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須賀敦子のように

このエッセイの連載を始めるとき、お手本になりそうな本を探した。だが、参考になりそうな本をすぐには思いつけなかった。わたしは昔からエッセイが好きだったので、いろいろ読んでいるつもりだったが、思い返しているうちに、かなり偏っていることが判明した。

例えば今でも繰り返し読むエッセイといえば、モンテーニュ、森有正、アーシュラ・K・ル=グィンの三人だけである。これにエッセイなのか小説なのかわからないリチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』と『芝生の復讐』を加えたものが、愛読書の核を形成している。こうやって並べてみるとずいぶんおかしな取り合わせであるが、それはさておき、どれも母との実家での日々を淡々と書くはずのエッセイの参考になりそうにないことだけは明白であった。

ネットで検索したり本屋に行って本棚を眺めているうちに、思い出したのが須賀敦子だった。実は、彼女の初めての文庫本が出版されたばかりのころ読んだことがあった。彼女の文章力にはそのころから定評があったのだが、当時三十代だったわたしは、うまい文章だと思ったものの、内容についていけずに途中で読むのを止めてしまい、以来二度とページを開いたことがなかった。

ところが、おかしな話だが、その時の記憶が甦ってきて、あの文章こそこれから書くエッセイの見本となるべき文章だと思ったのである。

最後まで読むこともなかったその文庫本は、何度かの引っ越しでどこかにいってしまっていたが、本屋に行くと全十巻の文庫版全集があったので、片っ端から手に取って、あちこち拾い読みしてみた。端正な文体で遠い昔の記憶を回想しているそのエッセイ群は、確かにお手本になりそうな気もした。

だが、そうはいっても、かつて薄い文庫本一冊読み切ることができなかったのは事実なので、いくらきれいな文章だと思っても、実際に読んでみなければわからない、とわたしは思った。それに実際にお手本にするなら、なおのこときちんと読む必要があるだろう。とはいえ、一度読めずに失くしてしまった本を、もう一度買うのは気が引けた。

それで、すぐには買わなかったものの、結局、何週間か本屋に通い詰めてから、思い切って全集の第1巻を買ってみることにしたのだった。同じ内容でも全集で買うのはアリだと自分を納得させた。

意外なことに、というかある程度は予期していたのだから実際にはそれほど意外でもなかったのだが、それはまったく予想外に面白かった。なんでさっさと買わなかったのかとさえ思った。続けて全集の1-3巻に収録された主要なエッセイ集をすべて読んでしまっただけでなく、しばらくの間は、どこに行くにもかならず彼女の本を鞄に入れていたほどの入れ込みようだったのである。

これが年齢を重ねるということなのか、と思った。

もっとも、須賀敦子を好きになったからといって、彼女のように書けるわけでないのはもちろんである。彼女のように昔のことを回想できればどんなに素敵だろうか、とは思うのだけれど、できあがるのは、いつもこんなポンコツな文章ばかりである。


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