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公共圏とローカルキャリアの諸相

ローカルキャリアの探求と実践の先に何があるのか?

 本稿では、公共圏とローカルキャリアというテーマを考えてみたいと思います。CAREER FORプロジェクトでは、2019年より『ローカルキャリア白書』を年次発刊してきました。地域で自分らしく、豊かなキャリアを形成している実践者や有識者へのインタビュー、多様な人材を還流・育成していくために地域が構想すべき機能やエコシステムの分析、都市と地域で働くビジネスパーソン700人への意識調査などを通じて、地域に関わりながらキャリアを形成することの現在地と可能性を探究しています。

 “私たちは、みんなが「地域」に目を向けてくれたらいいなと思っています。それは、ひとりひとりがどんな社会に立っているのかを見ることができるからです。
 社会の課題や構造が見えやすいことももちろんありますが、目の前にある現実をただ嘆くのではなく、自らの意思と行動によって何とかしよう、という人たちがたくさんいるし、何よりもまず、それは、あたたかく人間らしい生き方なのです。自分が地域を、ひいては社会をつくっているという、確かな手触りがあります。
 私たちは、多様な個人が地域と関わりながら、自分らしい生き方を実現することのできる社会環境を整えていくこと、すなわち、ローカルキャリアの探求と実践の先に、「21世紀の公共」とも言えるような、新しい社会のありようが潜んでいるように感じています“
(『ローカルキャリア白書 2020』68ページより抜粋)

 昨年度に発刊した『ローカルキャリア白書 2020』のあとがきに、こんなことを書きました。個人目線のキャリア論が中心であった2019年版と比較すると、2020年版は地域の生態やまちづくりの視点をより包摂した内容になっています。当時、朧気ながらも感じていた、新たな公共圏の原イメージをどのように表現すべきか、編集チームと推敲を重ねたことを記憶しています。この“ローカルキャリアの探求と実践の先に、「21世紀の公共」とも言えるような、新しい社会のありようが潜んでいる”のではないかという問いに対して、思索を深め、その輪郭を示していくことに本稿の狙いがあります。

近代的公共圏の形成と崩壊

 ローカルキャリアと公共圏の連関を考えるにあたり、まずは公共圏そのものの変遷をみていきたいと思います。公共圏(public sphere)とは、人々が社会問題や政治経済について、あるいは、自身に何らかの関連を直接的・間接的に有する身のまわりの事柄について、自由に語り合い、影響を及ぼし合っていくような空間を表す言葉として認識されています。ハンナ・アーレントは古代ギリシャのアテナイにおける直接民主主義に、その原型を見い出し、市民たちが対等な立場から議論し、政治を動かしていく様を「公的領域」と名付けました。

 近代の公共圏を扱ったものとしては、ユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』が有名です。18世紀から19世紀にかけて、イギリスのコーヒーハウスやフランスのサロンには多様な市民たちが集い、様々な事柄を議論する空間が醸成されていきました。文芸に関する論評を契機としつつも、そのアジェンダは政治や経済問題をカバーしていくようになり、新聞への投書や草の根ベースの世論形成などを通じて、議会政治へ影響力を持つようになっていきます(「文芸的公共圏」から「政治的公共圏」への変遷)。こうした社交の場では、エスプリの効いたディスカッションスタイルが重んじられ、参加者の身分を超えた「理性的」コミュニケーションがなされていたとされます。ざっくり言えば、近代的公共圏の原イメージとは、喫茶店に集う粋な人たちによる対話と議会への影響力行使ともいえるでしょうか。

図表|publicsphere

 しかし、この近代的公共圏は次第に崩壊していきます。1つ目の理由は「市民の拡大」です。カール・マルクスが指摘したように、この時代に“市民”といわれた人たちは、教養と財産をもつ有産階級のみを指していました。「理性的」な議論を支えたのは、古典教養主義的な教育であり、有権者の数的制限であったのです。市民権の拡大による近代議会の荒廃を憂いたオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』からも、こうした社会的コンテクストを読み解くことができるでしょう。普通選挙を巡る戦いの歴史は古く、身分や性別等にかかわらず、みんなが同じ1票を持つことができるという社会通念は、多くの犠牲を払いながら市民社会が獲得してきたかけがえのない財産です。一方、政治主体の数的増加と教養の”バラつき”が、近代的公共圏に深刻な課題を突き付けたことも確かでした。

