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シャーベットのように




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 雨が降っている。濁流の中、目だけ水面から出してワニが泳いでいる。暗くてよく見えない水は土砂を溶かして、たぶん黄色く濁っている。泥水の底、ワニの腹の下には横断歩道がある。まだまだ水は引かず、タクシーは来ない。

タテ組みをご希望の方はこちらから

 歩道は機能している。ぎちぎちに敷き詰めたビールケースの上に置かれた、正方形の薄く大きなベニヤ板は、通行人が踏みつける度にぐんとたわんでどこかがめくれ上がる。濁流、すなわち車道との境界には、びっしりと土嚢が積まれている。二つの足音をポリリズムにもつれさせながらパラタツタツン、傘の下ひとかたまりになったシルエットが近づいてくる。足もと気いつけや。緋色の浴衣の袖から伸びるきゃしゃな腕が、ふらつく連れの背中を支える。反対の手が差している透明のビニール傘から、雫が男の肩口に落ちかかる。

 歩を進めるにつれ、浴衣の裾から時折ピンヒールが覗く。二人は、そのままよろよろ蛇行しながらタクシー乗り場へ。

 どうせ当分来えへんやろ。初老の男が、シャツの胸ポケットから取り出した煙草をくわえると、女は素早くしかしダルそうにディスポーザブルライターの火を差し出し、一秒後、反対の手が傘を放したかと思う間に背中をドン! どぼん! さようなら。

 浴衣の女は、裾から細いヒールを覗かせながらゆっくりと腰をかがめ、歩道に転がったビニール傘を拾い上げる。車道を挟んで向こう側の歩道にもちらほらと浴衣が見える。差しているのはビニール傘ではない。ビールケースの上に載せられたベニヤ板を踏みつける下駄は、こちら側のピンヒールほど耳障りな音は立てもせず。浴衣の列は、突き落とされた男が流れて行った濁流とは逆向きに、神社の方へゆるゆる流れている。アンタら祭りで浴衣、ウチら浴衣祭り。政府雇いの人口問題対策委員。キャバクラ嬢としての彼女は、浴衣にピンヒールのサンダルを合わせ、忘れ物のビニール傘で客を見送ることにも特に疑問を感じない程度にはヤル気がなく、雇い主もまた、あえてそれを咎めようとしない。処理した頭数に応じて手数料を受け取る彼女らにとって、悪くない労働環境と言えた。

 雨の日は稼ぎ時だ。足がつくことは、まずない。彼女らは、酔った客をタクシー乗り場まで送るだけ。タクシーの中に押し込むようなことはしない。そもそも濁流の真ん中を流すタクシーなどある訳がないのだが。泥酔した客が店を出た後誤って濁流に転落したところで、従業員の過失責任を問う者はいない。警察も、一貫して見て見ぬフリを通している。

 突き落とされたターゲットの遺体は、そのまま下流へと運ばれ、たいていは隣り街あたりで発見されることになっている。以前は、濁流に棲むワニがすぐに食べてくれたが、最近は舌が肥えたのか見向きもしない。


2/


 雨が降っている。小さくかさこそ音を立てながら、ベニヤ板の上をサワガニが横断している。一匹、二匹、三匹、ともう少し。濁流に棲むワニ同様もともとは誰かが飼っていたのかも知れないし、このあたりで生まれ育ったのかも知れない。微妙に破れた水道管は、歩道のところどころに小川を造り、彼らが生きていける簡易ビオトープを提供する。少なくとも、この街の住人はそう考えていた。彼らの中に、街のサワガニについて調査した生物学者はいない。


3/


 夜更けの街、水道工事で地面が掘り返されたあたり。

 誰かがこっそり、経典を埋めている。

 ていねいに土をかけ、忍び足で立ち去る。アイツ忍者か?


4/


 飲食店のガラス窓から漏れ出すあかりが外光と溶け合う薄暮、サワガニたちの足音を掻き消す耳障りなヒールの音が、歩道沿いの喫茶店へと吸い込まれる。界隈のビジネスマンが、休憩やちょっとした商談などによく利用する店で、女性の一人客は珍しい。今日の彼女は浴衣ではない。キャンバス地のトートバッグから取り出した文庫本をテーブルの上へ無造作に投げ出し、窓の外に視線を向けると、奇妙なステップを踏んでカニを避けながらターゲットが近づいてくる。


 菊地成孔+大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー~東大ジャズ講義録・キーワード編』に『ダンス』の章があり、世界のダンスは、足がガチンガチンにステップを踏んでいって、手の形は決められていないヨーロッパ型、手のニュアンスでリズムを繊細に分節していき、下半身はシンプルかつフレキシブルでいいアジア型、、首から腰にかけての体幹を使ってリズムをとるアフリカ型、と大きく三つのスタイルに分類されている。なるほど、これだけでとりあえず世界じゅうのダンスがおおよそイメージできる。日本を含むアジアのダンスについて「下半身はシンプルかつフレキシブルでいい」とあるが、これはかなり寄りで観察した場合の話で。盆踊りのように円を描く、阿波踊り(これも盆踊りと言えばそうなのだが)のように行進していくなど、それぞれの踊りが指向する大きな軌道は、ダンサーの身体性の埒外に見出せる。近年まで、フロアで踊る習慣、ボウルルームないしクラブカルチャーというものが育たなかった日本らしい特徴とも言えるが、これらの軌道は何によって方向づけられているのだろうか。

 それはそれとして、何より驚いたのは、ヨーロッパ型の、十七世紀後半から十八世紀半ばにかけてフランスの宮廷で流行したダンスについての参考文献として『栄華のバロックダンス』を挙げつつ、ボーシャン=フイエ・システムというダンスの譜面が紹介されていたことだ。こんなもん、足の位置しかわからへんやないか! 自分が連想したのは、一九九〇年代に登場したアーケードゲームの華(と少なくとも一時期は言えた)『ダンスダンスレボリューション』だった。要するに、音楽に合わせてマシンの指示通りに、素早くペタペタと足の位置を移動していくというもので、ゲームのスコアと、プレイヤーのダンスの質は、必ずしも正比例しない。と言うより、実際のところまるで関係がなかった。ダンスの譜面もそれと同じことだろう。いずれにせよ踊りのエッセンスは、ゲーム機が指示するステップやヘンテコなノーテーションの埒外にある。踊り全般を、「あるリズムに従って身体を動かし、視点を移動させる営み」とするなら、これらの足踏み体操にも、それなりの効果は期待できるだろう。動きを伴えば、網膜に映る光景も必然的に変化する。しかし、地に着く瞬間の足の位置以外問題にされないような動きなど、どうやって信頼すれば良いのか。

