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『海のない島』つづき

   


三、



 わたしは、かれこれ三日ばかりずっとこそばされているような気がする。
 さて、三代目のゲーテッドコミュニティ構想は構想だけに終わり、結局リゾートゾーンが誕生しました。誕生は少し語弊があるかも知れませんね。この《島》のリゾートゾーンのルーツは、昭和初期にまで遡るので。三姉妹の曽祖父が開業したホテルは、今のリゾートゾーンではなく屋外設備ゾーンの方にありました。もっとも、当時はまだそのような区分け自体されていませんでした。だからもう、周囲は草ぼうぼうです。
 それは、荒れ放題の遊休地の中に突然姿を現しました。御影石を贅沢に使って建てられたレトロモダンな佇まいは、さぞ場違いだったことでしょう。仰る通り、場違いでちょっとおかしい感じは、この《島》の伝統だと言って良いかも知れません。
 更に遡ると、一族は庄屋の家系なんです。キリコランドの大部分は江戸時代は未だ田んぼでした。小作農がいなくなって以来長らく放置されたままだったんでしょう。それを埋め立てて、と言ってもほんの一部に過ぎなかった訳ですが、きれいに整地してこじんまりした牧場と厩舎を望む位置に瀟洒な西洋風のホテルを建てた。で、誰が来たのか。乗馬仲間が定期的に集まったり、暇なときに一人で訪れのんびり、あるいは納得いくまで馬術の腕を磨いたりできる拠点がほしい。開業の動機はそんな感じで、会員制でこそありませんでしたが、実質、親しい仲間内だけのクラブハウスみたいなものだったようです。メンバーは曽祖父の学友とその親兄弟などで、中には日清だったか日露だったか戦争で手柄を立てた元勲て言うんですか? その筋で有名なセレブリティの方もいらっしゃったようです。地元の大学とのつながりもその頃からのものです。創業者自身卒業生で、馬術部の創設メンバーの一人でもありました。そんな経緯もあって、今でも毎年夏合宿が行われています。
 所詮は金持ちの道楽? あるいは、そうかも知れません。でも、それってそんなにいけないことなんでしょうか。少し誤解があるようなので、予めお断りしておきたいのですが、いえ、お客様がそうだという話ではありません。広く一般的に言えることです。およそこの世で人気を得ているか、少なくともそれを購入した顧客に相応の満足を提供し評価されている製品やサービスは、必ずしもニーズ(またはウォンツ)ありきで生まれた訳じゃない。考えてもみてください。屋外へのケータリングサービスを可能にしたのは、公園のベンチで休んでいるとき突然ピザ食いてぇとか言い出したいじましい人のニーズですか。普通にテクノロジーとデバイスでしょう。
 創業者の息子、即ち三姉妹の祖父が後を継いで二代目オーナーになってから、経営状態の方はジリ貧だったようです。それでも二代目は、これといった手を打つことはありませんでした。いざとなれば広大な土地を切り売りしながら生きて行けば良いや、ぐらいに考えていたんでしょうか。いえ、わたしの想像に過ぎません。目立った業績を残していない二代目に関するエピソードは、公表された資料の中にほとんど見当たらないんです。彼の手腕を高く評価する人も、少数ながらいることはいます。昭和末期に加熱することになるバブル景気の到来を見越して土地を手放さなかったのだから、二代目には先見の明があったか、少なくとも天性の博才のようなものがあったのだと。でも、我々の業界でも、そういうことはあまり大っぴらに言うもんじゃないといった雰囲気がありまして……。単に重大な判断を先送りして逃げていただけだろう、という評価が多数派です。
 現代的な意味での土地活用を初めて真剣に考え、企業グループとしての体裁を現在の形にしたのは優柔不断な二代目の息子、即ち三姉妹の父親です。それ以前は活用どころか、まずは土地を没収されないようにすることが先決だったでしょうから。たまたまそういう時代を生きることになっただけの話じゃないかと言う人もいますがそれはともかく、三代目は自らホテルのオーナーとして前面に出るのではなく、長女を支配人の座に据えました。英断だったと思います。長男との確執については、この間も少し触れましたよね。今日は、そのへんのエピソードを一つ紹介しましょう。

「田んぼを埋め立てた土地を宅地、しかも高級住宅地にだって?」
 父親が描いているらしい青写真を知って、彼は呆れ果てたということに、一応なっています。当時は、田んぼを埋め立てた土地は宅地に向かないというのが常識でしたので。もちろん、昔の話です。地盤を強くする方法はいくらでもあるし、実は、当時からありました。イメージだって、開発が進めばそれなりに変わります。ですので、長男の言い分は反対せんがために無理矢理ひねり出した口実、もっと言うなら言いがかりに近いような気もします。そうそう、梅田がもともと《埋田》だったことをご存じですか? あまりにもイメージが悪過ぎるというので、後から《梅》の字を当てたんだそうです。江戸時代、大阪の繁華街と言えば日本橋(ニホンバシじゃなくてニッポンバシね)、ミナミは当時から賑やかだった訳ですが、その頃のキタは大部分が田んぼでした。
 ところで、乗馬倶楽部というか馬術部の面々は誰も遠出というか決まったコースから外れることがなく敷地内散策なんかする者は一人もいなかったそうです。馬は農耕など労働を担う動物ではありませんので、いや、あれ? どうだったかな。とにかく、乗馬用の馬は緩い地盤が苦手です。特に、天気の良くない日は。馬は立ったまま眠ることで知られています。逆に、脚を折るなどして立てなくなったらおしまい……でしたよね? まあ、そんな感じでみなさん、馬がぬかるみに足を取られて転倒するといった事故を警戒されてたんでしょう。それほどまでに、かつて田んぼだったというだけで、価値の低い土地と見做された訳です。
 ちなみに、ごく最近になって、これら《元》田んぼの一部が復活しました。他の用途に転用されたのではなく《田んぼ》として復活してるんです。
でも、栽培されているのは山田錦。うるち米ではなく酒米です。日本酒を《島》の名物にしようというのも、三姉妹の父親の発案であり、切子島酒造は、そのときに設立された会社です。他所から仕入れて、《島》で瓶詰めし、体裁だけそれらしくといったやり方ではなく、酒米から《島》で作って、《島》で醸造する。杜氏も何人か引き抜きました。いや、引き抜いたは語弊がありますね。別に、他社の従業員をヘッドハンティングした訳ではないので。彼らは、言ってみればフリーランスだったんです。切子島酒造に入社するまでは。ええ、《霧濃島》酒造ではなく《切子島》酒造です。リゾートゾーンのホテルでは、島のほまれ、でしたっけ? 違ったかな。とにかく、このお酒、次女のフジコさんの工房で作られた切子硝子の酒器でサーブされるんです。もちろん、土産物コーナーには、お酒も、酒器も、どちらも並んでいます。
 更にです。杜氏の話に戻りましょう。杜氏というのは、もともとフリーランスの季節労働者でした。それを、ご家族で《島》へいらっしゃいませんか、定住なさいませんか、と家付きで呼び寄せたんです。物件はご覧になられましたか。ええ、一般向けにも売り出されています。興味おありですか。 もちろん、喜んでご案内させていただきますが……お奨めかと訊かれると、正直、少し微妙ですね。土地にも建物にも何ら問題はないんですが、コミュニティとしては未だ実験中、いや、これから実験を始めようかって段階なんですよ。一九六〇年代にニュータウンの実験が行われたように。いえ、まあそんな大げさなものでもありません。コミュニティと言っても、数戸から成るミニ集落が幾つか集まったごく小規模のものですが、そこは《都会の真ん中に村社会を作ってみるテスト》の舞台でもあるんです。戸数が少ないが故の濃密な人間関係がもたらす息苦しさや、静かな環境故のセキュリティ上の不安をいかに解消するか。
 杜氏の話でしたね。呼び寄せられたのが何人だったか、詳しいことは今ちょっとわからないんですが、四、五人かな。ともかく、複数人いたことは確かです。そして、その中の最年長者が、切子島酒造の社長という訳です。彼らは何と、会社そのものまで任された。斬新なやり方です。もちろん、杜氏は経営については素人です。そこで三代目は、実質経営者のアドバイザーを任命しました。ちなみに経理部長には、当時某銀行を退職されたばかりの、三代目の学友が就任しています。


