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梅雨明け

「気象庁は今日、関東甲信越の梅雨が明けたと発表しました」
 いつもの食堂でカレーを食べているとき、テレビの中のいつものキャスターが言った。画面を見なくてもあの派手な眼鏡のキャスターの声だとわかる。そしてその声が聞こえるということは昼休みがそろそろ終わるということだ。急いでカレーの残りをかき込んで六百円を払って食堂を出ると、店の中に押し戻されそうな強い陽射しに襲われた。店の中が薄暗かったせいで一瞬明るさに目がくらんだ。会社までは徒歩一分もかからないが、半分も歩かないうちに汗がふき出した。昼飯をカレーにしたのは間違いだった。
「梅雨が明けたらしいですね」
 オフィスに戻るとスマホをいじりながら後輩の津野が言った。
「らしいね」
 俺はハンカチで汗を拭きながら答えた。まだ六月なのに梅雨明けか。
「でもいつ梅雨入りしてたんでしたっけ」
「ん?」
 津野の言葉で初めて気づいたが、そういえば今年梅雨に入ったというニュースは記憶になかった。六月に入ってからじめじめと曇った日が続き、時おり雨も降っていたので梅雨明けのニュースにも違和感を覚えなかったが、ネットで検索しても梅雨入りの話題は見つからなかった。
「梅雨がなくなったか」
「みたいですね」
 津野はもうスマホを置いて仕事のパソコンに向かっていた。
 思い返してみると、ここ数年の間梅雨はどんどん短くなっていた。あまり意識したことはなかったが、例年梅雨入りが遅くなり、梅雨明けが早くなっていたのだ。
 そして今年とうとう梅雨入りをせずに梅雨明けがやってきた。
 梅雨が明けると当然ながら真夏になった。
 梅雨がないということは、毎日スーツで通勤をする我々サラリーマンにはありがたいことだったが、そう思ったのはほんの束の間のことだった。その日の夕方、さっそくダムの水位が異常に下がっていて、このままでは早々に渇水で取水制限が必要になるだろうというニュースが流れた。
 次の日もその次の日も晴天で気温はフライパンのようにぐんぐん上がった。六月の末とはとても思えない気候だ。
 子供たちは夏休みを待たずプールに殺到し、町ではビールやアイスが飛ぶように売れた。
 七月に入ると熱中症で倒れる人が増えてきた。病院に運ばれる人は後を絶たず、その多くは年寄りだったが、そのうち駅や街中でもうずくまったり日陰で横になるサラリーマンを目にするようになってきた。今年の野菜や果物の収穫は壊滅的になるだろうというニュースも流れた。夕方になると毎日のように夕立は降ったが、短時間の雨は交通を麻痺させるだけでダムや農作物の足しにはならず、上がった後にサウナのような熱気をもたらすだけだった。
 七月の二週目にさしかかったころ、食堂で冷やし中華を食べていると、あのキャスターの声が聞こえた。
「気象庁は今日、関東地方の梅雨入りを発表しました」
 見なくてもわかるキャスターの声だが、俺はテレビの画面を見上げた。週間天気予報には傘のマークが並んでいた。
「ひゃー降られた降られた」
 そう言って入ってきた客が開けた入口から店の外を見ると、オフィス街はどんよりと暗く、雨が降っているようだった。当然俺も傘は持っていない。会社まで濡れて帰るしかなさそうだ。
 残りの冷やし中華を食べながら俺はぼんやり考えた。梅雨がなくなったとばかり思っていたが、それなら梅雨明けもないはずだ。どうやら梅雨はなくなったのではなく、梅雨入りの前に梅雨明けが来ただけだったのだろう。年々遅くなった梅雨入りと早くなった梅雨明けが今年ついに逆転したのだ。ということは、梅雨明けの後に梅雨入りがくることは当然だ。
 天気予報のとおり、その日から毎日雨は降り続いた。ダムの水位も数日で満水となり、その後も増え続けた。今年はもう梅雨明けは来ないだろう。それはおそらく来年の六月まで続く、長い長い梅雨の始まりだった。

(2019年6月29日発行)

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