 こうして、ノーテーション不能の「見えない」箇所すべて(つまり舞踏の動き)が、パーティとは別のレイヤーにおける自分の関心事であり続けたのだった。実際の話、決して分節できない一つながりの動きは、網膜に映る光景のみならず意識の状態をも変え得るのだから。ところで、「あるリズム」とは何か?(中略)これらはいったい何の話か? ある/ない/見せる/隠す/確かめる/想像する…それらのすべてが体感と分かち難く結びついている、もしくは体感そのものである状態を、僕は思わずにはいられない。残念ながら自分のボキャブラリー=ノーテーションの限界を超える話になってきたようなので、このへんにしておく。


5/

 くわえたばかりの煙草をシガレットケースに戻して、軽く舌打ち。運ばれてきたコーヒーカップに口をつけながら、文庫本をしまってファッション誌を取り出す。

 早いなあ、まだ五分前やで。差し向かいに腰を下ろした次のターゲットは満面の笑みを浮かべながら、雨と汗が交じり合った水分を拭き取る。

 コーヒーが運ばれてきた後も、男は、微かに神経を逆撫でする摩擦音を立てながら、いつまでもカップの中の液体をかき混ぜかき混ぜ、そないに待ち焦がれてたんか?

 ターゲットが上機嫌なのは良いことだ。しかし、

「洗いざらしのジーンズにTシャツ、よお似合うたあるわ」

 思わず身震いしたのは「匂ったるわ」と空耳したせいで。

 どないしたん、寒いんか? うん、チョットね。ウチ冷房苦手やねん。と言いつつ半袖のTシャツ一枚というのは我ながら理屈に合わないなと思い、込み上げる笑いを愛嬌に変換して誤魔化す。相手に察する能力はない。ことにする。

 そらいかんな、出よか。大人の気遣いを見せて、コーヒーを半分残したまま席を立つ初老の男。肩幅は畸形的なまでに狭い。

 そやけど。そんな恰好してたら今でもじゅうぶん学生で通るよなあ。別に若づくりっちゅうわけやないのに。

 近辺のオフィスに勤めるビジネスマン御用達の喫茶店で待ち合わせ、三軒先の寿司屋へ。もう少し工夫というものはないのか。このあたりは、明治末期から昭和初期にかけてのモダニズム建築が点在している。そんなスポットに行き当たりばったりで寄り道しながら、長く生きている地元の人間ならではの薀蓄を小娘に語って聞かせるとか、何なとあるでしょう。でも、お寿司はおいしかったのでそれ以上言わないことにする。

「ここのイクラ最高やろ?またいつでも奢ったげるさかい」


6/


 足もとのベニヤ板が大きな音を立てたので、僕はびっくりして下を向く。

「だからねこの話はヤメとけゆーたやろ?」

 いや、してないし。ダイジョーブ地雷は埋まってへんから。ハナザカリくんが続けざまにジャンプしてもっと大きな音を立てようとするので、慌てて止める。もう十二時まわってるよ、急ごう。

「はあん? 誰のせいで十二時まわったと思てんね。だいたい何でこんな夜中に傘差して繁華街走らんとあかんのよ」


 ぎゃあ、ううううううううう、み、みみが、みみが、みみがあー。どこかから、そんな声が聴こえた。ような気がした。/粉々になったガラスの破片舞う中、僕はラジオから流れる時報を切り刻んでいた。我ながらな、なかなかカッコイイ。さて、本当の時刻はどれでしょう? 愉快で仕方がなかった。そこに油断が生まれたのだろう。


 僕が走り出すと、ぶつくさ言いながらも、ハナザカリくんは同じように急いでくれた。ついでに泥はねも盛大に飛ばしてくれた。ひどく上機嫌らしい。彼は、僕の仕事がなかなか予定通りに終らないことを知っていたし、実際のところ少しも腹を立ててはいなかった。

 百メートルも走っただろうか。早くも息切れがしてきた僕はペースを落とし、結局普通の速度で歩きだす。

 先に着いていた女の子たちが、一斉に「遅い」という視線を投げてよこしたので、僕たちは早速実技指導に入る。と言ってもハナザカリくんは横でガンガン飲んでるだけ。ナマチュウお代わり? いい気なもんだね。しかしながら既に十二時をまわっているのだから、いちいち文句言っている暇はない。閉店までに一通り説明を終えることを念頭に、実質的に僕一人でレクチャーを進めた。

 テーブルを挟んで僕らと向かい合わせになっている三人の女の子たちは、揃って同じ角度に俯いて息を殺し、目に涙を溜めている。店員が、怪訝な顔つきで見ている。何となく居心地悪そうにしていた隣りのテーブル席のカップルは、飲みさしのカシスオレンジ(たぶん)とハイボールを残して帰ってしまった。だが、ここでメゲるわけにはいかない。

 言葉で説明すると、身も蓋もないほど簡単に済んでしまうのだが、つぶれないように涙をこぼすのはとても難しい。瞬きをせずにいると、目に涙が溜まる。いっぱいになったら、自然とこぼれるままにまかせる。手順を説明するとそれだけの話だが、実際には、既に涙は目からあふれ出そうとしているのに、表面張力のせいでなかなか落下してくれない。無理に絞り出すと、涙は簡単につぶれ、頬を伝って流れてしまう。だから、そう、ゆっくり、そーっと瞬きすればいい。ゆっくり…そーっと…静かーに…って、どの程度? だから、涙がつぶれない程度に。喧嘩売っているつもりはなく、本当にそこはそうとしか言えないのだ。まったく、痒いところを他人に掻いてもらうのと同じぐらいもどかしい。講師の能力の問題と言われればそれまでかも知れないが、こればかりは、実践を通じて各自コツをつかんでもらうより仕方がない。またオンナ泣かしよったんか、とハナザカリくんが茶々を入れる。


7/



 「この音の中に、およそ考えられるすべてのメロディがある」と、盲目のDJは言った。


8/


 オリジナリティに対する過度の不信は、自分の身体への不信だから、あまり良いことではないと思います。わたしはブドウの木、あなた方はパトロンになりませんか?