 2つ目の理由として「市民のクライアント化」が挙げられます。資本主義経済が急速に拡大し、マスメディアが台頭していく中で、メディアは権力の中枢と市民社会の公共圏をつなぐ媒体として、その役割が期待されました。しかし、政府や大きな資本を有する企業体の情報が優先的、かつ、連続的に流され、世論は“マネジメント”される対象へと変容していきます。同様の文脈から、行政の肥大化や専門化を指摘する声もあります。自由主義的経済論や財産保護が主な関心であった「夜警国家」時代と比較して、近代的行政機関の役割は比べものにならないほど大きく、専門化・高度化していきました。議会が細部までコントロールすることが物理的に難しくなり、世の中の仕組みづくりや意思決定を事実上、行政機関が担っていくということは、市民の政治参画や影響力の行使を弱体化・間接化し、単に行政サービスを享受する立ち位置としての市民像(“クライアント”としての市民)を涵養してきたというものです。

図表2|近代的公共圏の崩壊

日本社会における公共圏と市民像

 これらは主に西欧諸国における市民社会の形成プロセスを示すものであり、普遍的真理や共通するエッセンスはあるにせよ、日本社会の公共圏を考えていく上では、固有の歴史的背景・文脈を考慮する必要があります。日本の政治不信を研究した村山皓はこう述べています。

「日本人の政治不信は「あなたまかせ」の不信である。日本人の政治への不満は、民主政治に原因と結果があるのなら、原因を無視し結果の善し悪しで左右される。政治への国民の影響力が民主政治の原因とすれば、その影響力がないことへの不満は比較的重要ではない。むしろ結果としての国の政策や行為への不満のほうが重要である」

 上述した「市民のクライアント化」を想起させる指摘だと思いますし、日本政治思想の大家である丸山眞男は、戦後の早い時期に「日本は官僚と庶民だけで構成されていて、市民がいない」とノートに綴ったそうです。

 「大宅」すなわち「宮中」を語源とする「公(おおやけ)」という字は「お上」や「官」を指すことが多く、ラテン語の「publicus(人民)」を由来とする「public」という外来語に「公」という字があてられたこと自体に違和感を覚える人もいるかもしれません。

 戦前の国家主義の反動によって、戦後日本では「お上」である「公」よりも「私」の事柄が重要であるという風潮がつくられ、「公」は政治家と官僚に任せておけばよく、「普通の人」は基本的に「私」の世界に生きていればよいことになった。物質的な豊かさを求めるには「頑張って働けばよく」、自分たちの政治参画によって社会をよくしようという気運が高まることは少なかった、といった指摘の背景・要因には、列強諸国からの外圧や戦後情勢の変化によって、上からの近代化・民主化を急ピッチに成し遂げなければならなかった近代日本の歴史があるのだと理解しています。

ポスト近代的公共圏をめぐる試行錯誤

 ハーバーマスの描いた近代的公共圏の原イメージを、現代の日本社会に馴染む形で、どのようにアップデートしていくのか。これは本稿の根底にある問題意識であり、冒頭に引用した「新しい社会のありよう」に連なる問いでもあります。

 国内では、1990年代以降の中央集権から地方分権へという流れに呼応する形で、公共圏や市民社会の捉え直しともいえるような議論がなされてきました。1998年に制定された「特定非営利活動促進法(NPO法)」はその1つの象徴であり、これまで任意団体として活動を行っていた市民活動団体に法人格を与え、活動の社会的認知や信用を高めていこうというものです。2009年に政権交代を果たした民主党政権では、「新しい公共」という理念が掲げられ、寄付税制の見直しや休眠預金の活用など、新しい公共の基盤を支えるための制度設計が検討されました。

 これらは、「お上」や「官」によって独占されてきた公的領域の営みを、より多様な主体や手法によって担っていくことで、持続可能で納得性の高い意思決定や社会デザインを実現していこうという試みだと解釈することができます。民主党の政権交代については様々な意見がありますが、少なくとも、この「新しい公共」という理念の浸透と土壌づくりに向けた試行においては、日本の近代的公共圏の議論を一歩前に進めたものであったと考えています。