 誰も泳いでいない通称《プール》サイドに沿って先細りの道の真ん中を歩きながら、阿保見隊員は前方の空を見上げている。白濁した空には、硬い筆を素早く動かして描いたようなガサガサした雲が浮かんでいる。雲だけではなく、透明度が低いせいか今日は空全体がいつもより平面的に見える。
「まるで巨大なドーム天井に描かれた絵画のようだ」
 そう思いはじめると、低い位置の樹々も、遠くに見えるビル群も、大聖堂の壁画に見えてくる。
「この世界は、良くも悪くも、一続きの巨大宗教画に過ぎない」
 そう声に出したのと同時に、背後からヘルメットを被った屋外設備ゾーンのスタッフらしい人が近づいて来たので、慌てて黒い無線機を握る。途端に、至近距離から先輩隊員の声が
「何だ? 俺はここにいるから、無線ではなく直接言ってくれ」
 慌てて一八〇度向き直り敬礼したところ
「馬鹿野郎! ここをどこだと思っとる」
「はっ、すみません」
「大きな声を出すんじゃない。それから、その大仰な動作もご法度な」
 何を怒鳴られたのかわからないまま反射的に謝る阿保見の傍らを、作業着にヘルメットのスタッフが、薄笑いを浮かべながら通り過ぎていく。女性だった。名前は知らない。今まさに、新しいやり方で憶えようとしているところだった。

「注意深く観察して一人ひとりの特徴を見つけ、顔と名前を早く一致させること」
 先輩からアドバイスを受けて、阿保見はまず髪型に着目してみることにした。スキンヘッドのあの人、クセっ毛のあの人……。ところが、冬になったある日、全員揃ってニット帽を被ってやって来た。まだある。いつもツバ広のハットでピンクの日傘を差している女性スタッフの場合、曇った日には彼が目印にしていたいつものハットを被っておらず、日傘も差してなかったので、誰だかわからなかった。
「まるで俺の人生そのものだ」
 阿保見は、自嘲的に独りごちる。
 要領が悪い上に何かとついてない自分もそうだが、世界の見え方が周回遅れの同僚がたまに見せる憤慨っぷりもまた悲しく、少し笑えた。

「誤進入です。対応お願いします。……スマホに夢中の若者がぼさーっと歩いて行きやがりました」
「ぼーっと歩いて行ったんなら注意して止めてくださいよ、何言ってんですか」
「いや、だからSNSたらですか、没頭してるから注意してもまるで聞こえてない」
「だったら、何でもっと声張って警告しないんですか」
「いや、イヤホンしてたんで。どーせ爆音でロックでもかけてるんでしょうよ。俺の警告なんか無視ですわ」
 自分の持ち場に差し掛かった青年を止めて確認すると、スマホの画面に表示されていたのはSNSではなく地図アプリ、聴いていたのは爆音のロックではなくナビ音声だった。
「すみません。これ、構内道路やったんですね。一般道として表示されてたんで、気がつきませんでした」
「見分けつきにくくてご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします……やれやれ、ベタなネタみたいに妙なストレスの多い職場だ」
と、そのときの阿保見も、また独り言。
 見学を終えた小学一年生の一行が、こちらを向いて敬礼してから帰って行く。その姿に、ささくれ立った心が少しばかり和むのを感じた。

 華やかに見せる警備と、静かに気づかれないように行う警備。そのうち、見せる警備は大きく二つに分かれる。
「何らかの目的で隙あらば不法侵入を狙っている連中に対して、ここは難しそうだと思わせる。これが一つ。だがな……」
と説明は続く。
「リゾートゾーンで楽しんでいる客にとっては、警備もアトラクションの一部なんだよ」
 さて、機密情報満載のゾーンでは、やはり静かに、気づかれないように警備を行うことが重要になる。だから、本当は制服も思いっきり機能性重視と割り切った方が良いのだ。それが先輩隊員の考え方だった。
「いっそ光学迷彩にしたら良いと俺は思うよ。ま、そういうことだから、その敬礼とよく通る声はリゾートゾーン用に取っておけ。それはそうと、今日も昼はコンビニのサンドイッチか。あんなもんばっかり食っとったら、しまいにさんかくのクソが出るぞ」
 それ痛そうですね俺嫌だなあ、とよくわからないリアクションをしながら、阿保見は自分の背景がとんでもないことになっているのに気づいた。コンクリート製の二十五メートルプールが、茶色い水を湛えたまま宙に浮かんでいる。そして、それ以上に驚いたのは、先輩隊員の表情に何ら変化が見られないこと。この光景が目に映っていないんだろうか? 世界の裂け目で、彼は、あまり関係のない度忘れに気づいた。岩石が宙に浮かんでいるシュルレアリスムの名作は、誰の作品だったか……。非常勤とは言え、これでは美術教師失格だ。静かに凹む男の背中を夕日が照りつけていた。

 阿保見隊員は、手渡された茶封筒を勢い良く開封。中の紙を取り出して広げた瞬間、怒りで頬が強張る。

《研修のご案内/ださい阿保見様の研修日程は下記の通りです/※遅刻厳禁》
 何だこれ。折れ目を伸ばして拡げると、
《研修のご案内/ご確認の上必ずご出席ください阿保見様の研修日程は下記の通りです/※遅刻厳禁》
 ああ、授業の日と被ってる。金曜は出られないとお伝えした筈ですが……。すぐさま本社宛てに抗議のメールを送信。ほどなくして、至急再調整する旨の返信が届いたが謝罪の言葉はなかった。
 結局、研修はオンラインを含む候補の中から、どれでも好きな日時を選んで受講すれば良いことになった。ただし、本番の前日だけは、《研修》ではなく《リハーサル》なので、全員必ず参加するようにとのこと。

