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酒と鯖の日々 二、

   二、


「お忘れものです」
 そう言いながら小走りに追いかけて来てくれたのが、みなみちゃんだった。
 手渡されたのは古本屋でたまたま見つけた絶版本で、結構思い入れのある一冊だったから、つい大袈裟なリアクションをしてしまい笑われたのを憶えている。末期帝政ロシアのアナキストが書いたのを、大正期の日本人アナキストが訳した本で、表紙も汚かったが中身の方も活字が潰れていて読みづらく。文体も、その後に翻訳出版された現行版の方がはるかに読みやすい。それでも自分は、ある種の呪物として大切にしていた。
 そんな事情をみなみちゃんが知っていたとは思えないし、知っていたところで彼女にはまるで関係のない話だ。単にそれは、バイト先の店で客がうっかり忘れて帰りかけた汚い文庫本でしかない。ないのだけれど、自分とみなみちゃんは、何か大切な、少し恥ずかしい秘密を共有するごく近しい間柄であるかのように錯覚してしまう瞬間があり。ついうっかり、通じる訳のない言葉のデッドボールを投げてしまうことがあった。例えば、知っている人しか知らない音楽家の名前。さっき、久々にシュリッペンバッハ聴いとって/?/や、ああ、そうそう、バッハバッハ/はあ、バッハなんですね。幼馴染の名前。昨日、駅で○○ちゃんに会って/?/ああ、小中高とずっと一緒やった友だち。けど、会うのはン十年ぶりで……お互い歳取ったねって/(〇円スマイル)。

 届けてもらった文庫本の現行版を書店の本棚から抜き取り、パラパラめくってみる。文字は潰れてなかった。目を閉じ、頁を閉じて頭の中を真っ白にした後、無作為に開く。こうやって自分は時々、無意識だか他者だか宇宙人だかナントカ天使だか、直接には知らない領域に属する何者かからのメッセージを得ようとする。さて、今日の啓示は?
 人の心の中に、何か知らないモノが住んでいる/即ち愛である。……自分の場合は、どうなんだろう。そこに愛はあるんか?

 西陽の射す部屋で、買ってきた本を開いて《啓示》の一句が掲載された頁を探す。焼け付くように熱い光を受けて、《愛》が暖まっているようでもあり、たそがれていくようでもある。せめて内障子ぐらいあれば、殺伐とした斜陽感も幾らか和らぐだろうに。トマト意匠のキッチンタイマーがスパゲティの茹で上がりを知らせてくれたとき、自分はそんなことを思っていた。

 西陽の射す部屋は好まれないと聞いていたが、川の見える西向きの和室が好きだった。河川敷では、よく、子どもたちが奇声を上げながら走り回っていた。閉め切っているときは、障子紙が西日のギラつき成分を堰き止め、オレンジ色のやわらかな光だけを透過してくれた。障子の反対側に、鏡台があった。ドレッサーではなく鏡台と呼ぶのが似つかわしい鏡台。娘の言う通り
「ここだけ昭和」
だった。
 階下のリビングには、朝日が入ったらしい。住んでいた家の様子を説明するのに《らしい》もないもんだが、いつもギリギリまで寝ていた自分は、その物件の売りの一つでもあった《爽やかな朝のひととき》を、そこで過ごしたことがなかった。朝日と聞いても新聞しか浮かばなかったし、朝食と聞いても、連想するのはファストフード店の前の行列と店員の〇円スマイルぐらいのもんだった。