 速度の話をします。ある時、サックス吹きのハナザカリくんはリードを舐め舐め僕に言いました。

「アルトで馬鹿っ速いパッセージを吹くのに比べたらテレポートなんかなんぼラクかわからんわ」

 なぜテレポートかというと、僕がちょっとしたカミングアウトをやらかしたから。部屋で本を読みながらその場の情景を思い浮かべていると、徐々に壁の質感が変化し、時計もゆっくり溶けはじめ、そこへ移動してしまいそうになる。でも、本当にそうなるといろいろ面倒だから足を突っ張り今ここに留まっているのだ。と。

 すると、

「それってスピードのない世界の物語だよね」と。

「遅い世界?」

「そやなしに」

とハナザカリくんは吸いさしのセブンスターを乱暴にもみ消しながら、スピードて考え方自体がないんやと言います。

「時空を超越するには、まず、そいつらと手を結ばなければならない」

「いや、でも、そこは実在すんねん!」

 向きになって頓珍漢な反論を試みる僕をなだめ、彼は続けました。

「まずは、知らん顔してお約束を操作する術を身につけよう」


9/



 勘のいい子がすぐに要領をつかんでしまうことも、まあ、ないではないが、その場合にしたって、いきなり正確に目標の容器の中に涙をこぼせるかというと、これはもう、ほとんど奇跡に近い。現に、今夜の仲良し三人組も目の前で悪戦苦闘している。

「とにかく」

と、不機嫌な(ご機嫌と思ったのは勘違いでした)ハナザカリくんは脈絡も何もなく続ける(不機嫌の理由は、次のライブで予定されていたソロが、前日になって急になくなったから)。

「ねこが主人公の連載? そんなもん絶対読むな。ねこの話も、ねこ語で話す奴らも、みーんなアウト。イヤシとマドロミの区別もつかへん奴ばっかりやろ? 眠いわ退屈やわキリがないわでわやや」

「キミ、ねこアレルギーやった?」

「関係ない。悪いことは言わんからヤメとけって」

「だから、そんなこと言われても僕の話とちゃうねん」

「そんなもんどーでもええ」

(ほんまに誰の話やったか分からんなってもた)

 僕は目を閉じ、目の前にいる女の子に話しかける。こんにちは。あのね、ジブンなあ…

「それや! 自分と相手が入れ替わる瞬間」

 新しいセブンスターに火をつけながら、ハナザカリくんは弾けたように喋り出し…かけたのですが…

「明日、俺が吹くんはペットのソロに絡む一種の裏メロ。つまり、いつでも表と入れ替われるメロディや」

「そんなん言うとったらまたバンマスに怒られるで」

「心配ない」

「心配とかそゆのんやなしに…」

 まったく、何のこっちゃ。僕には、裏だの表だのというポジション取り、それに必死になってメロディを紡ぐ作業が馬鹿みたいに思えた。(ほら、オモテ拍/ウラ拍とかリーガル/イリーガルとか、いろいろあるやん?)そもそも、聴衆は、演奏者の意図とは関係なく、出ている音の全ての音域から、自分が聴きたいメロディを抽出し、体験することができるのだから。


「それはテクノ系の話や」と、アルト吹きはリードを舐め舐め苦笑する。

「俺らの演奏する周波数帯域は、それぞれの担当楽器ごとに否応なく制約受けるから、バンドの編成によっては、特に少人数のグループの場合は、真空の周波数帯域がどうしてもあちこちに出てくる。だからな、ほんまはメロディなんてどーでもええんよ。俺がやりたいのは要するに眠気覚ましの一撃、ねこの昼寝みたいなぬるい催眠ぶち壊して日本じゅうの寝た子を起こすこと」

「やかましいとか言われへん?」

「意外とダイジョブ、それに、最近は理解者もぼちぼち現れはじめた」

「へえー」

「ああ、こないだもトイレで言われてやあ。目の覚めるような演奏でした、てな」


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 照明が少しだけ明るくなり、それにつれてBGMの音量も少しだけ上がる。曲が変わり、ブルースハープのくぐもった音色が、懐かしい(お察しください、そろそろ閉店ですよ…)風情で店内に響く。今日の僕たちは、決して飲み物をぶちまけるような真似はしなかったが、テーブルの上は、女の子たちの涙ですっかりびしょびしょになってしまった。


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「うわあソックリ!」

「そう、これが噂のそっくりミミガーです。どうです、ミミガーそっくりでしょう」


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 開店と同時に団体客が来たとかで、厨房から応援を求められ駆けつけると、すまんがホールに出てくれ。要領を得ないでいると、早く割り下を足せと怒鳴る客が居たので、はいただいまと慌てて対応。心配したほど怒ってはいない様子に、まずはほっとする。

「関西じゃ割り下使うん邪道やんな」

 連れの一人が、妙なイントネーションの関西弁で話しかけてくる。少しピリピリしてしまった空気をやわらげようとしている? 板につかない愛想笑い。

「先輩はアレだ、結局は慣れた味がいいってことなんでしょう?」

 でも、初から入ってたじゃないか/使う量が違うってことかい?/まったく使わないスタイルもあるよね/各自がこだわりを語る。すき焼きの前に「コスプレ」の四文字が付く店をわざわざ選ぶようなサラリーマンが何を。キャバクラでスコッチのシングルモルトについての場違いな薀蓄話を聞かされた時ってこんな感じなんだろうか。つい何か余計な返しをかましたくなるがそんな余裕もなく次の団体客が入店し、二階の座敷以外いきなり満員御礼。ロッカールームでちんたら着替えていたバイトの女の子たちが揃いのナース服姿でぞろぞろ登場したのと入れ替わりに、僕は厨房へ引っ込む。

 人造イクラとコスプレすき焼き。どこにどういうつながりがあるのか、詳しい事情は知らないが、オタク世代が管理職に着きはじめてからオープンしたこの店は、当初から会社の宴会に利用されるケースが多かったそうだ。いずれにせよ、ナースに勧められた食事を摂ると元気になる、というのが、一貫して変わらないこの店のオーナーの考え方だ。

「洗い場お願いしまーす」

「洗い場はエエから、盛り付け手伝うたって」

 どっちやねん。指示系統がいまいち頼りなく、いつもみんながバタバタしているのも、当店の特徴だ。ここだけの話だが、まともに料理のできる人間など一人もいない。素人だけで回しているのだから、当然と言えば当然のことなんだが。

 「はいホールヘルプお願いしまーす」

 サロンエプロンのままのろのろと応援に出る/僕はラジオから流れる時報を切り刻んでいた。我ながらな、なかなかカッコイイ。さて、本当の時刻はどれでしょう? 愉快で仕方がなかった。そこに油断が生まれたのだろう。


「うちの会社もついに自社サーバの導入を検討してるらしいね」

「夏場だけのリースで良くね?」

「ビールサーバじゃないんだからさあ」

(ここで笑い。考えてみると新橋みたいなとこだね)

 我が社の研究によると、品質的に高峰のイクラは、処女の涙であるとされる。このへん、実際には何かと確認が難しい面もあり。

「おーい、兄ちゃん何ボヤボヤしてんねん。ワリシタワリシタ!」


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「ミミガーそっくりでしょう」

「ミミガーじゃなくて耳そっくりなんだけど」

 人間の耳そっくりな形をした約ニセンチほどの物体が、ガイドの手のひらの上でひくひ
く蠢いている。


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 とりあえず寿司の礼を言い、また連れて行ってほしいと軽く甘えてみる。それがなあ当分アカンねんわ。うん、言うたよ、確かに。いつでも奢ったげるて言いました。けどなあ、まだ事務所の片付けも済まんうちにどんどん仕事が入ってきて…有難い話なんやけどな。そや、今度事務所おいでや。出前取ろ。もちろんイクラも忘れんように。