 教官の歩みが、自分の正面で止まる。
「アボミさん、結局クリーニングには出さなかったのですね」
 先輩と通じてやがったのか! 驚くとともに、しどろもどろになる阿保見。何か返さなければと焦るほどに舌がもつれ、言葉にならず。
「明日は、これに履き替えてください」
 新品のスラックスが支給される。綿も麻も混じっていないらしいツルツルの化繊生地は、履き心地はどうだか知らないが、なるほど汚れにくいに違いなく。直近の課題のその先まで、短か過ぎる注意力の射程を延ばすべく、彼はトレーニング中だった。


 ハナザカリくんがその日初めて音を出したとき、サックスの朝顔の部分から音符の形をした煤のようなものが舞い上がったという、まあ、それだけと言えばそれだけの話なんだが、一つ付け加えると、ハナザカリくんが盛大に舞い上げたまっくろくろすけは、見える者にしか見えなかったらしい。訳がわからない? 僕も同じだったよ。ともかく、ハナザカリくんに話を聴くことができた。聴いたこと《だけ》をお伝えしよう。
 ハナザカリくんが言うには、しばらく前からサキソホンの朝顔に棲みついていた小人たちは、その日、ジャズクラブが営業を始める時刻になっても全員ぐっすり眠ったままだったので、疲れている彼らを起こすに忍びなかったのだと。
「何でそんな疲れとったん」
「何でも」
「何で誤魔化す」
「コビトにだって個人情報はあるやろ」
 で、ここからは僕の仮説または妄想みたいなもんだと思って軽く流してほしい。信じる信じないは自由だし、見える人と見えない人がいるように、わかる人とわからない人がいるのは、どうしようもないことだから。ちなみにハナザカリくんはその日、実はワンセット目の冒頭からちゃんと吹いていたそうだ。僕には聴こえなかったけど、本人曰く
「そういう吹き方」
をしたのだと。リニアに進行する時間は、ここで二つに分かれたと言える。一方の世界/時間の中では、ハナザカリくんが構えた楽器の中で、小人たちが眠っている。もう一方の世界/時間の中では、ハナザカリくんが演奏する楽器の朝顔から、音符に扮した小人たちが未知の世界へ飛び立つ。前者の世界では、小人/音符は何の不服もなく楽譜という二次元世界に幽閉されているが、後者の世界において音符/煤は、それが読める人にも読めない人にも、平等にシェアされる。ハナザカリくんが描いたイメージは、だいたいそんな感じだったんじゃないかな。今回は果たせなかったけど、それでも惜しいとこまでいったと思う。
 話しながら僕は、朝顔の中の小人が世界を育てるのか、城崎出身の小人が朝顔を育てるのか、すっかりわからなくなっていた。(長崎にて)

 ハナザカリくんの話は、いつも何だかわかったようなわからないような話だが、代表の話にも似たところがあった。ただ、ハナザカリくんがおそらく天然なのに対して、代表のはワザとやってると思える節があって。ハナザカリくんが、演奏を通じて見たものや感じたことをそのまま喋っているとしたら、代表のは、銀行の担当者との融資条件やなんかの交渉を通じて体得した一種の話術なんだと思う。いわゆるハッタリや単純な大風呂敷とは違うんだけど、話のスケールが大き過ぎてついていけない。泥粋和尚によると
「人間は真偽のわからなさに平然と耐えられるよう、更に修行を積む必要がある」
そうだけど、冗談なのか本気なのかわからない場面がときどきあって、代表はそれを《矢追純一の定理》で説明する。
「真偽のわからなさ加減は、話の大きさに比例する」
んだそうだ。
 伝説のUFOディレクター矢追純一氏は、要するに古き良き時代(てのはいつでも《今》の後方それほど遠くないところにある時間の残響音のようなもので、ざっくりカラオケのエコーといっしょ)のテレビマンで、一九七〇年代、不況下で力なく俯いている人たちに何とか顔を上げてもらえるような企画はないかと。代表はそんな話をしてくれたけど、どうなんだろう。僕は、後付けじゃないかと思う。まあ、そのへん本当のことは確かめようがないけど、ある一線を越えて話を大きくしてしまえば、嘘だか本当だかわからなくなる。と言うより、嘘とか本当とか、そんな小さいことはどうでも良くなる。
「どこまで延びても永久に交わることのない二本の直線なんて、現実にはあり得ない。でも、冷笑的にそう言ってる本人が、平行という概念を当たり前のように受け入れてるよな」

 でも、無闇に話を大きくしさえすれば良いというものでもないらしい。代表が言うには
「現実的なセコい話」
を少しだけ混ぜるのがコツなんだそう。人造イクラの場合だと、実験用の試験管を洗うブラシは百均で買ってます。とかね。
 もっとも、このブラシの話に限っては、代表にしては珍しく(かな?)大失敗のようだった。何がマズかったかって、その黒くて柔らかい特殊なブラシは、百均ショップどころか日本中どこを探しても見つからない珍しいシロモノだったから即座に疑われ、
「あれ? あっ、最近このタイプに変えたとこなんですよ。だから、しばらく前までは……ですねっ」
 その品は、何でも代表しか知り得ない希少なルートを通じて少量ずつ入手している大変に貴重なブラシだったそうで。ある日、いくらぐらいで仕入れているのかと尋ねたところ
「そう、だなあ……。三本組でえーと、三フラワーと五〇バッツか」
 果たして、それが高いのか安いのか、日本円で言ってもらわないとピンと来ない。でも、それは無理な相談だった。と言うのも、その国(どこの国なんか知らんけど)では、自国の地域通貨を他国の法定通貨と兌換することは固く禁じられていたから。と、代表は言った。
 ちなみに後でわかったことだが、彼の言う《その国》が存在したのは、震災前の神戸三ノ宮フラワーロード界隈らしい。

 さて、僕は、キリコランドには都合三回行ったことがある。一回目は、こないだ話したラボゾーンにあるサトミさんの研究室を訪ねた。二回目は、屋外設備ゾーンを歩いた。三回目は、つい先日のセレモニーなんやけどそれはまた追って話すとして。今日はその前、二回目のキリコランドの話。

