2024年6月のまとめ
短い人生の中で爆速で過ぎ去って行った2024年6月のことを色々書いておかないと忘れそう。
趣味と承認欲求の関係
こんなにSNSを触ってない時期もない。オタクになる以前、5年ぶりぐらいかもしれない。しかもこんなに人と連絡を取ってない時期もないから、そのぶん本当に自分に(否応なく)向き合っているような気がする。
6月に入ってSNSからログアウトした。その理由の一つには、SNSを断ったら自分がどうなるのか気になる、というのがあった(今こうして記事を書いているnoteがSNSに含まれるかはさておき)。人間というのはソーシャルな生き物であるから、あらゆる行動の動機に他者の存在が絡んでくる。でも自分の場合はそれに心奪われすぎて主体性がなくなってしまったと感じていた。褒められなくても好きでいられるものって何?
で、まぁ1ヶ月離れてみた段階で言うと、承認欲求というものをあまり感じなくなったと思う。
それでも日常の様々な場面で「これ、あの人に教えてあげたい」「写真撮って送りたい」とか、湧いてくるのはSNSの癖かもしれないけど、やってないので、結局誰にも見せないし、自分がそれをまんま感じ取るだけだし、それを繰り返してたら見せたい気持ちは湧いてこなくなった。うーん、ただもっと広い意味で、他者の存在があったからモチベーションにして頑張ったこともたくさんあったなと感じるから、これはこれで生活が味気ないとは思う。
ただ結果的に、趣味と承認欲求(と所属欲求)が一度分離されたのはよいことだったと思う。アイドルのファンコミュニティから離れたら、繋ぎとめておくものがないからアイドルに興味がなくなるのかなと思ったら、そんなことはなかった。今までは、他者とつながるための共通言語(ある意味必須の言語)としてアイドルが存在していたから、なんていうか主従が逆になったり、好きな気持ちを見失いがちだったりしたけど、他人と共有しなくてもアイドルが好きなんだと思えたのは収穫だった。
後述するけど、3週間前、つばきファクトリーのコンサートに行ったのだけど、それから曲がずっと脳内再生されるので、おととい、何の気なしに「2nd STEP」というアルバムを再生した。車を運転しながら聞いた。どれも名曲だけど、「抱きしめられてみたい」を久しぶりに聞いたらものすごい感情になった。好みのメランコリーな曲調、切ない歌詞、素晴らしい歌唱。めちゃくちゃ心がぎゅーってなって感情が動かされている自分がいる。で、家に帰って、サボりまくってたギターを引っ張り出してコードをさらってみる。ヤバイ、めちゃくちゃ綺麗なコード進行。すごい、純粋に趣味してるって感じ。
自分は楽曲厨なんだなと分かった。曲が狂おしく好きだという気持ちが原点だったし、それがアイデンティティだったなということを思い出した。
どんなに灰色の世界でも自分が好きと思えるものが存在することに感謝したいし、それがたまたま何だったとしても大事に育てたいと思った。
自分を受け入れたい
いつだって可能性の中で生きている。「これがこうだったらなぁ」と。違う自分だったらよりよい人生だったんじゃないかと。だけど心の奥底では、この考え方ではキリがないと感じていて、そろそろ自分以外になることを諦めようと思っている。良い意味で。常に自分の中から自分を追い出そうとするのは疲れる。
優れたものを持っていることよりも、あまり優れていない自分でも胸を張って生きていけることのほうが尊いのではないかと思い始めた。いまでも、手元にないものが欲しい。だけどそれが手に入ったところで欲求は膨らんで新しい何かが欲しくなるから、そこに満足や幸せはないような気もしている。だから、残酷だけど現実の自分を直視しまくっている。何で地元に愛着が湧かないんだろうとか、何で今の仕事が好きじゃないんだろうとか。それらをいつか受け入れられるなら、実はそんなに多くのものや金額が必要だと思えない。もっと生活に溢れる不便を愛することもできるはず。(不便益という言葉もあるし)
フォロワーが「『自分』には下限も上限もない」と言っていたのが今も忘れられない。自分は自分でしかないという意味だと思う。現実の自分と理想の自分とパズルのピースの形が違うっていう、そもそもそんな不幸なことがあるだろうか。
アイドルのライブ
6月10日のつばきファクトリーと6月19日のアンジュルムのライブに行った。SNS辞めて在宅オタクになろうと決める前に取ったチケット(と休み)だから、これで一区切りという気持ちで向かった。いや~~~なんだかんだライブって本当にすごい。釘付けになった。
