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10年後、148㎝からの眺め

子供が二人いる。
両方男子で9歳と5歳だ。


9歳の長男は低身長だ。
同じ年齢の平均身長と比べると10センチ以上低い。

(長男122㎝、男子平均134.9㎝)

まだ9歳でしょ?これから伸びるよ。
という意見もある。

私もそう思った。

この話は、親である私が長男の将来の身長を平均以上にするのか、低いままで成長を止めてしまうのか。決断を迫られたときに感じたこと、考えたこと、苦悩したことを思いのまま綴っている。

先に述べておくが結論としては私は我が子の低身長に対しては特別に何も対処はしていない。しているといえば、運動をしっかりさせることと栄養をきちんと摂らせることだ。

※この話の経緯の部分は飛ばしていただいても、興味がある方はぜひ「我が子の人生を決める」から読んでほしい。

親の幸せ

親になることは子供が産まれて新たに家族が増えるということ。

親は子供ができたことで幸せを感じられる。
それは第一子、二子に限らず。
私も約10年前と6年前にこれまでとは比べられない、いわば理屈を越えた幸福感に包まれたのを覚えている。

正直言うと妻のおなかの中にいるときはまだ実感がなかった。
「本当におれが親になるの?」とばかりに思ってた。

そんな無責任でバカげた考えは一瞬で吹き飛ぶ。

「オンギャー  オンギャー  オンギャー」

漫画でもそんな表現しないだろうけど、はっきりそう泣き叫び、私の前に現れた赤ん坊は自分そっくりの眉毛!!

まさか!?と思いながらゆっくり抱き上げると、小さな顔をクシャクシャさせながらこちらを見てくる目の上に自分と同じ形の眉毛!

言葉では言い表すことができない幸福感。定義はできないが幸福と感じることができた。

人の幸せ

しかしながら、子供は産まれた瞬間には当然幸福を感じることはない。それどころか、この親の子供になれたから幸せだと感じるまでにはまだまだ長い時間を要する。
もしかしたら、親がこの世を去るときにようやく感じるのかもしれない。

親にとっては子供の存在自体が幸福と感じることもあるが、子供にとっては親の存在自体で幸福を感じるとも限らないのだろう。

幸せ感の違い

幸せとはなんだろう?

多くの人が幸せになりたいと願い、他人の幸せと比較して自分の幸福度を図ろうとする。。

幸せとは相対的なものでしかないのだろうか。ならば、不幸だと思う人がいて初めてもう一方が幸せかどうかが決まることになる。

では、何が幸せを感じさせるのか?

お金?

権力?

美形の交際相手?

経験人数?

美味しい食事の時間?友達の数?Facebookのいいね!数?休みの日数?睡眠時間?成功体験?受験合格?オリンピックでメダル?

あるいは身長が平均の171cm以上であること?

我が子の人生を決める

私の長男は低身長と医師に診断された。

親である私たちは幼稚園入園当初から我が子が他の子供よりも低かったのは認識していた。そのうち伸びると考えていたので心配はしていなかった。

医師から言われたのは自分では今まで考えなかった言葉だった。

「息子さんは低身長症です。最終身長はおそらく145-148cmでしょう」と。

私の反応は医師が期待していたそれとは異なったのだと思う。

「はい。それで?」と言葉だけ聞いても何が問題なのかつかめずにいた。

医師との話の多くは省くが、結論として

「成長ホルモン剤を投与するかどうか」という選択を迫られた。

つまり長男の最終身長を148㎝程度の可能性のままにしておく。
それとも平均身長程度まで伸びるかどうかもわからないが、伸びる可能性にかけて成長ホルモン剤を投与するかどうか。
※今回は金銭面などについては省くが、この点についても色々と話題がある

青春を謳歌できる年齢で彼は148㎝。

好きな女性もでき、仲間もいるだろう。その中で彼はどのように立ち振る舞い、自分をどのように認識しているのだろう。

あるいは小学生、中学生、高校生の間でいじめに背が低いことをからかわれ、いじめの対象にならないか。

だったら成長ホルモン剤を投与することで解消できるではないか。

ただ、ただ。。。私の中ではどうしてもぬぐい切れない疑問があった。

「背が低いことは本当に不幸なのか?」

この低身長の話題と向き合うようになり、ずっとひたすらに考えてきたことだ。
実は私自身も決して大きくはない。166.8㎝だ。
それでも私は決して不幸と思ってはいない。もちろん欲はある。
170㎝程度あれば。というない物ねだりだ。