「またおいでよ」
のお言葉に甘えて、僕は屋外設備ゾーンへ。
 ご存じの通り、ラボゾーンと屋外設備ゾーンはどちらも三女のサトミさんが統括する区画だ。白衣の時間も、作業服の時間も等しく重要だと言うあの人らしい二つの役割。サトミさんは炎天下に、背中側、左右の腰のあたりに内部へ風を送るファンの付いた(僕は、その仕組みを知らなかった)ジャケットを着て案内してくれた。実は、最初とんでもないものが届いたので仕方なく買い直した一着なんだそうで。
「ファン付きのジャケットが欲しい」
 スタッフにそう言って頼んだところ、届いたのは襟の部分にラビットファーをあしらってあるレザージャケットだったそうだ。
「ンなもん現場に着て行けるかつーの。素直に空調服って言っとけば良かったよ」
 その空調服を着たサトミさんの先導で、屋外設備ゾーンのメインストリートを歩いた。傾きかけた太陽が左手に見えていたから、たぶん、北へ向かって。この暑いのに、何でそんなモコモコしたジャケットを着ているのか。冷え性なんか? 僕は思わず、暑くないんですかと訊いてしまった。
「着てみますぅ」
 ジャケットの膨らみは羽毛ではなく、背中のファンが送り込む空気のせいだった。なるほど、やっと理解できました。
「どうです、見張られる気分は」
 ギョッとして振り向くと、悪戯っぽい笑顔の背景に白い研究棟が見えた。最上階にサトミさんの研究室がある。確かに、あの窓からだと、こっちの動きは手に取るように把握することができるだろう。てか、この配置案もサトミさんだったんですね。
「いいえ、父の発案です。仰る通りメインストリートが見渡せるのは素晴らしいんですけど……」
 ですけど?
「父は、パノプティコンとか言ってました。世代的に仕方ないのかなとは思うんだけど、刑務所がランドプランの原型なんて、どうなんですかね」
 おそらくそんなことまで考える人はいないだろうし、お父様にとってのパノプティコンだって、単純に展望の利く設計ぐらいの感じで、それ以外の意味なんて、特になかったんじゃないでしょうか。ポケットの中の風力切替スイッチをカチャカチャやりながら、僕はそんな意味の返事をした。と思う。それにしても、空調服の割には冷房も除湿もなくて、送風だけなのは少し残念だな。
「贅沢言いますね。もしかして、注文した料理の出てくるのが遅かったりするとイラついてクレーム入れたりするタイプですか」
 ンなこと言える訳ないじゃないですか。うちの人造イクラは、注文を受けてサーブするどころか、開発段階で遅れまくってるんですから。


 馬刺しでよう冷えたライスワインやりたい気分ですわ。えーと、そうそう、ちょっと立ち入ったことというか、答えたくなければ無視してもらってええんですけど、そんなんほんま困りますわ! とか、勘弁してくれ! とか、こんなもん俺にやらすなよ! みたいなん、ぶっちゃけ思たことってありますか。もしあるんなら、そういうときは、どんな対応したらええんでしょう。

 そうそう、あと、海外からのVIPおもてなし用に何かないですかね。人造イクラと馬刺し以外で。何なんかな。セレモニーらしく縁起の良いトラディショナルな駄洒落要求されてんのかな。めでタイとかよろコンブみたいな。はあ、そのへんはいろいろですね。だからナンギな訳ですけど、商用つーか出張つーかビジネスで来る人、遊びに来る人、知人頼って戦火を逃れて来る人もおるし。そんな事情もあって、政治的立ち位置つーかそのへんについても無言のただし明確なメッセージを込めたい、などと仰る。まあ、わがままはクライアント様の特権ですからね。

 雨は降っていない。日も射していない。曇っている。いや、曇っているのか単に空気が汚れているのか容易に判別できないような空模様で。気分が晴れないのは雨のせいだと思っていたけど、やはり違うらしい。荷造りの進捗は、はかばかしくなかったが、ロフトの蒸し暑さはややましになっている。
 今日の段ボール箱からは、高さ二〇センチ直径一〇センチほどの円筒形の広口瓶が出てきた。傾けると、中の白っぽく乾いた砂が無音でサラサラ滑らかに崩れていく。星砂? 顔を近づけてガラス越しに確認したが、一つひとつの砂粒に突起はなく。てことは、鳴き砂なんだ。キュッキュと鳴る音を聴いてみたくなったが、すぐに諦める。それをするには、どう考えても砂の量が少な過ぎたからだ。ロフトの床面にばら撒かれた砂を、素足で踏みしめるシーンをイメージしようとするが、うまくいかない。あしくさ! 音楽でも流そうと私は、もらいもののスピーカーに話しかける。特に何が聴きたい訳でもなかったので、結局何もリクエストしなかった。
 ガラス瓶の中の鳴かない鳴き砂を眺めながら私は、ぼんやりとしか憶えていない二十世紀の広告コピーを想起する。テレビで見たホームランよりスタジアムで見逃したホームランの方がリアルだとか、確かそんな話だったと思う。何の広告だったかは思い出せなかった。
 
 馬刺し? それホント、キリコランドではヤメといた方が良いと思うよ。何でって、あすこの客筋には乗馬愛好家が多いからね。こんなもん俺にやらすなよみたいな案件か。仕事なくなったら嫌やから今動いてるのについては言わんけど、やっぱりあるよそりゃ。
 お化け屋敷というか、そういうゲームの世界をリアルに再現した脱出ものだったんだけど、まずは、そのゲームをプレイしたことがない人のためにも世界観というか状況の設定とルール説明をしてあげないといけない。後は諸々の注意事項、場内禁煙とか歩きながらの飲食は駄目とか写真撮影は固くお断りしますとか。それを普通にアナウンスしたんじゃつまらないから、隊員の口調でやってくれということで。そう、隊員。何の隊員だかよくわからないまま原稿でっち上げたけど。諸君、今回の我々のミッションは……とか言って、いきなり居丈高な口調ではじめる。まあ、ゲームの中の登場人物になり切ってやる訳だからルール説明のあたりは何とかなったけど、その他の注意事項やトイレ案内のくだりになると流石に書きながら自分で吹き出したよ。やっぱりそこは、ちゃんと分けてやった方が良いんじゃないでしょうか。だが、クライアント様は聞く耳を持たない。……廊下へ出れば喫煙OKただし一度外へ出た者は再入場できない。ニコチンによる一瞬の至福を選ぶか、自らに課されたミッションを遂行するか。その選択は諸君一人ひとりの意志に委ねられている……。これ、やる人大変だろうなとか悠長なこと言ってたら直前になってコロナじゃなくて、インフルエンザじゃなくて何やったかな、とにかく何かが舞い込んだ。一緒に飲みに行ったキャスト四人が揃って陽性だったとかで、今からこれやれるのは、もう書いた本人しかいないてことになって。はあ、でも私は書いたハナから忘れていきますんで/原稿読みながらでOKですから。で、少しだけ練習して翌日いきなり本番。会場は近所の遊園地の中。おまけに夏休みだった。安請け合いはするもんじゃないね。諸君、我々は既に包囲されている。とかやりだしたところで、近所の子どもたちが親御さんに連れられて、来てたんですね。あっ、カコちゃんのお父さんだ! ン? まあ、そうとも言うがな……。これが変にウケてしまって、もう無茶苦茶。

 よそごとを考えていると手が止まる。こんなときに限って電話もかかってこないので、最早言い訳すらできない。そう思った途端、着信があった。

 何や、まだ続きあったん。人造イクラもね、いくら生臭さが消えるって言っても、天然ものに比べれば多少は……程度の話だから。ン? 縁起さえ良ければ味はどうでも良いのか。政治的立ち位置の表明? だったら尚のこと凝った料理じゃなくても、アメリカンドッグぐらいで充分ちゃうん(☆4)。

 いやほんま、びっくりしましたよ。電光掲示板つーか、フレームの中にテキストが流れる何つーかまあ懐かしい感じのデザインでしたけど、意味不明に重いんで読み込みに時間がかかって、すぐにはテキストが流れださなかったり。で、いきなり目に入ったのが