 下見を兼ねて、彼女は、招待を受けることにする。短い会話の中、そこそこの事業所得が見込めそうなことを再確認。しかもこの男は、同時に公的年金をも(不正)受給しようとしているようだ。彼女は、早速弱みを握ったことになる。


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「ミミガーそっくりでしょう」


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 ヨオ! トイレから出てきた自分の肩を、誰かが叩く。振り向くと、そいつは福笹を持った自分で。ヨオ! えべっさんの帰りや。この暑いのに? タイムドメイン理論がJポップの正体を暴く店内で、誰かが相対性理論の入門書を読んでいる。そこに油断が生まれたのだろう。違う局にチューニングを合わせると、大音量で演歌が流れはじめた。おっと、いかん。そこそこ暇だから良いようなものの、月曜日は注意力が散漫になってしまいがちだ。唇をギュッと結び気を引き締めて、僕はお冷やを注ぎに行く。独りの客が本に夢中になるなどして十五分以上注文がない場合は、気を利かせてお冷やをサーブするテイで追加注文またはお愛想を促すように。研修で教わったとおりのタイミングで、僕は動き出す。でも、読書の邪魔はしたくないから、足音を忍ばせてカウンター席に近づき、なるべく静かに、そーっとグラスに水を注ぎ足す。キミそれ何か違うことないかなぁ。わざわざ言うなおっさん。そんなことはわかっている。でも、とにかく、相手が誰であれ読書の邪魔はしたくないのだ。灰が舞い上がらないよう、できるだけ音を立てないように、これもまたそーっと灰皿を交換し終わると、背後から声がかかる。

「今日はホールそんな忙しないし、事務所行って手伝ってもらおか。あ、場所教えてなかったっけ。そこ、駅前の通りずーっと真っ直ぐ進んで、ほんでから暫くそのまま真っ直ぐ行って…」

 必要に応じて、今日のように店長代理を務める気のいい先輩。なのだが、この男の説明は、いつも限りなくわかりにくい。もちろん、僕の聞き方にも問題はあるだろう。

「とりあえず」

と、落ち着きを取り戻したい先輩は、わざとゆっくり発声する。

「その灰皿置いといでや」

 灰皿と手を洗い戻って来ると、さっきの続きから説明が始まる。

「えーとほんでからコンビニの角を左折、分かるな、左や」

 そこは何とか理解できるのだが、その前の話が頭に入っていなかった。

「ちゃんと聞いとけダボ…てか、口で説明すんのちょっとややこしいよなやっぱり」

 一瞬顔をしかめた後ちょっと待ってて、と言い残し、先輩はレジカウンターの下からレポート用紙とボールペンを取り出すと、そのままカウンター席へ。

「口で説明するよりこっちのんが早いやろ」

 先輩に描いてもらった地図(ではなかったとあとでわかるのだが)を受け取ると、僕は表の開き戸を開けて外へ出る。

 「気いつけて」という声を聞きながら戸を閉めると、初夏の薄暮のぬるい空気がぬるっと肌にまとわり着いた。引越し前で忙しいとは聞いていたが、結構遅くまでやってるんだ。そんなことを思いながら駅の方角へ向けて歩き出す。代表と個人的に会うのは初めてだ。
 仕事とは言え、いや、仕事だからか、多少緊張する。緊張しながら歩道を進んでいくと、ゆるゆる徐行するクルマが一台、二台、七台と自分を追い越していく。えーと…。僕は目印のコンビニの前で立ち止まり、四つに折りたたまれた紙をゆっくり拡げる。顕れたのは地図ではなく、大人として少々恥じた方が良い稚拙な筆跡で、


『信じる道を行け』


17/


 先細りの道の真ん中を/スタスタスタ走っていった人/コロコロコロ転がっていく/ミートボール?/先細りの道の真ん中を/スタスタスタ走っていった人/コロコロコロ転がっていく/チョコボール?/その道を/両方の端から/誰かと誰かが持ち上げている!/こっそり持ち上げている。(ローリングマン事件)


18/


 すべての記憶への距離が「いま・ここ」から等しくなれば、人間はそのうち球体になる。


19/


 えーと何にするか、とボンクラは考える。カンパチの刺身と…

「カンパチお造りと」

と。……。んんんんん、とぉ……。言いよどみループしてしまうのは、食べたいものが絞りきれてない上、懐具合が心細かったせいで。

 彼の正面、目の高さに、手作りっぽいチラシが貼られている。一人前から注文できる鍋料理。今が冬なら良かったのにと埒もないことを考えるボンクラだったが、旨そうな料理写真の下に「※写真はイメージです」の注釈文言が添えられている。写真は、土鍋ごと火に掛けられた本物の料理を撮影したものだが、はて、この断り書きは何か。お約束の冗句とは思われたが、何となく気に入らない。しかも、と彼は考える。日本語だから一見まともな文章になっているが、英語表記にした場合どうなるのか。写真がイメージなのは当たり前ではないか。週間ウィークリーマガジンに匹敵する珍妙な表現になりはしないか。悩んではみたものの、ボンクラだけに結論は出なかった。そうだ、生タコ、食べよう。演歌が流れはじめる。おっと、これはヤバイ。

「タコお造りひとつー。お飲みものは?」

 雨が降っているし、まずビール、という気分でもない。それに、せっかく生タコ食べるんだから、と、もったいない気もしつつ、店員に声をかける。日本酒、何がありますか?


20/


 拝啓 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。

さて、先日お申込みいただいたご融資の件でございますが、審査の結果、残念ながら今回はご希望に沿うことができませんでした。悪しからずご了承くださいませ。凡蔵様のますますのご活躍を祈念申し上げます。 敬具


21/


「そのへんで結構です」

 できるだけ詳しく書くように、と言った割には簡単に中断の指示を出す受付役の男は、書きかけの用紙を引っ手繰るように回収すると、不安定な木の衝立で仕切られたブースへボンクラを案内する。

「ほお、ちゃんと払い続けていらっしゃるんですね」

 半袖の白いカッターシャツにノーネクタイの司法書士は、手渡された用紙に目を通しながら感心している。

「珍しいですね。ここへ来られるのは、たいていもう何ヵ月も支払いが滞っている方ばかりですが」

 短く刈り込まれた髪は濃く黒々としているが、眼鏡は遠近両用で。

「遅れることはあるが払うことは払っていらっしゃる。でも、もうそろそろ限界というわけですなフフフ」

 ニヤニヤと先生は露骨にうれしそうだ。実は、そんなに儲かってないのかも知れない。そう思うと、腹が立つよりも同情に近い感情が起こってきて、まだ契約したわけでもないのに、つい、模範的な顧客として礼儀正しい振舞いを意識してしまう。