これはあくまで私の価値観で彼のものではない。たとえ自分の子供であっても、感覚的な、自分が大人になってからの価値観を押し付けることはしたくはない。
ただ、彼はまだ子供で毎日成長ホルモン剤を注射で投与することがどのようなことなのか、背が低いことが幸か不幸かなど選ばせることを酷に思う。

私は彼と話し、夫婦で成長ホルモン剤を投与しないと、医師に断りを告げた。
医師は「意外だ。」という表情だった。

選んだ生き方

私は低身長が幸か不幸かだけを気にしたわけではない。

低身長は病気なのか?体に悪害があるのか?

という点。

医師が言うには、成長ホルモンが出ないということで見ればやはり問題はあると。専門的にはわからないが代謝にかかわるリスクがあるそう。

そのため、長男は成長ホルモンの分泌が出ていない病気かどうかを調べてもらうことにした。

結果としては分泌はされていた。検査的にひっかる数値の手前だった。
検査は毎年しているが、毎年同じように人よりも少ないが、検査に引っかからない程度に分泌されている。

正直安堵した。病気ではない。体が苦しい思いをするわけではない。
そのことに、ただ安堵した。

私は長男に成長ホルモン剤を投与して、医療の力で成長を促すことをしなかった。

彼は将来私を恨むだろうか。

少なくともこの決断をして4年が経つが、背が低いことで悩んでいる様子もない。まして友達ができず、いじめられているような様子もない。学校は楽しんでいる。友達もたくさんいる。

私は薬を投与しないという決断はしたが、それでもまだ背が低いことは不幸なのか?という問いに答えはだせていない。

世の中には148㎝以下の大人もたくさんいる。悩まれている方、苦しまれている方もいるだろう。逆に何とも思っていない方、そして何かしらで成功を収めた方もいる。
どの人も自分の特性を活かしたり、活かしきれなかったり。

私は彼に自分の特性を理解し活かすことを望む。

確かに将来の選択の幅は削られたものはある。
例えばネットで調べただけだが、力士や消防士、警察官、航空自衛隊などは
最終身長148㎝ではなることができない。

その限られた中でどう生きるのか、彼自身が決める自由をもっている。

親として役割

私は今この時、noteにこの文章を綴っている。

長男は今、私の目の前で夏休みの宿題をしている。
いや正しくは宿題をするのが面倒になっている。彼はこういう時決まって、椅子の上で倒立している。

まっすぐ足を高らかと挙げ、きれいな倒立をしている。

そう長男は曲芸師に!なっているわけではなく、器械体操を本格的にやっている。

これは彼が自分で決めたこと。体操選手になる!といつごろからか言い始めた。週5日、1日3~4時間のトレーニングを休まずに取り組んでいる。

体が小さくても活躍できることは何だろうと、夫婦で話して体操を始めさせた。オリンピック選手になってほしいわけではなく、できることを増やし、共通の目的をもった仲間をつくり、彼が作る自分の人生を生きてほしい。

体操が必ずしも身長が低いことで有利とは限らない。身長が低くても活躍されている方が多くいることは確か。

私が考える親の役割は、挑戦の環境を提供することだ。
彼ら自身が何かやりたいと思ったときに、自主性を尊重してやりたい。

それが私のするべきことであり、ある意味で罪滅ぼしだ。
親の考えで低身長に対する対策を施さなかった。

子供にはたくましく挑戦的に、人にやさしくおごらず生きていく。そのような人物であってほしい。

さいごに

身長が低いかもしれない。ということから始まった、自分のことではない苦悩。何事もなく幸せな人生を歩んでほしい一方で、相対的に決まってしまう幸せの価値観に戸惑うことも知っている。
自分にとっての幸せ感と人の幸せ感は異なると気づき、そしていつか大切な人ができたときに、その人の幸せ感を一緒に感じてほしい。自分の幸せ感を押し付けず、相手を思いやり、自分の幸せ感をさらに磨いてほしい。

彼の見る世界は、きっと148㎝からでも眺めは悪くないはずだ。

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