『今こそヘイトスピーチを』

 おいおい何言いだすねん。と思ったらテキストが流れだして続きが表示されて。あ、そうなんか、そりゃあそうっすよねって、とりあえずホッとしました。フレームの幅が狭過ぎたんもマズかったと思いますね。だから何つーか、ほんまは何もないんですわ。

 はい、ああ、得てしてそんなもんかも知れない。ああ、ねえ。私も見ましたよそれ。白窓の中にテキストが流れる何というか、かなり昔風のつくりで。ははは、そうなんだ。般若心経やからもうええわてか(☆5)。

 進まない荷造りを無理にも進めようと、私はBGMを流すことを思いつき、再びもらいもののスピーカーに話しかける。あしくさ、びるえばんすとりおを。
 インテンポのフォービートは作業のBGMに最適な筈だが、相変わらず荷造りは進まない。進まないのは、その前にまず、片付けないといけない課題があったからで。それを思い出した私はロフトから降り、まずは業者に電話する。やっぱり、こんなときはメールじゃ駄目だ。というか、もうあまり時間に余裕がないのでスグにも段取りを決める必要があったし、とにかく自分の声で喋ることが大事であるように思えた。
 何本目かの電話でようやく、希望日までにピアノを引き取ってくれるという業者に当たった。受話器の向こう側から相手が次々に投げてよこす質問に、一つひとつ答えていく。
 コンディションは問題ないです。事故とは? ああ、浸水とかはありません。ペダルは三つです。色合いですか。はあ、何というか、赤っぽいです。画像お送りしましょうか。
「いえ、大丈夫です。お伺いしたときに確認させていただきますので、まずは口頭でお願いします。重厚な、深みのある木目のやつですよね」
 言おうとしていた言葉の断片が、先に向こうから飛んでくる。はい、まさにそんな感じ。艶があって、深みがあって、透明感があって、サンバーストなんて言わないですね。それと、割と大仰な猫脚で
「ワインバーグはみんなそんな感じですね」
 目につく特徴をそのまま仰ってくださいと言われその通りに答えたつもりだったが、私が並べた特徴は、業者ならメーカー名を聞いた瞬間にわかる程度のものだったらしい。
 型番を伝え確認すると、既に生産を終了したモデルで、買取価格の方はあまり期待できないことがわかった。
「どこかが壊れても部品交換できませんから、予めその旨お断りした上で販売することになりますので……」
 被せるように私は言った。
「では、明日よろしくお願いいたします」
 一気に肩の荷が下りる。とまではいかなかったが、心のもやもやが幾分か晴れ、ようやく歩けだせそうなきがしたところで曲が変わる。主旋律を奏でるピアノの単音がゆっくり一、二、三、四、五……。もやもやが晴れたぶん無防備になった心の空白をいきなり直撃され、少し慌てる。ソロを取っている訳でもない、特に変わった弾き方をしている訳でもない(私には、付かず離れず同じ譜割で主旋律を支えているだけにも聴こえた。少なくとも最初の方は)ウッドベースの音を《切ない》と感じたのは初めてだった。ベーシストの名前はスコット・ラファロ。確か、若くして交通事故で亡くなったそうだが、子どもはいなかったんだろうか。
 インストゥルメンタルなのに、歌詞が聴こえてくるようだ。GIジョーじゃなくておもちゃの兵隊か、いや、出てこなかったか。ぬいぐるみは出てきた筈だ。そんなもので無邪気に遊んでいるデビー。やがて君は大きくなって、そんな遊びは止めてしまうんだろう。それは当たり前だし、喜ばしいことでもある。あるんだけど、父は少し寂しくもあるよ。

 ピアノが単音でなくなり、譜割も少し細かくなって強く奏でられだすと何だか気持ちがぞわぞわしてきたので、私はロフトの方に向かって怒鳴る。あしくさ! 曲を止めてくれ。
 気がつくと私は、『ワルツ・フォー・デビー(☆6)』を最後まで通して聴くことができなくなっていた。




四、



 窓に不穏なテキストが表示される。

《今こそヘイトスピーチを》

 雨が降っている。淀んだ空気を入れ換えようと全開にしかけたベランダ側のサッシを、ピアノを庇うように慌てて閉める。今日の湿気が、明日業者に引き取ってもらうピアノに与えるダメージを気にしている自分に苦笑。
 結婚式を挙げた後の披露宴でストゥージズの I wanna be your Dog(☆4)を歌った新郎は、歴代何人に達するのだろうか。カーペンターズの曲に、雨の日と月曜日は(☆5)私をダウンな気分にさせると歌ったものがあった……切り刻まれた記憶の断片が、脈絡なく滅茶苦茶な順で浮かんでくる。

 修学旅行先から、弾んだ調子のメッセージが飛んできた。
「星がすごくきれい。プラネタリウムみたい」
 そう、良かったね。でも、プラネタリウムの方こそ、今見てる星空の真似だから……そんな返しで良い? いや、今そんなこと言うべきじゃない……。判断能力を喪失した私は、結局返信しなかった。

《こそヘイトスピーチをな》

 プリントアウトした原稿をざっと読み返してみたところ、気に入らなかったので単語単位で切り刻みバラバラにしてみた。
 バラした単語たちは、筆者である私の意向を無視してあちこちに小グループを作りながら勝手にくっつき、いくつかのフレーズを形成していった。そのうちの一つは、
《百薬の長/は/しきりに/笑う》
というもので。意味はわからないが面白い。と、私は思った。
「そんなことで済ませてしまっていいのかな」
 性別不明の声が言った。姿は見当たらない。 
 何が言いたいんだこいつ。良い悪い以前に、私はそれで済ますとも済まさないとも決めていない。
「リアルのシーンを、見てみたくはないか」
 意味はわからないが面白い。と、私は思った。そして、見れるものなら見てみたい旨をら抜き言葉で伝えると
「では、目を閉じて」
 言われた通りにすると、ものの二、三秒経つか経たないうちに
「もういいよ。開けてごらん」
 言われた通りにすると、そこはホテルのバンケットルームを小ぶりにしたような部屋で、高い天井には大仰なシャンデリアが吊るされ、フロアには大きな丸テーブルが五つか六つ。各テーブルをそれぞれ五、六人が囲むかたちで、総勢三十人あまりの老若男女が一同に会し宴が始まっていた。
 テーブル中央の大皿に盛られた料理を、青年たちがトングなどを巧みに使って取り分ける。各テーブルに一人ずついる小さな子ども以外の参加者は、笑顔でギアマンの器に満たされた酒を酌み交わしている。
 少し退屈になってきたのか、奇声を上げながら隣のテーブルの方へ駆け出す子どもを、大人が軽く嗜め。そのやりとりを見ていた一群から、また新たな笑い声が漏れる。
「どうだ、しきりに笑ってるだろう」
 みんな楽しそうですね。
「そう見えるのか。だが、人間は誰一人笑っていない」
 もう一度よく見ると、子どもたちを除く全員が笑顔ではなく、笑顔の面を被っている。じゃあ、あの笑い声は? 思った途端、声がした。
「耳を澄ましてみろ」
 言われた通りにすると、笑い声のような音はこの部屋にある全ての酒器の中から起こっているのがわかった。そして、私は静かに澄んだ水面のような気持ちになり、大人たちが被っている笑顔の面を透かして素顔を見ることができた。確かに、誰一人笑ってはいない。
 その時、仮面の一団の中の一人が立ち上がり、シャンデリアに向かって手をかざす。途端にあかりが消えて、場内は真っ暗に。なるかと思ったら、天井を透過して満天の星が現れた。

