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J Dilla聖地巡礼地図(2):ニューヨーク編


イントロ

 『Dilla Time』でも繰り返し強調されている通り、Jディラが音楽活動を始めた1990年代初頭のヒップホップといえば完全にニューヨークあるいはロサンゼルスのものであり、まだまだ地域性が強い音楽だった。音楽面ではDJプレミアやピートロックといったニューヨークのビートメーカーの影響が色濃い初期Jディラ(ジェイ・ディー時代)が、活動を本格化するにつれて拠点を徐々にこの都市に移していくのは必然だった。

 デトロイト育ちのJディラがニューヨークと縁を持つことになったきっかけは、94年にA Tribe Called Questのツアーでデトロイトを訪れたQティップの手にスラム・ヴィレッジのミックステープが渡ったことにさかのぼる。その内容に衝撃を受けたQティップはわざわざ自宅のレコーディングスタジオ(❶)にJディラを呼び寄せ、以降ふたりは交流を深めてゆく。Jディラが最初にメジャーレーベルと仕事をしたのは、Qティップの伝手で得たマンハッタンのBattery Studios(❷)で行われたファーサイドとファットキャットの音源制作だった。
 QティップからJディラがフックアップされたのと同じ頃、MCAに移籍しニューヨークに転居した(❸)のがシカゴ出身のコモンだ。コモンは当時ネイティブ・タン一派と見なされており、Qティップとの距離も近かった。
 コモンとJディラの出会いは世紀の変わり目に行われた伝説的なElectric Lady Studios(❹)でのセッション群で実を結ぶ。『Dilla Time』で指摘されているとおり、Electric Lady Studiosに集まったソウルクエリアンズやアーティストの面々は、クエストラブはじめフィラデルフィア出身者が多数を占めており、Jディラ、コモンも中西部出身だった。このことは米国の音楽人材の分厚さと偏在を示すだけでなく、さまざまな都市や地域の文化の結節点となるニューヨークの都会たるゆえんを裏付ける。
 Jディラの没後もニューヨークは大きな意味を持つ場所であり続けている。遺作となった『Donuts』(2006)のリリースパーティはJoe’s Pub(❺)で行われ、DJハウスシューズがディラに代わって同アルバムをスピンした。また、2019年10月には名門ジャズクラブBlue Note(❻)にてロバート・グラスパー、クリス・デイヴ、T-3らがJディラトリビュートのセットを1か月にわたって演奏した。コモンやカリーム・リギンスら、ゆかりあるミュージシャンたちも多数訪れたというこの規模のトリビュート企画が、近い将来に再度行われるかはわからない。ただ、もし行われることがあるとすれば、開催地はニューヨークをおいて他にないだろう。


各所の案内

 以下、Jディラの人生をたどるうえで重要なニューヨークの見どころを地図とともに紹介する。

❶Qティップの自宅兼レコーディングスタジオ(焼失)

所在地:Englewood, NJ

 Jディラがヒップホップの本場ニューヨークで活動の足掛かりを得られたのは間違いなくQティップのおかげである。1994年、当時ナズのデビュー作『Illmatic』収録の”One Love”の制作に忙しかったQティップは、彼にプロデュースを依頼してきたファーサイドに対して、しょせんデトロイトの若手に過ぎなかったJディラを自分の代役として推薦した。当時Qティップが持っていたスラム・ビレッジの音源に驚愕したファーサイドの面々はJディラにプロデュースを依頼。この名曲”Runnin’”にまつわる裏話は、『Dilla Time』でも紙幅を割いて詳述されている。
 Jディラがプロデューサーとして本格的に頭角をあらわしたのは、ジ・アマーとしてQティップと組んでさまざまなビートメイキングやリミックス仕事を手掛けていく中においてだった。ただ、作品のクレジットや報酬の折半に関するQティップの「鷹揚すぎる」考え方にJディラは次第に反発を覚えるようになり、またQティップの側でも、「Jディラという若手の力を借りなければすぐれた作品を作ることができない」といういわれもない誹りを受けるようになり、両者の気持ちはすれちがっていく。
 これらすべてが起きていたのが、Qティップが1990年代にニュージャージー州Englewoodのタウンハウスに構えていた自宅兼レコーディングスタジオである。何よりもブラザーフッドと連帯を重んじたQティップはJディラ以外にも多くのラッパーやシンガーやビートメイカーを自宅に招いて共同で楽曲制作やリスニングセッションをおこなっていた。そして一緒に作った楽曲は残らず共同クレジットで楽曲リリース後に発生する収益もきっちり等分された。このやり方を、自分の名前を売りたかった若き日のJディラ(ジェイ・ディー)は嫌った。
 ところがそんなぎこちないふたりの関係は突然の事故で終わりを迎える。Jディラの24歳の誕生日の直後、1998年2月9日、Qティップの自宅は火災で膨大なLPのコレクションと制作のための機材もろとも全焼する。
 ただでさえJディラの才能の搾取に関する誹謗で傷ついていたQティップにこれは堪えた。しかしある意味では吹っ切れるきっかけにもなった。この火災を境にジ・アマーとしての活動は無くなり、ディラとティップは実質的に一度関係を絶った。また、ア・トライブ・コールド・クエストも活動を休止した。
 このリセットがある意味では奏功し、アーティストとして再起と方向転換をはかった2009年リリースのQティップのソロ作『Amplified』はJディラ(ジェイ・ディー)が全編にわたってプロデュースを手掛けている。また、ふたりは後年ソウル・クエリアンズにて再び協働することになる。『Dilla Time』著者のダン・チャナスの言葉を借りれば、「ジ・アマーは消えたが兄弟の絆は生き延びた」のだ(第9章 Partners)。