「処理方法は、いくつかあります」

「例えば」

「ギャンブルはお好きですか?」

 否定すると、薬物、習慣的飲酒、フーゾク、パチンコ(最初の質問とかぶるのは他のギャンブルとまた違った習慣性があるということか)などについて、矢継ぎ早に同様の質問。いちいち否定するうち、だんだんむかっ腹が立ってくる。要するに、それらが借金の原因である場合は、また同じことを繰り返す可能性が高いという理由から「再生」が認められにくいという話だった。意外なのは、そこへさらに仮想通貨が加わったことで、ボンクラな中二ごころに火がつく。

「いや、そういうことではなく」

と、先生は苦笑しながら眼鏡を外し、入念にレンズを拭いて掛け直す。

「投機の対象になる場合があるでしょう。つまり、ギャンブルに嵌って借金を作ったのと同じ扱いを受ける懸念があるということです。ところで」

と、先生は咳払いを一つ。

「重要なことを言い忘れていました」

 椅子に深く掛け直し、姿勢を正すボンクラを見据えながら、司法書士は続ける。

「タラコです。あれも駄目。虚偽の申告は許されないということ、初にお話ししましたよね? しなかった? まあいいや。とにかくです、あれは本当はタラの子なんかじゃないんだから」


22/



 ある晩バーでクラブソーダを注文しようとすると、友だちに似た人が入ってきた。もしかして本人?

「確かめてみましょう」

 マスターが折り畳んだ紙をひろげ、こっくりさんの要領で「そっくりさん」に聞いたところ、「その男性客はキミの友人のハナザカリくんに似ている」

 流石そっくりさん!

 僕の観察では、本人ではない。そいつが持っている楽器ケースはテナーサックスのサイズだが、ハナザカリくんはアルト吹きだ。怪しい。「この微妙に大き過ぎるとこがね」と言いながらケースに手を触れようとすると、

「ヤメテクレ!」

「?」

「知らんか、脱皮したては強度が落ちること」

「脱皮?」

「そう、この楽器ケースはついこないだ脱皮したばっかりや。中はぶかぶかで楽器のすわりが悪いし、表面もふにゃふにゃで頼んない」

「中の楽器はアルト?」

「ああ。でも、そのうちテナーになる」

 少なくともハナザカリくんにそっくりで、もしかしたら本人かもしれない男は、マイヤーズソーダのグラスを片手に、自分はもともとソプラノサックスを吹いていたのだと。

「新月の夜に楽器ケースが脱皮したんや。今と同じで中はぶかぶか、外はふにゃふにゃ。当時の俺は、近所の中学校に歩いて通っとったから問題なかったけど、満員電車に揺られて通学する身やったらどないなっとったか…」

「ケースが脱皮したせいでアルト吹きに?」

「そう」

「脱皮直後のケースの中身はソプラノ?」

「ああ。でも、ケースがアルト用やからアルトと見なされた」

「ぶかぶかのケースの中の楽器は、いきなり大きなったん? それとも徐々に?」

「音楽が生きモノなら楽器も生きモノや、まいにち同じな訳がない。水ガニの成長といっしょや。でも、ケースしか見てない奴にはいきなりに見えた」


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 炭酸水またはソーダ水の呼称について。いや、その話は今は聞かん。震える脚で歩道の縁石の上をよろよろと進みながら、考えていました。よろけているのは脚の震えのせいで、脚の震えは恐怖から来る緊張のせいでした。縁石から落下したが後、自分は濁流の中に棲むワニに食べられてしまう…。そんな想定が、僕の想像を遥かに超えて成果を発揮したという訳です。

 考えていたのは、人喰いワニについてではなく、もっと宗教的かつグルメなテーマでした。


 神の冒涜って、やはり食通の特権なんだろうか?


24/



「どこ掘ってんねんボケが!」

「はあ?」

「そやさけどこ掘ってるんですかあ」


25/


 気がつくと、歩道の縁石は、びっしり積み重ねられた土嚢の連なりに変わっていました。まずい。そう思った時、そこは既に別世界だったのです。

 雨が降っている。濁流の中/タクシーは来ない/あんたら祭りで…。

 ベニヤ板を打つピンヒールの幻聴を打ち消しながら、あいさつの口上を述べる。今日は店の方が結構落ち着いてたんで、木下さんの指示でこっちを手伝いに来ました。とりあえず何をすればいいですか? 今、僕がやれる作業は

「ないよ」

 実は先日、不動産屋との間で一悶着あったところで、引越し先の物件もまだ決まってないのだと言う。新しい引越し先は当然自社ビルだろう、と誰もそんなことは言ってなかった筈だが、自分の中で勝手にそう決めてしまっていたらしく、ここでもまた一つがっかりすることになった。その代わりにと言っては何だが、代表から折り入って相談があるとのこと。

「最高のイクラの原料となる、新鮮で綺麗な涙を提供してくれる女の子たちを集めてほしい」

 これはヤバイ。慌ててFM用のロッドアンテナを振り回し、ノイズをブレンドする/「処女」とは言われなかったが、原料調達ルートについて抜本的見直しを図りたいという意向は伝わってきた。目下のところ研修中の原料提供者は、僕たちが働いているコスプレすき焼き屋や近所の店のアルバイト店員からの選抜、と言えば聞こえはいいが、実際には、拝み倒しながらぎりぎり必要低人数を何とかかき集めましたといったところ。無理をお願いしている手前、あまり厳しい指導もやりにくいのが実情だ。彼女らがヴァージンかどうかは置くにしても、これでは、涙をこぼすスキルの向上、ひいてはイクラ自体の品質確保も望めそうにない。そこで今日、僕が呼ばれたらしい。

 まず、大学の知り合いに声をかけてくれ。できることならそこから更に、彼女らの後輩や妹など、高校生にまで広がると理想的だね/しかし、予想に反して声のほうが強い。音量的には、ノイズの方が勝っているはずなんだが…。自分は完全に狼狽し浮き足立っていた。まさに天災。どんなに細かく切り刻んでも、メロディが分からなくなるぐらいデタラメにピッチをいじりながら混ぜ返しても、


26/


 雨が降っている。玄関で靴を脱ごうとして、そのまま上がるように言われた時は変な感じだったが、それなりに頑張って事務所らしく整えてある。事務机が保護色を使う動物のように、剥き出しのフローリングと同化している。このセンスは流石にいただけないな、と彼女は思った。まだ外がほんのり明るい。テーブルの下ぐらい何か敷しけばいいのに。そう言やそやな、せっかく透明なんやし、なかなかシツライまで気いまわらんでな。

 一方の壁面を占拠する本棚には、古いバービー人形や軍服を着たアメリカ兵のビニール人形などが、古ぼけたパッケージに納まったまま陳列されている。多くのパッケージには英文字が印刷されているが、日本語のものもある。リカちゃんファミリーから比較的近の、たぶんアニメのヒロインやゲームのキャラクターと思われる美少女フィギュアまで、製造された年代には何十年かの幅がある。箱の間を埋めるように、何種類かの雑誌と実用書がある。部屋中見渡しても、ほかに本らしい本はない。