《そヘイトスピーチをなく》



「すみませんが、ロビーじゃなくてバンケットルームの方に回っていただけますか」
「はい、喜んで。やっぱりセレモニーの様子、見たいですから」
 急な配置変更を嬉々として受け入れる阿保見隊員だったが、
「あ、いや、ドア付近の警護なんで、セレモニーの様子は開閉時の一瞬以外ぜんぜん見えないと思います」
 早とちりのぬか喜びがぷしゅーと音を立ててしぼんでいく。
「まるで俺の人生そのものだ」

《ヘイトスピーチをなくす》

 ちょっと手が離せないんで手短かに、か、また後日ということで。はあ……。なるほど、他人の失敗を第三者として客観的に見てると、結構笑えることはありますね。そう言や自分も似たようなことやってるなとか気づかされたり。ついてない人の話も、良いことかどうかは別にして、つい笑ってしまう。ええ、わかります。……でもそれ、そんなに楽しいですか? アボミさんに対して何か個人的恨みでも? 何にせよ、もし悪意を持って話されているのであれば、続きは結構。

《イトスピーチをなくすた》

 立ったまま金曜日の授業内容の振り返りをやっている阿保見の耳元で、受付スタッフの一人が囁く。
「支配人より、警備員さんたちも乾杯に参加してほしいとのことです。さ、ご入場ください」
 促されるまま会場に一歩踏み入れると、阿保見には降り注ぐ光が眩しく感じられた。しかし、豪華なシャンデリアを想像しながら見上げたドーム天井には、照明器具らしいものは見当たらない。
「さあさあ、警備員さんたちもどうぞ」
 壇上からの支配人の手招きに応えて、阿保見は光学迷彩のスイッチを切り(確かに切ったつもりだった)いちばん近くのテーブルの方へ進み出る。勧められるままに、彼はシャンパングラスを手に取る。
「さあ、乾杯しましょう。キリコランドと皆様の素晴らしい未来のために!」
 ちゅーすの唱和に続き、両手で奏でられる拍手音声クラスタの中、あちこちで上がる悲鳴。笑い声。そして新たな喝采。

《トスピーチをなくすため》

(本当にお伝えしたかったことを話そう)
 阿保見は、決して華やかな場が嫌いな訳ではない。気後れして、または単に機会がなかったため出られなかっただけだ。それが今、こうやってセレモニーの場でシャンパングラスを傾けている。ふわっと感じられる多くの眼差しにも、これまで味わったことのない快感を覚えつつ。
「たまには」
と、阿保見は思う。注目の的になるのも悪くない。だが今、会場に集う人々から自分がどう見えているのか。見えていないのか。彼には、知るすべもなかった。

《スピーチをなくすために》


 そして、僕にとって三回目のキリコランド訪問となったのが、ついこないだのセレモニー。開発段階で遅れまくっていた人造イクラの納品も何とか間に合い、やれやれ、これで余裕で参加できる。と思ったら生憎のカンカン照りで、秋とは言え無茶苦茶暑かった。喜んでいたのはピーカン狙いのフォトグラファーぐらいのもんだろう。ハナザカリくんが、打ち水の仕種で涼を召喚する。けど、そんなもんで涼しくなるんなら苦労はない。いや違った、それは前日の話。ライブと重なったとかで、彼は泣く泣く(本当のとこはどうか知らんけど)セレモニーには不参加だった。

 会場の入口で手渡された席次表を見ると、僕のテーブルは人造イクラ関係者席とでも言うべき顔ぶれで、懐かしい人たちも大勢いていわゆる旧交を温めたり、それはそれで有意義な時間ではあったけど、お目当てはもちろん、ドームが全開になってプラネタリウムの映像が本物の星空に置き換わる瞬間。でも、その前にちょっとしたハプニングがあったので、まずはそっちから話そう。

《ピーチをなくすために立》

 乾杯と同時に、隣のテーブルで悲鳴が上がった。見れば、白手袋をした手首から先だけの手が、シャンパングラスを持って宙に浮かんでいる。身体はなかった。タロットカードに、ちょうどそんな感じの絵柄があったと思う。聖杯のエース。いや違う。タロットカードの宙に浮かぶ手は、聖杯じゃなく確か棒を握っていた。

《ーチをなくすために立ち》

 乾杯の後、手首から先だけの手がグラスを傾けると、まるで透明人間が飲んでるみたいに、満たされた液体が減っていった。
 白手袋をした手はそれ以上何もぜず、すぐに消えてしまった。あれは、サトミさんが仕組んだ悪戯だったんだろうか。だとすれば、、なかなかに手の込んだ面白いおもてなしだったと思う。
 ミステリースポットとしてのキリコランドらしい趣向とも言えた。そう言えば、泥粋和尚がカップ酒飲りながら掃き清めている《島》の白砂をめぐって、新しい伝説(笑)が生まれている。竹箒の跡がついて、枯山水的に表現された海に見えなくもない白砂を少しだけ手に取って舐めたり、あるいは体中に塗るというか、まぶすと《ぼんさんが屁をこいた》の達人になれるというものだったが、これがなかなか広まっている、というより流行ってきているらしい。でも、同時に問題にもなっているというんだよ。

《チをなくすために立ち上》

 白砂の《ビーチ》は、新たに開発中の住宅ゾーンにある。つまり、私有地ではないけど、基本的に住人以外みだりに入ってはいけない区域だ。常駐の関係者以外未だ誰も住んでない筈だけど、変に人が集まったりすると……おまけに、そこの砂を舐めたり、裸になって体中に擦りつけたり、気色の悪いことされたんじゃ売れるものも売れなくなってしまう。てね。

《をなくすために立ち上が》

 植物は動かないのではなく、ゆっくり動いている。みたいな話があるでしょう。《島》の《波打ち際》の白砂もそうで、実はゆっくり動いている。のかどうか僕にはわからないけど、泥粋和尚によれば、そういうことだった。
「極めてゆっくり寄せては返す波、または、極めてゆっくり流るる水のごとし。と思っていただければ結構」
 今の言い方、ちょっと似てない?