 そう言えば、着替えてない。つい読み耽ってしまいそうになる文庫本を書架にしまい、マフラーを外してコートを脱ぐ。自分はもっと、寒さに強くならないといけない。そう思いつつも、今日は冷え込むでしょうという気象予報士の声を聞くと、ついビビッてこんなものを着込んでしまう。
 薄着でいこうと思いついたのは、純粋に自分の意志による選択で、実際のところそうでもなかったのは、ひとえに自分の意志の弱さによる。
 寒いのは苦手だ。たぶん、物心ついた時から。少なくとも幼稚園に通いだした頃には、既にそうだった。街全体がうっすらと雪化粧している朝、子どもたちの歓声が上がる。ここらじゃ滅多に雪は積もらなかったから当然と言えば当然で、自分も同じ気持だった。ただし、冷たい雪の中に手を突っ込む気にはなれず。雪合戦やろうよなどと言いだす子がいると、慌てて教室へ引っ込んだ。先生、新しい絵本まだ来ないの?
 冬だけじゃない。梅雨場のプールも同じことだ。太陽が雲に隠れたままなのに、何が悲しくて裸になって水泳の授業に出ないといけないのか。当然のように、見学を申し出る。すぐに色よい返事がもらえないと、わざとらしく咳込んで煮え切らない教師を急かしたりもした。

 次の日。駅への道を急ぐともなしに急ぐ。薄着のせいで、無意識のうちに早足になる。毎朝この調子だ。
 裏地がなく、当然中綿など入れようもないシャツみたいなフライトジャケットは、流石に真冬には寒過ぎる。だから自分は、フードがマフラー代わりになるパーカーを着込んでいる。最初は、もっと厚手のものだったが、一週間ほど前に今のものにした。自分は、もっと寒さに強くならないといけない。

 北極アイス? えらいまた堂々と騙ってくれるやないの。それにしてもこのマークよ。なぜかペンギンのキャラクターで一瞬、業務用冷蔵庫の会社かと思ったが、アイスキャンデー屋さんらしい。毎日通る道なのに、初めて気づく変な看板。見ているだけで時空が歪み、世界の断層が今にも顔を出しそうだ。これに似た感覚を、経験したことがある。

「あっちで話しませんか」
 直角五郎君が素直に従ったので、どうしようかと考えていた自分も、仕方なくついていった。
 誘惑太郎氏がドアを開けると、直角五郎は中に入るなりグエッといった物凄い声を上げたので何だろうと思ったが、なるほど入ってみて納得。その部屋は、まるで巨人が床と天井に両手の平を当てがいギュッとずらしたような平行四辺形で。一瞬、頭がクラッとした。が、同時に変なわくわく感もあって。一分もしないうちに居心地が良くなってきた。ところが、真っ先に入った直角は、吐きそうだと言ってすぐに出てしまった。
 素直なのか自分勝手なのか、よくわからない男だ。きっと、歪んだ部屋アレルギーか何かだったんだろう。
 
 北極アイスの看板は、あくまでパチモンくさく、それでいてどこからも訴えられないよう、周到に計算し尽くされているのかも知れないし、そんなことは誰もまったく考えてないのかも知れない。冬でも店を開けているのは、ほかに売るものがないからか。さほど流行ってもなさそうだ。
 耐寒修行の一環と思い、偽物北極アイスを一つ買ってみる。特においしいとも思わなかったが、充分冷たくはあった。とにかく、自分はもっと寒さに強くならないといけない。次のピースボートは何年後だったか。いずれにしろ、北の海の上の寒さはこの程度じゃ済まないだろう。北極。あるいは北極圏。どこまでを北極圏と呼ぶのかわからないが、とりあえず無茶苦茶寒いだろう。
《人は、なぜ北へ旅をするか。》という引きの強いキャッチフレ―ズがあった。で、ボディコピーの冒頭の一文は《北は、ドラマになりやすい。》……何だ、そういうことか。肩透かしを喰らったというか、自分なんかがゴチャゴチャと埒もないことを考えるだけ無駄だったんだ。と、突然思い至ったのを憶えている。
 ドラマなど期待しないが、北へ向かうんなら四の五の言わず、ただバルハラたらを目指せば良い。北欧神話には特に詳しい訳でもないし、そんなものが本当にあるのかどうかは知らないけれど。まずはオーロラが見たかった。行くところへ行けば、暖かい船室の中からでも拝むことができるだろう。でも、窓越しに見たオーロラなど、モニター画面の画像にも似て虚しい。やはり、デッキで寒さに震えながら、北の空へ向かって自分を差し出したかった。