❷Battery Studios

所在地:321 W 44th St # 1006, New York, NY

 『Dilla Time』の序章には、サウンドエンジニアのボブ・パワーが、まだ無名だったJディラのビート(Qティップの楽曲用に用意されたもの)をBattery Studiosで試聴して驚愕する場面が描かれる。その場に同席していたJディラは口数が少ない極めて控えめな若者だったため、パワーの驚きはさらに倍加した。JディラといえばソウルクエリアンズとElectric Lady Studioのイメージが強いが、アイコニックな音源の中にはBattery Studiosで収録・ミックスされたものも多い。そこには例えばデ・ラ・ソウルやア・トライブ・コールド・クエスト、Qティップのソロ作などネイティブ・タンの楽曲や、ジ・アマー名義でのリミックス作品群が含まれる。
 現在はソニー・ミュージック・エンターテイメントの一部門として運営されており、1967年設立のRecord Plant Studiosの建屋を引き継いだ長い歴史を持つ。さまざまな磁気テープやヴァイナルの再生・録音機器がそろっていることに強みがあり、古い音源のリマスタリングやデジタルアーカイブ化のサービスを提供している。


❸コモン旧宅

所在地:Fort Green, Brooklyn, NY
 
  英国系のインディペンデントレーベル、Relativity Recordsから発売された1992年のアルバム『Can I Borrow A Dollar?』でデビューしたコモンは当初、ニューヨークの知性派MCでもロサンゼルスのギャングスタでもないため、リスナーからも業界人からもどういうキャラクターなのかよくわからないという見方をされていた。いちおうネイティブ・タン一派という扱いではあったものの、それだけにATCQやデ・ラ・ソウルと音源やツアーの売上を食い合うという中途半端な立ち位置を強いられており、経済的な成功も限定されていた。
 そんなコモンと彼のマネジャーのデレク・ダドリーがキャリアの新規一転をはかるため、インディレーベルのRelativityとの契約を打ち切ると同時にブルックリンに居を構えることを決めたのはある意味必然だった。彼らが一緒に移り住んだアパートメントがあったFort Greene地区は、スパイク・リーが記録映像を撮影したことでも有名なブラック・ボヘミアの中心で、つまりブラックカルチャーの震源地だった。モス・デフとタリブ・クウェリが共同オーナーを務めた書店、Nkiru Bookstoreも近所にあった。同書店ではデトロイトの詩人でHip Hop Shopのマネジャーでもあったジェシカ・ケア・ムーアが朗読を披露したりといった催事も多く行われ、コモンもニューヨークにあって中西部との人脈を維持することができた。Nkiruは2024年現在に至るまで、黒人文学の書籍を中心に扱う書店として経営を続けている。
 ブルックリンに拠点を移したことは明らかにコモンのキャリアに好影響を及ぼした。Jディラたちとの『Like Water For Chocolate』(2000)の制作もこの転居が無ければ実現しなかったかもしれない。


