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J Dilla聖地巡礼地図(3):ロサンゼルス編


イントロ

 ロサンゼルスはこれまでみてきたデトロイト、ニューヨークと比べて温暖で穏やかな気候を特徴としている。逆に他の2都市の気候が厳しすぎるともいえる(特に冬は)。Jディラがこの街に引っ越したのは2004年のはじめで、死因となった狼瘡の症状が出始めてからすでに1年以上が経過していた。そこで、年間を通して暖かく、雨も少ない環境で体力の回復をはかりたいという目的が第一にあった。
 もちろんロサンゼルスは多くの映画制作会社やレコード会社が本社を置くエンターテイメントの街でもあり、音楽制作の面でもプラス効果が期待された。ストーンズ・スロウ・レコーズとJディラとの関係は良好で、マッドリブとのユニット活動であるジェイリブは2003年10月にアルバム『Champion Sound』をリリース、全米ツアーも予定されていたところだった。また、『Like Water For Chocolate』(2000)の成功の後、野心的すぎた『Electric Circus』(2002)が鳴かず飛ばずに終わり、ロサンゼルスで俳優としてのキャリアを企図した盟友のコモンが先に移住していたこともJディラの背中を押した。
 ロサンゼルスはJディラが晩年を過ごした街となったため、関連する場所もその闘病や死の暗い記憶と結びつくことになる。シダーズ・シナイ医療センター(❶)や、埋葬がおこなわれたフォレスト・ローン記念公園(❷)がその代表だが、とうぜんそれだけではない。彼はロサンゼルスでも旺盛な創作活動を続け、コモンと共同生活をしたハリウッドのアパートメント(❸)や、ストーンズ・スロウ・レコーズの社屋(❹)はその舞台となった。むしろ、彼は最期のときを迎えるまで病室に機材を持ち込んでビートを作り続けていた。
 また、デトロイト、ニューヨークと同様、ロサンゼルスでもJディラの死後に大規模なメモリアルイベントが開催されている。代表的なのはカリフォルニア州立大学のキャンパス内にあるラックマン・ファインアーツ・コンプレックス(❺)で、2009年2月にミゲル・アトウッド・ファーガソンが率いるオーケストラによるJディラ・トリビュートコンサートは1000人以上の観客を集めた。

各所の案内

©OpenStreetMap contributors

❶シダーズ・シナイ医療センター

所在地:8700 Beverly Blvd, Los Angeles, CA

 ロサンゼルスのフェアファックス地区にある、19の診療科と915床をほこるカリフォルニア州で最大級の病院。じつはヒップホップの歴史においては記念碑的な意味をもつ施設でもある。1994年にイージーEがエイズによる合併症で亡くなったのはこの病院だった。また1997年、ノトーリアスB.I.G.はドライブ・バイによる銃撃を受けた後にここに緊急搬送され、死亡が確認された。カニエ・ウエストが2004年の自動車事故のあと、3つに割れた顎をワイヤーで繋いで固定する緊急手術を受けた病院でもある。この出来事がカニエのデビューアルバム『College Dropout』(Roc-A-Fella, 2004)収録の”Through The Wire”の元ネタとなっていることはあまりにも有名。さらに付け加えれば、トゥー・ポエティックが結腸癌で亡くなった場所でもある。
 そしてJディラ、自身32歳の誕生日に発売された最後のアルバム『Donuts』を完成させたのはここの病室においてだった。『Dilla Time』著者のダン・チャナスは、シダーズ・シナイと自宅を往復するJディラ晩年の闘病生活の様子を分厚く記述している(第12章 Dilla Time)。それは狼瘡に加えて重篤な腎不全を発症していたJディラは、週3回透析に通う生活だった。また、体調によって入退院も繰り返した。母のモーリーンをはじめとする知人友人たちの献身的な介護がそれを支えたし、『Dilla Time』では入院中の病室にMPC3000を持ち込んでビートメイキングしていたようすも描かれる。
 チャナスが指摘する通り、『Donuts』は構成の面でもサウンドテクスチャーの面でもJディラのディスコグラフィーの中では際立って奇妙な作品である。それはあらゆる機材がそろった自宅のスタジオから離れ、わずかに持ち込める厳選された機材の制約の中で作ったからだと言われている。同作を病跡学的に読み解いたのは、ブルームスベリー出版の「33 ⅓」シリーズから出たジョーダン・ファーガソンの筆による解説本である。いずれにせよ、Jディラの闘病とは『Donuts』の制作過程そのものだったのだ。
 

❷フォレスト・ローン記念公園

所在地:1712 S Glendale Ave, Glendale, CA
 
 マイケル・ジャクソン、ウォルト・ディズニー、ナット・キング・コール、ハンフリー・ボガートら、米国の文化史上の重要人物が何人も眠る墓地でありつつも公園。ロサンゼルスの中心街を見下ろす風光明媚な丘陵地にあり、墓参りをしたい観光客も多く訪れる。
 Jディラの墓もここにある。友人たちはデトロイトでのお別れセレモニーの後、2月14日にフォレスト・ローン公園での埋葬をおこなった。葬儀にはQティップ、カリーム・リギンス、コモンら友人のほか、内縁の妻だったジョイレット・ハンターや娘ジャマイアも参列した。