 出社すると、まずロッカールームで制服の作業着に着替える。作業着の中は、薄い半袖の肌着一枚。もちろん、ヒートテックインナーなどではない。セーターの着用は認められていたが、そんなものは自分ルールによりNG。シャツの上から薄いジャンパーを着ると、社用車を転がして客先へ。今日一件目の訪問先は、最近建ったこじんまりした分譲マンションの一室、新婚夫婦の新居だった。
「お待ちしてました!/(パチパチパチ……)」
 いきなり拍手で出迎えられ、ちょっと面食らう。特に奥さんの方が露骨にはしゃいでおり。
聞けば、二人はウェブ関係の仕事をしていて、仕事でもパートナー同士なんだそう。ネット環境が整ってないと仕事にならないんで、ここ一週間はずっと近所のネットカフェにおり、新居には寝に帰るだけという生活らしい。
「サテライトオフィスって呼んでるんですけど。計算してみたら、結構高い事務所なんでびっくりです」
「言うてもホテルで缶詰めなるよりかマシやろ」
「ホテルで缶詰めて……アンタいつから作家なったんよ」
「いや、でも、高いってそれ事業経費として? それとも家計簿的に?」
「そこの区別、そんな重要?」
 楽しそうな戯れ口論をBGM的に聴き流しながら、新居にお邪魔して制服のジャンパーを脱ぐ。えーとパソコンは何台お使いでしょうか。
「いえ、それは結構です。これ以上増やしたら嫁に何て言われるか……」
 いや、そういう意味じゃなくて。苦笑しつつ、よくある誤解に対処する。
「すみません。コムコムさんがパソコン売りにくる訳ないですよね」
 四階の部屋の窓越しに斜め上を見ると、青空ではなく雪雲が広がっていた。近所にエレベータを備えた高層マンションはなく、眺望は充分に確保されている。晴れた日は、さぞ気持ち良いに違いない。
 このカップルは、いつ入居したんだろう。ここ一週間は……とか言ってたから、少なくともそれ以上は経っている。昼間はずっと近所のネットカフェに居たそうだけど、それにしても何十個という段ボール箱がほとんど手つかずの状態で山積みになっている。とりあえず急ぎ使えるようにしたいもの、パソコンとテレビと電話だけを取り出して(または注文して)用意しました。といったところか。
 この制服を着るようになってから、そろそろ三年。作業の区切りや、成功/失敗の判定基準がはっきりしている仕事内容は、そこそこ気に入っている。何といっても、翌日に持ち越すストレスが(少なくとも意識できている範囲では)ないのが良かった。テレビが映った/映らない、ネットにつながった/つながらない、電話が……。そんないちいちをクライアント様とともに確認し、ありがとうの言葉を笑顔と一緒に受け取ってから、次の訪問先へ向かう。この部屋の住人、家庭生活でも仕事上でも最も拘束力の強いパートナーシップを結んでいる二人からも、そうしてもらえると良いんだが。
「そうだ、実はノーパソもう一台あるんですよね」
 夫は、マックブックを取りに寝室へ。妻は、何も映っていないテレビの画面をじっと見つめながら、何とはなしにプレッシャーを与えてくれた。すみませんねお待たせして、もうすぐですから……。
 突然、画面にモアレのような、見方によって如何様にも変化する抽象的な模様が現れる。一瞬、何かの不具合かと思ったがそうではなかった。異次元というのか異界からのメッセージというのか、映ってはいけないものが映っているのを見たようで自分を冷やっとさせたのは、今こことは異なるレイヤー上でユラユラと動く緑のカーテンのようなそれ。北欧のどこかの国で撮影されたオーロラだった。
 真新しい室内に、奥さんの拍手が響く。
「わあーい、素敵。オーロラってホント神秘的ですよね」
 一通り操作方法を説明したが、果たして、オーロラに見とれる彼女はどれだけ耳を貸してくれていたか。自分は、昨日近所の居酒屋に忘れて帰った読みかけの本の続きを、早く読みたかった。


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