《なくすために立ち上がろ》

 だから、《枯山水》ではなく、正式には《枯れてない山水》と呼ぶんだそう。そんなふうに図らっていただきたいと泥粋和尚は言ってたけど、無理だろう。
 つまり、ぼんさんが屁をこいたの達人とは、植物のように、キリコランドの白砂のように、人間の目には止まっているとしか見えないぐらい、ゆっくり動くことができる人。という訳。

 ところで、どうしようもなくアホらしくも切ない曲ってあるよね。シュバリエブラザーズの『禿げる前に死にたい(☆7)』とか。原題は、歌詞にも出てくるけど英語の駄洒落なんで、邦題からそのへんのおかしさは当然わからない。でも、そんなことは関係ない。

《くすために立ち上がろう》

『禿げる前に死にたい』
 それで充分だ。イントロの哀調を帯びたメロディとか最高。アホらしさと切なさは決して相反するものではなく、両者の間にはある種の相乗効果(で良いんかな)があるということ。僕は、あの曲を聴いて以来認めざるを得ない。そう言えば、ハナザカリくんも、インプロヴィゼーションの中に『禿げる前に死にたい』のイントロのメロディをそっと(あるいは気まぐれに)忍び込ませたりすることがあって。だからどうという話ではないけど、まあ、そういうことだよ。

《すために立ち上がろう!》

 キリコランドと何の関係があるのか? もちろん、大ありだ。あろうことかセレモニーの歓談タイム、つまりバンケットルームのドーム天井が音もなく開き、それまで映し出されていたプラネタリウムの映像がリアルの星空と入れ替わる時間帯のBGMとして使われてたんだよ。あれには驚いた。誰の選曲だろう。
「スッキリ晴れて大気の状態が安定している夜には」
とか、サトミさんは確か言ってた。大気の状態についてわからないけど、文字通りスッキリ晴れた夜ではあった。昼間の外は暑かったが、日が落ちてからは流石に秋の気候で。室温的にも、ドーム天井を全開にするのに支障はなかったんだと思う。
「プラネタリウム時間と現実時間が一致する瞬間を狙って」
ドームは、静かに全開にされた。早い時間に、プラネタリウムの星空が映し出された時こそ誰もがドーム天井を見上げていたけど、しばらく経って、まさに歓談の方が盛り上がってくる頃には、天井を凝視している人なんて(僕を除いて)一人もいなかった。んじゃないかな。だから、何というか、タイミングは完璧だったんだ。プラネタリウムと生夜空の区別は、僕にもまったくつかなかった。

 一つ訊いても良いですか。プラネタリウムの映像と生夜空/テレビで見たホームランとスタジアムで見逃したホームラン/ゆっくり動く植物とぼんさんが屁をこいたの達人/ハナザカリくんの即興演奏の中に切れ切れに現れる『禿げる前に死にたい』のメロディ……。そういうのが頭の中でぐわーてなっとって整理できない状態ではあるけど。
 空に浮かぶ雲というのは、昔は綿菓子なんかに喩えられたりもした訳だけど実際には水蒸気だから、湯気みたいなもん。オーロラっていうのは、その雲の上の領域で起きる現象らしい。で、星の世界というのは、それより更に遠く遥かな世界だ。それで、雲/オーロラ/星空という三つのレイヤーを同時に体験できるかという話なんやけど。私はできると思う。自分の中に複数の時間軸を持てばそれで良いんだからね。
 わからないのは、そのことと、ハナザカリくんがよくやる長い休符というか唐突な沈黙。両者は、関係あるのか/ないのか。
 ……ンなもん、ハナザカリくんに訊いてくれって話かな。
(私は唐突に、それが可能な場所がある筈。だからそこを目指そうと思った)
 ハナザカリくんによれば、その国(☆8)の人々は皆、何と言うか、それはそれは、とてもとても、幸せに暮らせているのだそうです。

《ために立ち上がろう!☆》
《めに立ち上がろう!☆☆》
《に立ち上がろう!☆☆☆》
《立ち上がろう!☆☆☆☆》
《ち上がろう!☆☆☆☆☆》
《上がろう!☆☆☆☆☆☆》
《がろう!☆☆☆☆☆☆☆》
《ろう!☆☆☆☆☆☆☆☆》
《う!☆☆☆☆☆☆☆☆☆》
《!☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆》
《☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆》


 そういう質問にはお答えしたくないって、前にもそんなこと言った気がしますが……いいですよ、お答えしましょう。無茶なリクエストですか。そうですね、都心へ電車で十五分圏内で、清流のせせらぎが聴こえる静かな環境を探してます、とか。ええ、いますよ普通に。
 でもまあ、四つのミニ集落に分散された物件は、ややそれに近いと言えるかも知れません。清流のせせらぎを除けばの話ですが。
 リゾートゾーンの物件については、少しご心配かも知れませんが、集落はホテルの本館から、かなり離れた場所にあります。と言いますか、四つの区画に分散された集落は《住宅ゾーン》として開発中です。工場ゾーン、ラボゾーン、屋外設備ゾーン、リゾートゾーンのそれぞれの《中に》集落があるのではなく、四つの集落は四つのゾーンから独立した《住宅ゾーン》という訳です。実際に行かれたら一目瞭然ですが、ホテルの西側(だからウエストコーストな訳ですが)、真っ白い砂糖のような砂のあるビーチ、まあ、海はないんですが、椰子の木と白く細かい砂は、まさに南国の高級リゾートの風情です。
 沖合に見立てた白砂は、砂糖のような……とはいきません。あまり細かい砂だと、竹箒の筋が、作ったハナから風で消えてしまうので。この、枯山水の海を管理しているのが、泥粋禅師の愛称で親しまれている……お名前ちょっと失念致しましたが、造園作家さんです。石の配置含め、ぜひ一度、現地で鑑賞してみてください。そう、鑑賞です。日常の風景として手に入れることもできます。
 デメリットから先にお伝えするのがわたしの方針ですので、いつもの調子で申し上げたんですが、静かであることは間違いありません。

 セレモニーですか? ええ、伺いました。写真撮影に広報担当者の待ったがかかりましたよね。乾杯の場面以外、《支配人》の飲酒カットはNGとか、相変わらず訳わからないこと言ってるな、と。あの男が出てくるだけで、楽しい場が台無しですよ。あと透明人間は、話だけで目撃できなかった! 残念です。

 実を言うと、わたしは西日本の某山村で生まれ育った人間です。田舎特有のなどと言うと語弊があるし、わたしの生まれ育った土地がたまたまそうだっただけかも知れませんが、隣家の婆さんがイケズを絵に描いたような人で、時折意味不明の陰湿な嫌がらせを受けていました。あるときなど、畑に植えたチューリップと収穫間近の野菜が、夜中のうちに片っ端から引っこ抜かれていました。犯行現場を目撃した訳ではないし、証拠はありません。ただ、父と母が落胆する様子を見て婆さんがほくそ笑んでいたのをはっきり憶えています。子ども心に何て奴だと思いましたね。勝手に収穫してお金に換える(盗むということですね)というんなら、まあ、わからなくもない。もちろん良いことではありませんが、動機としては理解できます。でもそうではなく、ただ引っこ抜いてそこへ捨て置く。そんなことをして、誰が得する訳でもないのに、あの婆さんは何が楽しかったのか、今でもさっぱりわかりません。