 こうした議論の高まりの背景には、少子高齢化や人口減少、長引く経済不況等に起因する“利益の分配から負担の分配へ”とも称される政治的役割の変容、個々人や地域社会におけるニーズの多様化・分化、“誰にとっても普遍的である、大きな物語を喪失した世界”とも称されるポストモダン社会の到来など、幾つもの要因が挙げられます。

 そして、今日に至るまで、テクノロジーの進化や私たちの価値観の変化とともに、「シビック・テック」、「ガバメント・リレーションズ」、「討論型世論調査」、「デジタル・デモクラシー」、「コレクティブ・インパクト」、「リビング・ラボ」など、新たな統治の仕組みや、まちづくりの考え方・手法を試行錯誤しきているわけですが、これらは、ポスト・ハーバーマス的公共圏をめぐる探究であると解釈することもできるでしょう。

公共圏とローカルキャリアの連関

 ローカルキャリアの話に戻ります。改めて整理をすると、本稿の根底意識は、現代社会において、新たな公共圏はどのように形成されうるのか、新たな公共圏を担う市民の意識や能力はどのように醸成されうるのか、という点にあります。この問いに連関する、ローカルキャリアの探究と実践の先にある可能性の輪郭について、2つの視点から初期考察を述べます。

 1つ目の視点は、「ローカルキャリア力と市民像の連関」です。「ローカルキャリア白書2020」では、ローカルキャリアを経験することによって得られる力を9分類27項目にまとめています。「多様性を肌感覚で理解する力」「地域や組織のルールを理解する力」「足元を耕す力」「信頼し合える関係をつくる力」「価値を発見する力」「はじめてを怖がらない力」「事業を組み立てる力」「リソースを活用する力」「最後までやりきる力」といった、地域に関わることで育むことのできる能力は、公共圏を形成する“市民像”に求められる能力に親和性が高いのではないかという仮説です。

ローカルキャリア力診断表

 “ローカルキャリアがキャリア足ることを証明する”という立ち位置から制作をスタートした経緯もあり、ローカルキャリア白書には、全体を通じて、都市部のビジネスパーソンの働き方・生き方と、地域のそれらを対比する形で議論を深めてきた側面があります。コミュニティが現存する地域の方が、人と人とのつながりや対話を通じて、生活や仕事を形成していく機会が多いというのは目新しい言説ではないかもしれませんが、地域での経験を個々人の自由なキャリアデザインや人生設計の1つの過程として捉えるという点において、その今日的意義を持ちうるものだと考えています。

 市民社会論を研究する中谷真憲は『公共論の再構築』の中で「近代の公共性とは、個人が公に参加をして、はじめて鍛えられるもの」であると述べています。公共性や公共圏が、そこに“ある”ものではなく、手探りながらも自分たちの手によって“つくる”ものだとすれば、自身の相対的な役割やフィードバックが大きく、身近な問題から社会の解像度を上げながら、仕事と暮らしを融和していくローカルキャリアの経験は、その原イメージに近いものがあるのではないでしょうか。

 2つ目の視点は、「価値の多元化と自由の連関」についてです。ローカルキャリアの議論の中に“都落ちをアップデートする”というものがあります。都落ちとは一般的には、“都にいられなくなって、地方へ逃げ出すこと”を表すフレーズですが、この解釈を反転し、“自分のやりたいことや気持ちを押し込め、都から抜け出せないこと”を新たな都落ちであると指摘するものです。これは少し過大な表現かもしれませんが、都市と比較した、地域に対する仕事や暮らしの価値観はこの10年で大きく変容してきたように思います。

 総務省が2009年に開始した「地域おこし協力隊」制度は、令和元年度には全国1,000以上の自治体が5,000名を超える協力隊の受け入れを行うまでに拡大してきました。2011年に起きた東日本大震災では、一時的な災害支援活動にとどまらず、中長期目線で地域活動や事業構想に挑戦する若い世代や移住者たちの活躍が、東北3県を中心にローカルイノベーションを牽引してきた経過があります。

 マクロで見たときに、地方から都市圏への人材流出には歯止めが掛かっていないとの指摘もありますが、2015年より内閣府がリードしてきた「まち・ひと・しごと創生(地方創生)」により、都市部から地方都市や中山間地域等への多様な人的移動を促す多様なプロジェクトに一定の資源投下がなされ、地域内外の良質な交流や共創によって、無数の小さな物語が各地方において育まれてきたことも確かです。

