実を教えてくれた作品だ。



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