 肩幅の狭い男は、この家にかれこれ三十年、一人で暮らしているらしい。そう言えば店でも、自分は「独身」だと言っていた。リタイア組の「独身」と言えば、妻に先立たれたか熟年離婚かのどちらで、稀に生涯独り身の場合もあるが、いずれにせよ興味は持てなかった。そして、キャバクラに通う男が自称する「独身」ほど当てにならないものはない。

 本棚の反対側はバルコニーだ。サッシ越しに確認したところ、狭い私道を挟んで向かいの家のベランダが、こちらとシンメトリーを形成するように張り出している。姿は見えないが、近所の主婦たちの話声が聞こえる。駄目だ、ここからは突き落とせない。と言うか、それ以外の洗練されたやり方を覚えるためにここへ来たはずだった。彼女は、本棚の方へ向き直る。米兵のビニール人形が目に留まった。男が話し始める。

 そいつが、この商売をはじめるきっかけになった人形や。ガキの頃お年玉で買ったGIジョーな。ああジーアイなんだ。それ以外の何に見える? あしたのジョーにでも見えたか? 何それ、と続きを促すため知らないフリをする人口問題対策委員。何や、知らんのか。なら仕方がないなと言わんばかりに、しかしうれしそうに男が溜め息をつく/いわくつきの伝説のシンフォニーが流れはじめる。伝え聞くのは、要するにこんな話。

 自分一人だけしか知らない記譜法に従って、偉大な交響曲を書き上げた作曲家がおりました。たぶん、いたらしいのですが、残念なことに彼は、件の名曲の初演を待たずに亡くなったそうです。残された私たちには、早その曲について静かに思いを巡らせることしかできない。と言うより、本当にそんな曲があるのかどうか確認のしようがないのですから、もう仕方ないではありませんか!


27/


 オーライオーライオーライ! トラックを誘導し、積荷を下ろす。瓶入りの炭酸がびっしり並んだケース。かなり重い。僕には重過ぎる。学生らしいバイトじゃないか。そんなことを言ってくれる人もいるが、それで積荷が軽くなることはない。

「重い方がいいんだ」

 代表はそう言っていた。これは人造イクラと引き換えることのできる、何とかだって。その何とかは忘れたけど。証書みたいなものらしい。

「紙切れじゃ有り難味が少ないからね」

まだ開発されてもいない人造イクラの先物取引だなんて、まったく正気とは思えない。


28/


 細長い雑居ビルの狭い階段を急いで駆け降りる。などという危ない真似はせず、一段一段確認しながら、ゆっくりと踏みしめながら降りていく。馬鹿に慎重なのは、階段の勾配がキツイのと、両手が塞がっていて手摺りが掴めないせいで。両の手で下から支えるように抱えるのは、長方形の紙の箱。中には一対のパンプスが入っている。色や形は既によく憶えていないが、開けて確かめるほどのことでもないのでそのまま進む。

 壁と床の間に、もう一つ直角を見つけようとする試みを続ける。一階のロビー、とは言えない狭いホールスペースにソファーが二つ並べてある。その上に静かに箱を置いて入り口の開き戸を開けると、足元まで茶色の水が迫っている。地上レベルからささやかな石段のアプローチを昇って入り口へ、という造りになっているのだが、今はぜんぶ泥水の中に隠れてしまい浸水して来ないのが不思議なくらいだ。このビルは泥水の中、完全に孤立している! ああ、どうせなら、この濁りがみんなカニ味噌だったらいいのに…。

 外へ出ると、いきなり視界が開けた。何と、世界は大変なことになっている様子。


「おい!」と、サックス吹きのハナザカリくんに背中をどやしつけられ、僕は、びくっと我に帰りました。

「ウットリ聴き入ってるとこ申し訳ないけど、急ごか。浴衣のおねいさんに突き落とされんうちに」

 祭りやってる神社まで、真っ直ぐ歩くん?

「はあ? 何言うとんねん、盆踊りや盆踊り」

 飲み込めないまま横断歩道を渡り(水は、すっかり引いていました)、僕たちは濁流(が流れていた筈なのですが)と反対方向に進みました。車道の向こう側にいた筈の、浴衣のおねいさんの姿は、もう見えません。きっと、この世のものではなかったのでしょう。神社(広場ですぅ、とハナザカリくんが訂正)の方からゲラゲラポーとたのしげな音楽が聴こえてきます。しかし、

「アカンわ、遅刻や」

 突然、ハナザカリくんが天を仰いで言いました。何がアカンのか、何が遅刻なのか、質問しようとする僕を手で制して、彼は続けます。

「時間の急流滑っとったから、もうこんな時間や。残念やけど盆踊りは明日やな。夜店の焼きそばも、ヨーヨー釣りも…」

 何が悲しいてンな幼稚なこと…

「あほう、吊ったヨーヨーはカンビールと交換してくれるんや。そんなことより、自分のミッション。思い出したか? 大自然の驚異、もしくは神の御業そのものとも言えるイクラを、人間が造り出そうという。最高の人造イクラは何からできるか? 純度の高い処女の涙からや。けど、残念ながら原料提供者がほんまに処女かどうか、これだけは確かめようがない」


 出前を待つ間、ボクシング漫画を経由して、話題はGIジョーに戻っていた。

 ホンマは小学校の頃から欲しかったんやけど、戦争の玩具なんてとんでもないと両親から同時に叱られてな。ダディー、サヨクやったん? そやない、子どもに玩具を買い与えてやれん理由として都合良かったんやろな。そういう時代や。そういう時代て、おうちの経済状態? 政治的信条? んんまあ両方やな。そんなこんなで、小学校一年の時から欲しいてしょがなかったGIジョーを実際に手に入れたんは、中学に入学してからのことや。ところが、手に入れたことですっかり満足したんかね、一週間も遊んだらすっかり飽きてもた。それで、箱に戻して大事にしまっとった。この家にもそのまま持って来たけど、ずーっと置きっ放しや。それがや(ひと呼吸置いて)七年、いや八年前か、定年後のことがぼちぼち気になりだした頃、長年溜め込んだガラクタを処分しようと思い立ってな。すっかり忘れとった思い出のGIジョーと再会したのはその時や。捨てるのは流石に惜しかった。名残り惜しいとかやなしに、ちょっとした小遣い稼ぎぐらいにはなる、かな? てな。よっ、大阪商人! やかましい。…何やった、そや、それで何せ一週間しか遊んでへんから状態は新品同様、それに、箱ごと残ってるとこがミソや。早速ネットオークションに出品した。そしたらこれが…幾らで売れたと思う? 幾らで売れたん? 男は笑みを浮かべるだけで、何とも答えなかった。ま、こうやって二人前の出前が取れるぐらい…ということにしとこか。