 『自由について 七つの問答』の中で丸山は、福沢諭吉を引用し、社会の価値が多元的だから自由の心は生ずる。あれもいいし、これもいい。自分の決めたやりたいことをやればいい。他者と異なる自分を肯定する意識が自由・自立の気風を生みだす、と主張しています。

 幕藩体制では価値が多元的であり、“至尊必ずしも至強ならず、至強必ずしも至尊ならず”(偉い人が必ずしも強いわけではなく、強い人が必ずしも偉いわけではない、天皇と将軍の関係性を念頭においたもの)な社会であり、“士農工商”ではもっとも経済的便益を得ることのできた商人が一番下に位置付けられている。一方、明治政府においては、あらゆる価値が天皇のもとへ、官員のもとへ集約され、同質化的な“国民”を育成するに心血が注がれた。すなわち、明治維新とは明治政府への価値の一元化であったのだ、というのが彼の指摘でした。自らの意思と行動によって市民社会を形成する、自立した個人一人ひとりのあり方を模索し続けた丸山の思索は、今もなお、私たちに本質的な問いを投げかけているように思います。

 そして、価値の多元化が自由の源泉であるならば、都落ちをアップデートし、ローカルキャリアがキャリア足ることを証明していくという、その探究そのものが、新たな公共圏の担い手や社会の共有価値である自由の気風に帰結していくという可能性を包摂していると、考えることもできるでしょう。

図表3|初期考察

 いま世界では、新型コロナウィルスは“great equalizer”となり得るのかという議論がなされています。リモートワークやデジタル化の浸透によって、地方にいながらも都市部の良質な教育機会や生産性の高い仕事にアクセスできるようになってきており、こうした流れは不可逆的にもみえます。これらを働く場所と暮らす場所が遊離し、個々人が自由にライフスタイルを選択しうる時代の萌芽と認識しつつ、ローカルキャリアの定義やその可能性を改めて再考していきたいと思います。そして、新しい公共圏をめぐる思索とともに、ローカルキャリアの探求と実践の先にある、持続可能な地域社会を見い出していきたいと思います。

著者プロフィール

石井 重成 Kazunori Ishii / 青森大学 准教授

 国際基督教大学を卒業後、経営コンサルティング会社を経て、東日本大震災を機に岩手県釜石市へ移住。復興支援活動や多様な官民パートナーシップを手掛け、市の地方創生戦略を統括。コミュニティの撹拌を通じた地域イノベーション創出に取り組む。
 2021年4月より青森大学へ拠点を移し、自治体・中間支援団体・企業の事業組織開発や人材育成を支援。産・官・学の3領域を越境し、カタリスト(触媒)として、地域社会の持続可能な発展に貢献していくことを目指す。一般社団法人地域・人材共創機構代表理事、一般社団法人明和観光商社共創フェロー、総務省地域情報化アドバイザー、内閣官房シェアリングエコノミー伝道師、各種有識者会議委員等。1986年愛知県西尾市生まれ。

参考文献

中岡成文『ハーバーマス―コミュニケーション行為』講談社、1996年
間宮陽介『丸山眞男―日本近代における公と私』筑摩書房、1999年
j.ハーバーマス著、三島憲一訳『近代未完のプロジェクト』岩波書店、2000年
斎藤純一『公共性』岩波書店、2000年
片岡寛光『公共の哲学』早稲田大学出版、2002年
村山皓『日本の民主政の文化的特徴』晃洋書房、2003年
アントニオ・ネグリ、マイケルハート著、幾島幸子訳『マルチチュード(上)』日本放送出版協会、2005年
丸山眞男『自由について―7つの問答』SURE、2005年
アントニオ・ネグリ、マイケルハート著、水嶋一憲、清水知子訳『叛逆 マルチチュードの民主主義宣言』NHK出版、2013年
クリスティアン・ボルフ著、庄司信訳『ニクラスルーマン入門』、2014年
大澤真幸『社会学史』講談社、2019年
中谷真憲・東郷和彦編『公共論の再構築―時間/空間/主体』藤原書店、2020年

関連動画(ローカルキャリア研究所)

 2021年のローカルキャリア研究所において、本稿の関連動画が掲載されています。関心のある方はぜひご覧ください。


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