❹Electric Lady Studios

所在地:52 W 8th St, New York, NY

 1970年に建造されたレコーディングスタジオで、元々はジミ・ヘンドリックスの所有物だった。開業当初は盛況で、デビッド・ボウイやスティービー・ワンダー、レッド・ツェッペリンといったビッグな音楽家らが数々の名演を吹き込んだ。しかしコンピュータ化の波や相次ぐ録音技術の刷新なども重なり、いわゆる昔ながらのアナログなスタジオとして、やがて忘れ去られてしまった。
 90年代も終わりに差し掛かる頃、若く才気あふれるディアンジェロが、マンハッタンの片隅で埃をかぶっていたこのスタジオに再び息を吹き込む。Dはマービン・ゲイやダニー・ハサウェイが作り上げた伝統的なソウルマナーを継ぐ俊英として、1stアルバム『Brown Sugar』(1995)で華々しくデビューし、その後はさらなる温故知新路線の探求を志していた。Dが目指す素朴で生々しい音楽を作り出すためには、アナクロでアナログな録音環境が必要だった。Electric Lady Studiosには、スティービー・ワンダーが実際に弾いたフェンダー・ローズピアノをはじめとして、ヴィンテージ機材の宝の山も残っていた。古き良きソウルの復権を目指す若きディアンジェロにとっては夢のような場所だ。
 こうしてElectric Lady Studiosで制作・録音されたのが、ネオソウルの金字塔『Voodoo』(Virgin, 2000)である。発表から20年以上が経過した今でも録音芸術の最高傑作と称されることも多い同作に向けたレコーディングセッションには、クエストラブ(ドラムス)、ピノ・パラディーノ(ベース)、ジェイムズ・ポイザー(キーボード)、チャーリー・ハンター(ギター、ベース)、ロイ・ハーグローブ(トランペット)ら名うての腕利きスタジオミュージシャンに加えて、既にディアンジェロやクエストラブからは神格化に近い尊敬を受けていたヒップホップの革命家ジェイ・ディーが集まった。ディラ含めみずがめ座(Aquarius)の人間が多かったことから、彼らはやがてソウルクエリアンズ/The Soulquariansを自称するようになる。
 Electric Lady Studiosにおけるソウルクエリアンズのセッションからは、Voodooに加えてエリカ・バドゥ『Mama’s Gun』(Motown, 2000)、コモン『Like Water For Chololate』(Geffen, 2000) 他、ブラックミュージック史上に燦然と輝く名盤の数々が生み出されることになる。そのすべての中心にいたのが他ならぬディラだった。彼は時にMPCでビートを打ち込み、時にローズピアノでベースラインを手弾きし、自身の中に眠っていた元来のミュージシャンシップを覚醒させていった。そして手練れに囲まれながらも、リズム面においては圧倒的なグルとしてプロダクションをリードした。


❺Joe's Pub

所在地:425 Lafayette St., New York, NY

 1967年に竣工したザ・パブリック・シアターの一角を占める演劇場。視覚演出家のジョセフ・パップによって設立され、さまざまな演劇、音楽含むパフォーミングアーツの公演会場となってきた。
 Jディラの遺作アルバム『Donuts』(2006) のリリースパーティは、2006年2月16日にこの由緒ある会場で行われた。同会場にはハウスシューズやワジードらが集まり、DJをおこなった。こうした大がかりな販促イベントはもちろん従前から計画されていたものではあったが、ニューヨークタイムス紙といった大手媒体がJディラの死を取り上げたため[*1]、より大きな注目を集め、期せずして音楽業界の関係者たちがJディラの人生を振り返る会になっていった。
 『Dilla Time』でも、著者ダン・チャナスも、「Jディラが亡くなったことは大手メディアが記事にしやすいストーリーを『Donuts』に対して与えた。さもなければ、インディレーベルから発売されたこんな奇妙なインスト・アルバムは無視されていただろう」と評している(第13章 Zealots)。


❻Blue Note Jazz Club

所在地:131 West 3rd St., New York, NY 

 ニューヨークを代表する有名なジャズクラブだが1981年開業と、BirdlandやVillage Vanguardといった他の有名店に比べると歴史は浅い。席数も200と、日本など他の国にあるフランチャイズ店と比べても特別大きいわけではない。しかし数々のレジェンドたちが演奏してきたことに変わりはない。
 Blue Noteが持つ伝説のひとつに2019年10月にジャズピアニストのロバート・グラスパーが中心に開催された4夜連続のJディラトリビュートがある。毎夜アコースティックなジャズアレンジや打ち込み、ラップ、歌唱を織り交ぜてJディラに関わりがある曲だけの演奏が続けられた。夜ごとT3、コモン、カリーム・リギンスといったゲストも訪れ、飛び入りで演奏をおこなった[*2]。グラスパーはこれ以降も折にふれJディラトリビュートのセットを演奏しているし、Blue Noteでは毎年1か月程度の連続公演(レジデンシー)をおこなっていることから、運が良ければこの会場で同様の企画を見られるかもしれない。
 なおロバート・グラスパーは生前のJディラと最も親しかった人物というわけではないものの、実際に何度か会う機会があり直接会話していることは『Dilla Time』でも描かれている。Jディラの音楽面におけるジャンル横断的な影響力はあらためて説明する必要もないが、グラスパーはある面ではその影響に対してジャズの側から応答し続けている人物である。


[*1] 当時の記事の一例

[*2] この時の様子の一部はYouTubeなどで見ることができる。Jディラの母親であるマ・デュークスの姿も何度も抜かれる。


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