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「ガチャン」と砕ける大きな音?

ながさごだいすけ

夜、九時過ぎに、母が二階に上がってきた。母はいつも六時過ぎには寝てしまう。今日もそうだったので、何事かと思ったら、「いま、ガチャンとものすごい音がしたので何事かと思って見に来た」というのである。わたしは、ずっと読書をしていたので、大きな音がすれば気づいたはずだが、まったく音などしなかったので、そう言うと、母は不審そうな顔をしている。わたしがなにか隠しているのではないかと疑うときの顔である。「ガチャンも何も、ずっと静かな夜だったけど」というと、納得できないようすで、「じゃあ、こっち?」とカーテンの向こうを指さして言った。

カーテンの向こうは隣の家である。実家は古い商店街にあるので、家と家の距離が狭く、手を伸ばせば軒先に手が届きそうなほどであるから、夜中に誰かが出入りしたり、少し大きな声で話しているとすぐにわかるのである(さすがに内容は聞き取れない)。母は「外で誰かがガラスを割ったのかしら?」と言いながらもなお不審そうな顔をしている。よほどはっきり聞こえたようだが、一階で目が覚めるほどの音なら二階にいるわたしが気づかないはずはないから、どう考えてもそれは母の空耳であった。おそらく夢でもみたのだろう。母はリアルな夢を見た話をよくするので、今回もそのひとつだろう、とわたしは思った。

そういえば、六時過ぎに、いつものように母は夕飯代わりのビールを飲み、TVで新型コロナのニュースを見ているうちに、ふと思い出したように、うちにもワクチンの通知が来てたわ、と言い出したのをわたしは思い出した。「でもいつどこに行けばいいか書いてなかったねえ」というので、「自分で予約するんだよ」と大きな声で答えた。酔っているのではっきり言わないといけないと思ったからだが、知らない人がみたらまるで怒っているようだと言ってから気づいた。母は実際わたしに咎められたと感じたかもしれない、と思ったがいまさらどうにもならなかった。「1回目も2回目もそうしたでしょ」と同意を求めるように柔らかい口調で付け足すと、「1回目は、検診に行ったら言われたんだからねえ」と言い訳するように母は答えた。

その検診で月に1回通っている先生に認知症かもしれないと言われ、検査までされたのがよほどショックで、もう行かないと言い出してからまだ半年もたっていない。それ以後も検診の日の直前になるたびに行かないと言っては、結局行くことを繰り返していたのだから、先生にも母のその態度がなんとなく伝わっている、というのはいかにもありそうなことである。だから、先生も3回目のワクチンのことを言い出さないのかもしれない、とわたしは思ったが、まさか酔っている母にそんなことを言うわけにはいかなかった。

そんなことがあった後なので、ガチャンと音がした、というのは母の不快感が夢に出てきたのかもしれない、とわたしは思ったのだった。それはいかにもありそうな展開だったが、結局本当のところはわからずじまいだった。

妹も、その先生が嫌だという母の言葉を聞いているから、3回目のワクチンの話がでた時には、どこでもリストにある病院に電話すればすぐに予約できると説明し、リストを実際にみながら、近くの病院の名前を読み上げたりもして、母も駅に近いほうが良いかねえ、などと受け答えしていたのではなかったか。それはたしか三週間ほど前の土曜日のことで、母はそんなことも、もう忘れてしまったのだろう。

新型コロナで死亡者の中心が80代になっており、当然86歳の母には気掛かりなところで、いまさらながらにワクチン接種が気になりだしたというわけであるのは良いとして、そうやって「外でガチャンとものすごい音」のように妄想が出てくるのは困ったことだ、とわたしは思った。

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翌朝、朝食の席で、母は、今日コーラス会に行くと言い、そして(またしても)辞めてくると宣言した。(なんだ、やっぱりそうだったのか)とわたしは腑に落ちた気がした。そのことが気掛かりで昨夜はぐっすり眠ることができなかったのだろう、と思われたからである。ガチャンという大きな音はそれで説明がつきそうな気がした。

それにしても、他には一切社交的な活動を行っていないのに、それを辞める辞めないで何年にもわたって延々と揉め続けている母の本当の気持ちはどこにあるのだろう、といくら考えてみても、やっぱりわたしにはわからないのだった。


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