29/


 エレベータにて

「北へまいります」

とエレベータが言った。

「よっしゃ。付き合おう」

と自分は応えた。

「誤解です」

とエレベータが言った。

「言い訳はしない」

と自分は応えた。

 エレベータなんてその程度のものだ。


30/


 出前が到着すると、腰を上げようとする私服のキャバ嬢を制して、男は足早に急な階段を降りて行く。ここから突き落とすのはどうだろう。人口問題対策委員の目が光る。結局また突き落としか。自分のアイデアの貧困さに、思わず苦笑する。奥さんをはじめ家族の話は、まったく出なかった。独身でこの家を購入し、そのままずっと独り暮らしなのだろうか。あえてそちらへ話の水を向けないのは、ベタに人間らしい話題を通じ情緒的に関係が親密になると、相手を処分するのが辛くなるから。かと言って、キャバクラ嬢が客の家族関係にまったく関心を示さない、つまり配慮しないというのもどうか。そこは少々微妙な匙加減が要求されるところだった。

 どないしたん、遠慮せんと食べや。あ、ごめんなさいつい聞き入っちゃって、お箸止まってた。ガラスのテーブルを通して見えるフローリングの木目を眺めながら、彼女は続ける。でもいいですね、趣味と実益を兼ねてとかよく言うけど、それでお商売成り立ってはる人って、そうそう居ないと思うんですよね。ン? ああ、だから、俺がフィギュアに思い入れがないって言うのは、別にカッコつけてるんやなしに、しょーみの話なんや。


 気まずい間があった。…てか、ヒトの話聞いてるかオマエ?


31/


「そっくり豆を盛られましたね」

 うしろから声をかけてきたのはドクター・アノニマス。ドクターの説によると、これほど酷い光景を目にした巨大ビルディングの反応が、小さいおじさんたちとほとんど変わらないのはおかしい。そっくり豆を食べ過ぎたせいに違いないとのこと。

「気づかないうちに、誰もがほとんど同じ反応しかしなくなる。そこがこの豆のおそろしいとこでしてね」

 白状するが、その頃の僕の世界には、速度はもちろん高さという考え方すらなかったの
で、そっくり豆のことまで気にしている余裕はなかったんだよ。


32/


 ホンマに聞いてたんか? 棘のある語気と、今まで見たことのない目の奥の底光り。

 肩幅の狭い男の力は予想に反して強く、手首を掴まれてしまうと女の力では振りほどくこともできない。おう、お前何たくらんでんねん、言うてみい。両手首を掴んでいるのと反対の手で肩を抱きすくめるようにして、真っ直ぐ目を見ながら男は問い詰めてくる。犯される、というのとは別の恐怖感が彼女を襲う。この男は、自分を殺しはしない。けど、殺意に近い怒りの感情を抱いている。一方自分は、この男を殺す計画を練っており、たぶんそれは、いずれ実行に移されるだろう。恨みがあったり、憎くて殺すのではない。それはつまり、殺意がないことになるのだろうか。殺意もないままに自分はこの男を殺そうとしていたんだろうか。恐怖の中で、そんなことを考えていた。

 彼女はソファーの上に押し倒され、乱暴に下着を脱がされる。タクシー乗り場までのお見送りの際も、この男は、他の客のように隙を見て身体に触ろうとはしなかった。浴衣祭り/裾からピンヒール/煙草と団扇/身体のどの部分にも触ろうとはしなかった。お前の身体など興味ない、とでも言わんばかりの乱暴さで下着を引っぺがされ、下半身が剥き出しになる。上半身はそのままだ。

 遠慮せんと食べたらええやないか。イクラ好きなんやろ?


33/


 「ミミガーじゃなくて耳そっくりなんだけど」

 人間の耳そっくりの形をした約ニセンチほどの物体が、ガイドの手のひらの上でひくひく蠢いている。

「おいしいの?」


34/


 水の中を動くミニチュアのようにゆっくりと滑らかに停車したクルマの中から、蟻ほどの大きさの男女が出てくる様子を見下ろしつつ、ボンクラが細やかな泡立ちの黒ビールを飲んでいる。

「つまらないこだわりは捨てたまいよ。なあキミたち」。

 地上の光景を見下ろしながら、イメージの中では彼もそう思っていた。

 台湾にプライベートで旅行した時のことだ。果物屋の店頭にパイナップルが並んでおり、すぐ横に「自殺」の文字があった。縁起でもない、とそのまま右へ目線をスライドさせると、見た目は変わらない割に少し高い値のついたパイナップルがごろごろ転がっている。よし、こっちにしよう。そう思って財布を出しかけた時、今度は「他殺」の文字が目に入る。何か知らんが物騒な店だ。財布をしまってその場を去りかけた時、漸く事情が飲み込めた。要するに自分で切るか、店の人に切ってもらうかで値段が違うという、それだけのことだった。なあんだ。しかしまあ「切る」はガイジンの耳には「kill 」と聞こえる筈だ から、やはり、どっちにしろ縁起でもない。結局は何も買わず、手ぶらでホテルまで歩いて戻ったのだった。


35/


 ビルヂングの意匠や技術にも流行がある。汎暦二〇〇五年のJR大阪駅付近の場合、レトロモダンな味わいの郵便局ビルの南に幻想的なガラスカーテンウォールのビルがあり、その向かいにはバッテリーチックとゆーか金属のカプセルみたいなのが建っていて。それぞれのゲシュタルトに、建てられた当時の流行が見て取れる。街並みとは、いつだって斯様にマルチレイヤードな成り立ちをしているもの。とは言え、この、そこはかとなくちぐはぐな感じをどうしてくれる? 何、建築なんて、中で執務をとる人たちの都合とか、商業建築なら顧客の都合とかへのぬかりない配慮があればそれでよろしい。カスタマージャーニーをセンチメンタルジャーニーに? 好きにしろ。だから、ランドスケープてえ視点を忘れちゃいませんか?

 …話しておかんければならんことがある。実は、大阪の街とは、そのうち実現するであろう天上界の未来都市の、かなり予算をケチった模型だったのである。なぜケチったかと言えば、それだけ勝ち目の薄いコンペだったから。私は、担当の設計屋(巨人族)を直接知る知人からそう聞いた。ビル単体の意匠プレゼンではなく、お題は界隈のいわゆる再開発計画で。その割に統一感に欠けるように思われるのは、コンセプトが「マルチレイヤード・シティ」だった為。と言うのは大嘘で、件の設計屋が某外資系ホテルを一棟まるまる忘れていたらしい。そのことに気づいたスタッフ達(小人族)はそりゃもう痛々しいぐらいに大慌てだ。無理もない、この歴史的大ボケが発覚したのは、実にプレゼン前日のことだったのだから。しかしながら、当の設計屋は、慌てる周囲をよそに胸ポケットから愛用のiPod-miniをゆっくり取り出し、模型の空いた所にぺろっと糊付けしたそうだ。ご承知の通り、巨人族の時間はゆっくり流れるものだ。

 で、ホンチャンの完成はいつ頃か? 残念ながら。そんなことは誰にも分からない。ひとつには、先に触れたように、巨人族の時間があまりにゆっくり流れる為、我々の時間尺度ではそれを表現しようがないということ。しかも、それが実現される天上界の座標を正確に言い当てることのできる者は、目下の所誰一人いないのです。そもそも、この案が採用になったのかどうがが怪しいと言うのに!