話変わるけど、ネットで情報を得るのはデパ地下のつまみ食いのようなものだ、と本で読んだ。読書をすればそれとは違う感覚を得られる。まず、読み切るまで数時間の集中を要する。そして、そもそもの問いに対する端的な回答だけではなく、体系的な前提知識や、思いがけない有用な情報(セレンディピティ)も目に入る。というような理由で、読書は、便利なネット検索よりも能動的な「体験」になるから、記憶として定着しやすいらしい。
まさにライブも同じようなことが言えて、ただ同じ曲を5分間視聴するのにも、YouTubeを開いて動画を探して見るのと、ライブ会場に移動して、知り合いに会って、入場して、会場が暗くなって、1曲目からのセットリストの流れを経て曲が流れて、ペンライトを振るというのは全然話が変わってくる。それは実物が目の前にいるかの違いもあるし当然そうなのだけど、久しぶりにライブ会場の熱狂に触れて改めて、自分がなぜライブに通っていたのかを思い出した。何事にも代えがたい「体験」だった。
2ヶ月くらい前に、『「推し」の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か』という本を読んだのだが、興味深い実験が紹介されていた。
アニメ「あしたのジョー」を、それを初めて見る大学生たちの前で再生し、ペンライトを振りながら見てもらったあと、各キャラクターの好み、魅力度、強さを評価させるというものだ。結果は、ペンライトを振っていたときに活躍していたキャラクターだけ、応援している自覚がなくても、魅力度が突出して高く感じられる、というものだった。これは「身体性認知」という言葉で説明できて、要するに身体の感覚を伴って処理される情報と、身体を伴わない受動的な情報とでは、脳のはたらきが変わってくるということらしい。
他にも、6人に分けたグループにゲーム大会を大型モニターで見てもらい、「親しい友人と見る/知人程度の人と見る」「小道具を振って応援する/何も持たない」「観客同士の会話あり/なし」など条件の変化で楽しさの評価にどう違いが出るかという実験があり、親しい仲間と応援行動をした場合が最も楽しさが高く評価されたという結果が出ていた。対象への働きかけの違いで、魅力の感じ方が変わるらしい。
2年前、少し気になったアイドルの大箱に勢いで2DAYS参戦したことがあったのだが、タイムラインの誰かが「〇〇のライブはペンライトなくてもいけるね」と言ってたのを鵜吞みにして手ぶらで参加したら、やっぱこれ絶対ペンライト要るやんけ~~と手持無沙汰になってしまったのを思い出した。当然、「1人で見る」「ペンライト持ってない」「声援を送らない(コロナ禍)」の3要素をコンプリートしていたのは今思い返すとそうだったので、今あの頃に戻れるなら絶対詳しい人と連番でペンライト振ると思う。
話戻るけど、アイドルのコンサートに行くのは7か月ぶりだった。去年の11月以来だった。それまで毎週のように遠征していたから燃え尽きてて、ちょっといったん現場は休もうっていう時期を経て、気付いたら7か月空いてた。だから、会場周辺にオタクがたくさんいるのを見てビビってしまった。電車の中から、改札から、駅周辺の商業施設から、どこに行ってもグッズのTシャツの人たちがいて、なんか、すごいビビってしまった。で、何故か分かんないけど自分もその人たちに仲間意識・連帯意識を持ち始めて、リュックにキーホルダーを付けて、さりげなくアピールしながら歩いた。人間はやはりソーシャルな生き物なのだな。
ライブについては、本当によかった。どちらもメンバーの卒業コンサートだった。
誰かの投稿で「アイドルは『知らないとつまらない』ものになってしまうが、だからこそ『なんだか知らんがクソ楽しい』ということが至高の価値を持つ」みたいな文章を読んでそれがめちゃくちゃ刺さっていたので、敢えて、日付が近付いても何も予習しないで行った。近頃全然アイドルの曲は聞いてなくて、SNSも見てないから、直近の供給や新曲すら何も分かってないで行ったけど、それでも終始とても心動かされた。
何か特筆するなら、アンジュルムの終盤の「旅立ちの春が来た」は本当に卑怯だった……。泣いた……。卒業メンバーの心境とリンクした歌詞だし、それを選曲したこと自体もそうだし、自分が高校卒業するときに出た曲だったから、18歳当時の自分が呼び起こされたり、ああ、俺はこの曲は一生聞き続けるんだろうなと思うと、俺が帰ってくる場所はいつでもアンジュルム(スマイレージ)なんだって思ったりして、自分のアイデンティティを強く感じた。
あとつばきファクトリーの方では卒業・引退する新沼希空さんが「私がオバさんになっても」を卒業曲としてカバーしていたのだが、アイドルがアイドルでいられる時間とその尊さ、そして当たり前は当たり前ではなくて常に変化していくことをその歌詞から痛感して、非常に哲学的なことを考えさせられたし、憎い選曲だなと思った。