❸Jディラ旧宅

所在地:132 N Sycamore Ave, Los Angeles, CA

 ロサンゼルス時代のJディラが住んでいた家。元々コモンが2003年にニューヨークからロサンゼルスに移住した際に買った家であり、ふたりはシェアハウスの形で住むことになった。西ハリウッドの住宅街に建つスパニッシュ・コロニアル風の邸宅で、3ベッドルーム、2バスルーム、1875平方フィート(約174平米)という仕様。なお現在は別オーナーがおり、売りにも賃貸募集にも出されていないが、アメリカの中古不動産情報サイトZillowによると、2024年1月の時点で売家となった場合の価格は2,293,100ドルと見積もられている。
 デトロイトの旧自宅の地下に築いたスタジオほど機材は充実させられなかったものの、Jディラはこの家でも盛んにトラックメイクをおこなっていた。彼がMPCなどを使ってダイニングルームで作業するようすは何枚もの写真に残っているが、部屋は広々としており天井も高いので、モニター時の反響のコントロールは大丈夫だったのだろうかといらぬ心配をせずにはいられない。
 また、Jディラの病状がいよいよひどくなると、母親モーリーンはロサンゼルスに越してきて介護の目的でこの家に住むようになった。その後本来の同居人コモンは気を使って外泊が増えたらしい。じつは❶シダーズ・シナイ医療センターも比較的近くにあり、透析の送迎がしやすいという理由もあった。そして亡くなった2006年2月10日の朝も、目覚めなかったJディラはこの家から緊急搬送された。
 

❹Stones Throw Records本社

所在地:5605 1/2 N Figueroa St, Los Angeles, CA

 ストーンズ・スロウ・レコードは1996年にクリス・マナック、通称ピーナッツ・バター・ウルフによって設立されたインディ・レコードレーベルで、最初はカリフォルニア州サンノゼに拠点を置いていたが後に本社をロサンゼルスに移した。アーティスティックな作風や音響的な試みを幅広く許容する風土によってアンダーグラウンド・ヒップホップのシーン形成に重要な役割を果たした組織であり、後期Jディラ作品、つまりマッドリブとの共作を含む彼のソロアーティストとしての作品群の多くはこのレーベルから発表されている。
 当然、Jディラのロサンゼルスでの生活にはストーンズ・スロウ関係者が大いにかかわることになり、『Dilla Time』においても、創業者兼CEOのピーナッツ・バター・ウルフの他、レーベルメイトのイーセン”イーゴン”アラパット、マッドリブ、MF DOOMらとの交流や人間模様が描かれる。
 事務所はロサンゼルスのダウンタウンからフィゲロア通りを北上し続けたところにある。Jディラの生前から今でも同じ場所に立つこの会社を一度外からでも見学して在りし日に思いを馳せる価値はあるだろう。
 

❺The Luckman Fine Arts Complex

所在地:5151 State University Dr, Los Angeles, CA(カリフォルニア州立大学キャンパスの構内)

 カリフォルニア州立大学ロサンゼルスキャンパス内にある文化施設で、ビジュアルアーツおよびパフォーミングアーツの様々な催しがおこなわれる。2009年2月22日ここを会場として、Jディラ死後いくつもおこなわれた追悼イベントの中でも特に記念碑的な『マ・デュークス組曲』と題されたパフォーマンスがおこなわれた。
 ヴィオラ奏者兼アレンジャーのミゲル・アトウッド・ファーガソンとDJ/プロデューサーのカルロス・ニーニョというコンビの主導により、60人編成のオーケストラアレンジでディラにゆかりがある楽曲が3時間にわたって演奏された。イベントの第2幕ではカリーム・リギンスがドラムスで参加し、熟練のディラビートを披露した。オープニングDJはハウスシューズとJロックがつとめたこのイベントの一部は、そのまま『Suite for Ma Dukes』(Mochilla, 2009)として音源化されている。
 

❻Sound Castle Studios

所在地:1923 Micheltorena St, Los Angeles, CA

 Jディラのプロデューサーとしての出世作となる”Runnin’”のトラックを提供したファーサイドが有名な貯水池、シルバーレイク近くに構えていたレコーディングスタジオ。”Runnin’”のレコーディングもここでおこなわれた。Jディラが打ち込んだ不規則なキックドラムのパターンをめぐってファーサイドのメンバー間でかなり深刻な揉め事が起きる顛末も『Dilla Time』では活写されている。
 なお当時ファーサイドはこのスタジオの近くに、メンバー全員が共同生活を送るシェアハウスを構え、LabCabinCaliforniaと名付けていた。さしずめ、「俺たちには実験精神がある」といった意味だろう。この名前は”Runnin’”が収録された彼らの2ndアルバムのタイトルに採用されている。


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