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【小説】空洞

「自分が優しくすれば、周りも優しくしてくれる……」
「もう、落ちたくないの。だから、勉強する」

金髪の少女と、僕はカウンター仕様になった机越しに話している。
いや、話を聞いているといった方が正しいだろう。
僕は小さな塾で働いている。生徒は中学生が1学年10人ほどで、講師は僕を含めて2人。
目の前にいる少女は、去年の秋、彗星のごとく現れた。
ギャルというか、ヤンキーというか、そんな雰囲気を持ち合わせた当時中学3年生の彼女を見て、少し怖気づいていた僕がいたのは事実だ。
「一緒にいる友達がいるの。高校だけじゃなくて、バイトも一緒で。でも、中学も一緒だったけど、そのときはひとことも話してないの」
22時を過ぎ、子どもたちはみな帰った教室で、少女は1人残っていた。
卒業生は、高校生になってもたまに勉強しに来てくれる。そして、なぜかは分からないが、中学生よりも遅く帰る風潮がある。
たまたま講師1人の日だったから、塾に残っているのは僕と少女の2人だけだ。
「中学のときに話さなかったのは、ソリが合わなかったからだと思う。だから、今さら仲良くするのは難しいのかもって思う。だって、認めないんだもん」
少女の名は彩里と言う。
入塾後の彼女は寡黙な印象だった。いや、常にふてくされているといった様子だろうか。
とにかく、気軽に話すような雰囲気ではなかったし、猫背気味でいつも同じ席に座り、やたらと理科のプリントを熱心に暗記していた。
「学校で、その友達が提出物があって、職員室までついていったのね。そしたら、その子は先生のこと呼ばないの。ずっと黙ってるから彩里が呼んであげたのね。そしたら、他の先生に出さなきゃいけないって言われてて、大橋先生って知ってる?って聞かれてたの。そしたら、うんって言って職員室を出たの。そのあと聞いたら、大橋先生のこと知らないんだって、ヤバくない?」
彼女が友達に振り回されている感覚や、はっきりとした主張ができる自分と対照的な人物を理解しがたい様子がありありと伝わってくる。
他方で、僕は「それは腹立つな」と全面的に同調してよいものかと悩んだ。経験上、親友やパートナーといった近しい人間の愚痴は、その人物の良さを再確認したくて話している場合もある。返答に困っていると、彩里が話を続けてくれる。
「なんで知らないのに頷いたの?って聞いたら、彩里はあの状況で聞けるのって逆ギレされて。彩里、聞けるよって返したの。そしたら黙っちゃって。結局その友達は、ちょっと経って、職員室の別の先生に大橋先生が誰か聞きに行ってたのね。……どうせやるなら最初からやれし」
少女が前回、塾に来たのは秋口のことだった。高校での定期テストがあったのだろう。ピンクの髪をしており、綺麗に発色していた。今、目の前に座る彼女は金髪で、桃色のときと同様に艶が良かった。
「でもね、あんまり言うと泣くの。彩里の言い方、強いし。友達のプライドが高いのと、彩里の言い方が合わさって、良くないの」
少女は、高校生になったら自由に生きたいと言っていた。ピアスを開け、髪を染めたいとも言っていた。てっきりピアスは耳に開けるのだと思い込んでいたが、鼻と口にも開けていた。僕の周りには耳以外にピアスを開ける人物が身近にいなかったから、正直呆気にとられていたが、身なりが自由な学校に受かったのだから、周りのみんなもそんな感じなんだろうとも思っていた。
「高校生になって、周りに人が増えたなって感じてるの。それは、彩里が変わったからなの。自分が優しくすれば、周りも優しくしてくれる……だから、その友達にも優しくした方がいいんじゃないかなって。だから、中学のときみたいに言い過ぎないようにしてるの」
口ピアスは異様に目を引く存在だ。唇の下に並ぶ二つの小さな銀は、母音がウの言葉を話すたびにくっつくような気がして、ついつい見入ってしまう。そんな僕の視線を察したのだろうか。少女が話し始める。
「彩里の高校でも、口ピアスを付けている人は珍しくて、結構周りに言われるの。自由な学校なんだし、ほっとけばいいじゃんって思うんだけど。……彩里ね、もう、人間的に落ちていきたくないの。だから、勉強する」
会話がもう少し続いた気がする。意味もなくパソコンに視線を落としていたが画面上の文字は僕の前では意味を成しておらず、ぼんやりと少女の話を聞いていた。
ふいに彩里のスマホがブーブーと振動する。
「あ、ママからだ」
といって彩里はその場でスマートフォンを耳に当てる。
「いま、塾。……先生と話している。うん。はい」
うさぎのキーホルダーがついた重そうなスマートフォンを置いた。
「ママがもう帰って来いって」
そう言って、帰り支度を始める。時刻は22時40分を回っている。こういう助言を素直に聞くあたり、見た目のヤンキーっぽさとギャップあるよなあと改めて僕は思った。
彩里がぬいぐるみのついた茶色のスクールバックを持ち上げ、まさにいま帰ろうという状況になってようやく、僕の口は開いた。
「彩里自体の良さを分かってくれる人はいると思うよ。たしかに、自分の思うところを全部そのまま伝えると、周りから人は減っていくかもね。でもさ、自分を演じることで周りに人が集まってきても、ずっと自分を演じ続けて生きることになると思う。難しいけど、自分を殺しすぎないでほしいなと思ってる。……また、勉強しにおいでね」
もう帰るという段階になって、ようやく僕はまともに口を開いた。
「うん……さよなら」
少女は、スクールバックを右肩に担ぎ、優しく扉を引いて、帰っていった。

3日後、彩里が塾に現れた。
口の下の銀は、小さな2つの空洞に変わっている。

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