ライブが終わった瞬間からずっとこの一日のことを思い返していた。現場に行く予定が今後ないことが分かっているからだ。なんていうか今の職場と家を往復するだけの日常に存在してないものが全部そこにあったような気がしていた。県外に行くのが好き。都会にいるのが好き。趣味を共有できる人がいるし、一緒にはしゃいでくれる人がいるし。何より心を掴んで離さない音楽がある。その日のことだけじゃなくて、現場に通っていたここ数年の青春の日々のことも何度もフラッシュバックする。自分はそういう刺激的な暮らしを心から好んでいたのだなと、離れようとしているからこそ深く理解した。
今置かれている状況と、好ましいと思える環境がどうしてこんなに乖離しているのか理解できない。社会の、時代の、自らの選択の、何が原因なのか。それは今後も向き合って消化しないといけない課題だなと思う。
こんなに楽しいことって最近他にあったかなぁと考え始めると、いよいよ人生って何なんだろうという、それはそれで難しい感情が沸き起こる。でもそうなんじゃなくて、自分がそうやって喜びを得られるものがこの世界にあって、そういうコンテンツにアクセスできる時代に感謝したいね、っていう、肯定的なマインドを後から呼び起こしてやっと今テンションが均衡していられる感じ。
あとはこれは本当にびっくりしたことだけど、誰とも連絡とらないでフォロワー10人くらいに会った。いや、連番相手以外誰とも会えないつもりでいたのに、男子トイレの列でナチュラル連番したり、終演後の人混みで真正面からすれ違ったり、あと会場周辺にたむろしてるグループが普通に知ってる人たちだったりする。こちらに気付いてくれて、心配の声や優しい言葉をもらったし、すれ違いざまハグしてきた人もいた。自分が自分を卑下し続けているのが馬鹿らしいくらい、人の優しさに触れた。本当に感謝してるし、自分がSNSに戻ってきたら引き続きこの関係を大事にしたいなと思った。
アンチインターネット
Jelly StarというAndroidスマホに替えた。Amazonで33,000円。これは本当に良い。なぜなら画面が小さいのでネットサーフィンする気にも動画を見る気にもならない。画面が3.03インチだと、ギリギリキーボード入力できるかなレベルで、集中しないと打ち間違う。隙があればスマホに手が伸びていたが、この端末だとあらゆる作業に不便を感じるのでそれが減った。本当に必要な時しか触らない。色んなアプリの不必要な通知もメールの通知すらも切ったし、通知ランプがあるからそれが光ってなければ触ることがなくなった。
横浜アリーナまで鈍行で3時間かけて移動したのだが、スマホが小さすぎて何も見る気にならず、窓の外を眺めるしかなかった。でも、なんか、ただ景色だけを見て過ごす昼下がり、嫌いじゃない。
外に出てると、自転車を漕ぎながらスマホいじってる学生、若者、年配者などが最近やたらに目について、世の中に違和感を覚える。インターネットのない時代に戻りたいっていうのは半分冗談で半分本気だけど、ギリギリ小学校中学校にスマホがない時代を生きて、SNSなしの人間関係を経験したことがあるのは本当に良かったなと思う。幼少期からスマホ漬けで生きてたら自分でいられる自信がない。今はSNSを使わずに友達たくさん!みたいな生き方をどうやって選べばいいか分からない時代になっているし、地方ではなおさら(オフラインで)同世代と仲良くなる難易度が上がりまくっている。
(本当に支障が出ている)
代替行動
問題を感じる行為があったとして、それを繰り返すのをやめたいと思い立ったとき、やみくもにそれを辞めればいいというものではなくて、代わりになる行動を用意しないといけないなと思った。6月に入ってSNSをやめたのだが、やめただけで代わりに打ち込むものが何もなかったので、とてつもない空虚を感じた。娯楽を断った禁断症状のせいか、全方位に対してなーんにもやる気も起きなかったというのもあって、ソファーの上でぼーっとしているだけの時間が結構あった。1ヶ月経ってようやく、やめるだけじゃだめなんだと思って、ついに、色々行動しようという前向きな気持ちになった。
最近読んだ本
6月頭に「生き方はニーチェに聴け!」という本を半分くらい読んで、それなりに満足して以来、本を読むどころじゃないぼーっとした精神状態になり、最近やっと落ち着いたので「スマホ脳」を読み始めて今4割くらい。
読みたい本はたくさんあるけど、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という本が話題になっているように、冊数を重ねるにはやはり多少は自己規律が必要だから、読書を趣味のひとつにする生活にまたアジャストしていけたらいいなと思っている。