 キリコランドで、これからまさに行われようとしている実験の話です。
 訳のわからないスーパーイケズな住人がいるかどうかに関わらず、少ない人口故の濃密な人間関係は、はっきり言って息の詰まるものです。増して、昼間同じ会社で働いている同僚いや、下手すりゃ上司で。上司の家の隣に住みたいって思います? いくら会社が好きな人でも、流石にそれは嫌でしょう。いくらパチンコ好きでも、自宅マンションの一階二階をぶち抜いてパチンコパーラーができたら嫌なのとそこは同じです。ですからわたしは、少なくともキリコランドに職場がある方の場合はお奨めしていません。ちなみに、調べたんですが、切子島酒造創設当時、家族と一緒にこちらへ移り住んだ杜氏は四人だったそうです。四人の杜氏は、それぞれ別のゾーンのミニ集落で暮らしています。オンとオフを分ける意味で、意図的にそう計画されていたようですね。
 四か所に分散されたミニ集落はそれぞれ、切子島酒造の杜氏一家が住んでいる買取オプション付きの社宅のほか三戸、全部で四軒の家から構成されています。観光客と言いますか、宿泊客らが出歩くエリアからかなりの距離がありますし、彼らの目に入る配置にはなっていません。実はこのあたりが、前世紀のテーマパーク内の住宅と大きく違う点です。
 オランダ風、スペイン風などそれぞれのコンセプトを体現した特徴的な外観。そう、住宅も、テーマパーク全体の景観を形成する大切な要素です。でも、住む人にとって魅力的な景観は、観光客にとっても魅力的ですから……写真を撮りに来ちゃったり……ということも、結構あったようです。
そうならないようなランドプランが、ここにはあります。
 ランドプランなどと、慣れない言葉を使ってしまったついでに少し大きい話をしましょう。これ、空撮です。写真を見ると、こんなふうに、《島》全体が白っぽいエリアに囲まれています(白砂ではなく、灰色の機械の街だったりする訳ですが)。大きく捉えても、まるで枯山水でしょう。そんな訳で、《島》の白砂は《外》の象徴でもある。
 遥かに、は言い過ぎですが、向こうまで続いている白砂の《海》を、泥粋禅師のように掃き清め、竹の箒で水の流れを表す筋をつけていく? ……できなくはありません。ええ、もちろん各住戸の庭の外、敷地外ですから。どこまでやって良いかは、ご近所との相談になります。何、話を通さないといけない相手は、たったの三世帯です。

 ありがとうございます。でも、結構です。少なくとも今は。


 あくる日の遅い目の朝、澄まし雑煮をいただいていると玄関のチャイムが鳴ったので、私は返事をして階段を降りる。
 玄関のドアを開けると、三十代半ばと思われる中肉中背でほとんど同じぐらいの背丈の男が二人、作業着を着て立っており。
「こんちわ、よろしくお願いします」
 先輩と思われる、やや濃い顔立ちをしている方が、近所迷惑にならないよう気遣いながら程よく声を張って挨拶し、もう一人は無言で一緒に頭だけ下げた。
「クルマ、家の前に駐めさせてもらって良いですかね」
 見れば既に、重機を積んだトラックがベランダの真下にいるじゃないか。何ぬかしとんねん、とは言わず、ええ、どうぞ。
 後ろ側に立っているややあっさりした顔立ちの男が、クルマの方を振り返り大きく両腕で《〇》を示す。ということは、一行は少なくとも総勢三名。ドライバーは未だクルマの中に残っているらしい。
「失礼します」
と、二人が家の中に入ってくる。もう一人(だった)は、クルマの中に残ったままだ。クレーンの操作も彼が担当するらしい。
「では、ちょっと開けさせてもらいますね」
 二階に着くと、二人は早速ピアノのチェックに取りかかる。いつもペアを組んで動いているのか呼吸もぴったり、慣れた手つきで段取り良く作業は進む。
「大事に使われてますね」
 どういう意味なのか、咄嗟にはわからない。
「この機種でここまで傷みが少ない状態なのは珍しいです。せめて部品だけでも製造続けてくれていたら、もう少しマシな価格で買い取らせていただけるんですが……」
 先輩と思われる、やや濃い顔が、そう言って申し訳なさそうに頭を掻く。
 いえいえ、製造中止になってることも、部品交換が利かないので高くは買い取れないということも、電話で丁寧に説明いただいてますんで。どうぞお気遣いなく。
「いや、そおおゆううことではなく……」
 なぜか男はおさまらず、作業の手を止め
「余計なことかも知れませんが」
と前置きした上で、中古楽器商の領分をすこしばかり逸脱して話しはじめた。
「思うんですけどね。これだけ美しい木目だし、味のある猫脚だし、カフェのオーナーさんとかでインテリアとして店に置きたい人、絶対いると思うんですよ。いや、カフェよりバーかな」
 どっちでも良いけど。もしかしてこの男、単に古いピアノの置いてある店で飲むのが好きなだけだったりしないか。そう思うと急に馬鹿らしくなり、
「ありがとうございます。でも、やっぱり誰かに弾いてもらった方がピアノも幸せだと思うんですよね」
などと適当なことを言って、私は話を打ち切る。

「そんじゃ、こちらからクレーンで直接降ろしますね」
 二人は、てきぱきとピアノをベランダへ運び出し、クレーン操縦者と連携しながら、慣れた手つきで作業を進める。
 青空を背景に、クレーンで吊られたピアノが、小さく揺れながらスローモーションで降りていく。と、突然、頭の中でピアノのトリルが鳴りだし、コロコロと無邪気に、楽しげに、駆け回るような『子犬のワルツ』がはじまる。

「なつかしい」
 初めて訪れた海辺の景色についての君の感想だった。
 プラネタリウムについては
「暗くなってお星さまが出てきたら天井がなくなるから好き」
なのだと。
「ろくさいになったらおそらとべる?」
 さあね、どうだろう。魔法使いの娘だからね。

 星明りの下、シャンデリアに向かい手をかざした人が被っている面は、裏返しだった。何で? 思った途端、声がした。
「ネモだよ」
 ?
「お面をローマ字で綴り、逆から読んでみたまえ」
 未だ見ぬオーロラの向こうに流れ星が見えたような気がした。






☆アイラーのゴーイングホーム:



☆☆:ストゥージズの I wana be your dog:



☆☆☆雨の日と月曜日は:


☆☆☆☆アメリカンドッグぐらいで充分ちゃうん:
鳥居みゆきさんが、ネタの本筋とは(たぶん)関係なく、唐突に
「アメリカンドッグって日本のこと?」
と尋ねるのをテレビで見たことがあります。


☆☆☆☆☆般若心経やからもうええわてか:
Dr.ハインリッヒ『砂漠』より。
彩さんの「般若心経やからもうええわ」で終わります。https://www.youtube.com/watch?v=yKDzkaU7C0c


☆☆☆☆☆☆ワルツ・フォー・デビー:


☆☆☆☆☆☆☆禿げる前に死にたい:
I hope I die before I go baldは2曲目、3:26あたりから_?t=付けたカタチでうまく貼れませんでしたm(_ _)m。先行する有名曲I hope I die before I get oldの末尾を変えた駄洒落曲名。リンク先音源はサックスなしバージョンです。



☆☆☆☆☆☆☆☆その国:
クラセカ共和国。


_「一」へ_





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