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ブレーキとアクセル。

自分が「これだ!」と思うものを見つけてから、それに向かって突き進んでいく速度がものすごいらしい。らしいというか、たぶん他の人とそれを比べたら、そうなんだと思う。

だから、そう。主には趣味において、俺はここに骨をうずめると決めてから、たぶん生活のほとんどをそこにベットしちゃう気がする。「俺はこれと共に生きる」とまず自らを定義する。そしてそのためにあらゆるリソースをそれに割く。で、気付いたら生活が破綻している。なんだこれ。

衝突するまで進む

このnoteでは何度も出てくる「やるかやらないかはやってから考える」というのは自分の中で座右の銘のようなものだった。何年もの間。で、今となっては確かに、なかなか経験しないような出来事が色々起きたし、恥も晒したし、自分の中の尖っていた部分が人付き合いの中で徐々に丸くなった。だから、その点ではよかったと思っている。思い立ったら計画を立てて行動できるし、環境全てを変えてしまう。だからこそ、その紆余曲折から得られたものは沢山あった。

ただ、周りの人が心底うらやましく思うこともある。

端的に自分を表現すると「破滅型」だと思う。主には、簡単にリスクが取れちゃうところ。自分や生活を犠牲にしても、もう、あんまり痛みだと思ってない。むしろあらゆるものを犠牲にして得られる喜びでないと満足できない、もしくは全てを賭けて生まれる結果を求めたがる。だから、全部をベットしてそこで生きるか死ぬか。もしベットするものがなければ無味無臭の生活を送るか。極端すぎる。

でも周りの人の話を聞く分には、人はそんなに簡単に生きるか死ぬかの世界に突入しない。「趣味においてそこまで思い悩むことがない」とも言われた。

自分はアクセルを踏んだら踏みっぱなしのまま、衝突するまで進んでしまう。で、進む速度が上がっていってむしろ自分の精神が追い付いてないことがある。だから途中で、打ちあがったロケットのように自分の精神は切り離されているのだが、身体や習慣がすごい速度で進んでて、いやいや、それ全然持続可能じゃないのにってなって、やがて痛い目を見てその道を捨てる。

でも、周りの人は普通に苦労せずともアクセルを踏みすぎないように調節できるらしい。ブレーキの使い方も上手い。自分には無理だ。アクセルを踏むか、最初から踏まないか。

「そこまで夢中になれるものがあるなんて羨ましい」とも言われた。確かにそうだ。自分だってこれに全てを賭けると思えたものは数少ない。あらゆる趣味にリソースを分散させられた方が健康的とまで思う。でも、とりあえず飛び込んでみたけど、琴線に触れないものも多かった。だからだろうか、「これだ!」と思ったものについてそれを逃したくないと思うから、全力で進むのか。

真っ当な人生

18歳の時、家庭の事情もあり、高卒後すぐに進学できなさそうなので、実家に住んだまま適当にフリーターになって、金を貯めたら進学しようと考えていた。ただ、中学はまともに登校した期間の方が短くて、そこからほぼ通信制のような高校へ進学したので、まともな人生は送れないんだなと諦めていた。

フリーター生活の2か月目くらいで、Twitterで「朝から晩まで働いて何も楽しくない」と呟いたら、県外の友達(高校の音楽仲間)から「こっちに来て一緒にバンドやろうよ」と返ってきた。そのとき、衝動的に「バンドで生きていきたい」と決心して、その日のうちに親に「鹿児島に住む」と言った。職場を辞めることを社長に告げたあと、1ヶ月もしないうちに実家から1000km離れた土地に住んでいた。

それが自分の価値観をぶっ壊した要因だと思う。最初はその友達の家に居候した。でも、家賃の半分払う約束を守れなくて2か月でホームレスになった。大学のバンドサークルに入れてもらってて、友達はできたから、7人いたら1週間のローテーションを組めるなと思って、毎日違う部屋で寝た。大学でパイプ椅子並べて寝たこともある。で、なんだかんだ働かないとヤバいから、ルームシェアできるだけの稼ぎはギリギリ得て、先輩と2人で部屋を借りた。あとは曲作ってバンドしてバイトしてダラダラ過ごした。

だからもう、ある程度「正しい人生」を放棄しても1人で生きていけるんだって思っちゃってるから、思考のベースがそうなっちゃってる。そこから、あまりにも周りの人間と比べて自分に欠落しているものが多すぎることに気付いて、早く人間になりたいと思って生きてきた。で、かなり回り道したけど、5年くらい経ってバンドとフリーターを辞めて正社員になった。やっと社会に擬態できた感覚。

でも、もう、どこかの時点で(半分くらい中学に行ってないし)普通の、真っ当に教育を受けて、真っ当に受験して、真っ当に就活して云々みたいな人生は諦めたから、どうなってもいいやと思ったのだと思う。いや、どうなってもいいことはなくて、ちゃんと自分をぞんざいに扱っただけのダメージは食らっている。だから基本的に生活は、意識してないとぐちゃぐちゃになってしまう。無茶をしても変に生きてこれちゃってるから、派手なことをしたがる。羽目を外すのは楽しいけど持続可能じゃない。後先を考えてない。生活が難しくなる。そんな感じで、一度レールを外れてから、他の人が意識せずとも逸脱しないでいられる"正常の"範囲に収まることが困難になった気がする。レールの外側を知らなければ、もっと生きやすかったんだろうなとも思う。

へんなの

極端な言い方をすると、俺からしたら周りの人は変な人達ばかりだ。価値観や習慣や考えていることが全く違う。話をしてもまったく嚙み合わないこともある。逆から見ると、俺のことを見て、変な人だと認識される。言われる。

自分が真っ当に生きていて悩むことを、他の人はまったく問題としていなくて、逆に、他の人が真剣に悩んでいることは、自分が全然気にしてなかったり、とうの昔を思い出して「そんな時期もあったなぁ」と思うことだったりする。

最近、価値観が全然違う人達とたくさん会っていたから、──それはそれで楽しく興味深く思うのだが──共通点がなさすぎるために、自分が本当に変な人なんじゃないかと思い始めて不安になった。それで、自分には何が足りないのかという視点でものごとを見ていたけど、いよいよ頭がおかしくなる。もう、こうやって人間が作られちゃってるんだったら、客観的な良し悪しや善悪で糾されても、じゃあ明日から変わりますというのは現実的じゃない。ただ自分が否定されたと感じて自己嫌悪に陥る。でも良し悪しなんて存在しない。結果論で、この特性だから失敗したこともあれば、成果を挙げたこともある。だから、どうでなきゃいけないなんてことは存在しない。

他人に対してもそう。変な人だなとか、個性的だなとか思う人が沢山いるけど、その人なりに生きてきて、時々の課題にぶち当たって、苦労してきて、それでその人格が存在しているのだから、自分の物差しでは測れない。一部を見ただけで分かった気になっても実際は到底理解できない。俺がいくらその人を変だと思っても、その人の中では至極真っ当な生き方だったりする。

どんなに自分が変な人だったとしても、それを捨てることはできないから、そのままの自分で進んでいくしかない。気に入らないことがあっても、それは1日では変えられないから、毎日ミリ単位でもいいから努力して、数か月後・数年後の自分を勝ち取るしかない。だから、今の自分の状況に絶望しなくていい。自分のままでうまいことやっていくしかない。自分を嫌っている暇はない。