 斯様な次第で、そんなものは私にとってどうでも良いことばかり。私の関心事は只、あのビルの容量がいったい何ギガあるのか、黒百合姉妹の歌の場合何曲入るかというその一点に尽きるのである。


36/


 ※炭酸水またはソーダ水の呼称について:

 アメリカでは、第二次世界大戦まで「炭酸水(carbonated water) 」よりも「ソーダ水(soda water) 」の名称が一般的だった。一九五〇年代には「スパークリング・ウォーター」や「セルツァー水」という呼称も使われるようになる。「セルツァー水(seltzer water) 」という呼称は本来はドイツSeltzers産の発泡ミネラルウォーターの一種を指し、商標の普通名称化の一例である(以上Wikipediaより)。

 「クラブソーダ」もまた、「カナダドライ」ブランドの炭酸=ソーダ水に付された商標だが普通名称化については微妙なところだ。


37/


 書留が届いたようなので出てみると、裁判所からの「特別送達」とかで。開封して見てボンクラは青くなる。

 頭書の事件について、原告から訴状が提出されました。当裁判所に出頭する期日及び場所は下記のとおり定められましたから、同期日に出頭してください。

 なお、訴状を送達しますから、答弁書を作成し、期日の一週間前までに二部(一部はコピーでもかまいません。ただし二部とも押印してください。)提出してください/デタラメにピッチをいじりながら混ぜ返しても、声の断片は、北島三郎以外の何者でもなかった。

「俺の演奏のテンポは、速度調節ツマミを回すようには変わらん」

「そう簡単には変えられん?」

「変える気ないからな」

「何やそれ」

「てか全部いっしょ」

「いっしょなんや」

「嘘やけど、けど基本的には変わらんね」

「……」

「でも実際そうなんや。俺の楽器の構造は少々変わっとって、演奏のテンポを落とすと
ピッチも下がってしまう」

「はあ?」

「うん。だから、アナログレコードの回転数落とすみたいにフウゥゥゥゥて」

「そんな楽器でよお仕事できるなあ」

「そやねん、だからバイト頑張って…ほっとけ!」


 男は両脚を持ち上げ、剥き出しのスリットに寿司をねじ込もうとする。両足のすべての爪には、丁寧にターコイズブルーのペディキュアが施されている。シャリはいらんな、視覚的にあんまり綺麗やない。てか濡れてえへんな。醤油塗ったろか。プラスチック製の魚の口から、どす黒い液体がほとばしる。続いて、体液のようにぬめったイクラだけが、次々に押し込まれる。潰すなよ。抵抗を諦め股間をヒクつかせる人口問題対策委員の頬を、涙が伝う。女性器の口は開いたままだ。


38/


「おいしいの?」

「さあ、それは好き好きでしょう」

「案内してよ。そっくりミミガーの里へご案内しますとかなんとか吹かしまくってたじゃない」

「おやおや、吹かしは酷いですね。ご案内しますよ」

 一同が案内された森の中、三〇センチから五〇センチぐらいの人間そっくりな植物、か何かわからない実が、びっしり木に成っていた。


39/


「わかった。ちゃんと説明するよ。道の両サイド、どうろサイドに等間隔で電柱が立ってる。俺が運転しているクルマの速度はいつも一定。十メートルある電柱同士の間隔を五メートルにすると、クルマのスピードは同じまま曲のスピードは倍速になる。五線紙に書き込んでみるとよくわかるよ。このスキルを身につけてから、俺の演奏はぐっと安定してきた。それまで怪しかった音程がビシっといきだしたんよね。バンマスからも怒られんようになって、そんで気がついたら楽器に刻まれた文字が、まあええわ」


40/


「びっくりされたようですが、実はソックリとビックリは同じことなんです」


41/


 文庫本の奥付ページに、落書きがある。魂のマッドサイエンティストと見えない軍隊の物語。詩のつもり? お筆先を装った悪ふざけ? それともただの暇つぶし?

 研修中に何やってんのよ。僕は意地悪くその子の横顔を見つめる。こういうの、本当は嫌なんだが。

「真面目に聞いていなかったことは自分が悪いです。でも、これだけは譲れません」

「これだけって、どんだけ?」

 意地っ張りの女子高生が、目にいっぱい涙を溜めて何かに耐えている。


42/


「さあ、どれでもお好きなのをどうぞ。やっぱり、耳がダントツで人気あるみたいですね。どうぞ、直接もいで食べてみてください」

 三〇センチから五〇センチぐらいの人間そっくりな木の実から、耳そっくりな部分を引きちぎると、ぎゃあー耳が耳がと。人間そっくりな木の実は、人間そっくりな叫び声を上げる。


43/


 生臭い食べものが、それほどまでに、泣かなければならないほど苦手なんだろうか。まったく、代表が喜んでしょうがないよこれじゃあ。

「じゃあ、ついでにその涙も、ビーカーの中に落としちゃいましょうか」

 僕も、そんなふうに振舞えたらどんなに楽だろう。

「はい、そこまで。今日はこれぐらいにしときましょう。みなさん、どうもありがとうございました」

 その時です。ガサッ!

 いきなり障子を破って、ねこが飛び込んで来ました。にほんねこは畳の部屋が大好きだからね(この部屋は畳敷きじゃないけど)。

「だから、ねこの話はヤメとけゆーたんや」

それもまた、一つの物語です。


44/


 しょぼくなってしまった おうこくを ふたたび みのりのだいちとなすために むかしのいえそど まるくとに へいごうするというあいであ まんなかのはしらは いちだんずつさがり けてるは みちのりょういきとなる だれもなんにも おしえてくれない さあ もういちど ひを ぬすめ

 何だ、二十世紀の理屈じゃないか/ま、そー仰らず冷たいもんでも。ハナザカリくんに差し出されたカップの蓋を開け、透明なプラスチックのスプーンで中身をすくう。ジャリッとした感触だが口に入れるとふんわり時間が溶けだす。二十世紀と言わず十九世紀、ついでだからもっと行ってしまえ。自分が生まれる前の時代は客観視しやすいって、確か誰か言ってたな。誰だか忘れたけど。そう。サルだった自分より、まだまだずっとずっと昔の自分に帰ろう。ボルネオあたり? マングローブの林に/置き忘れているよね? アメーバだった自分は、時分はかな? たぶんそのへんでプカプカ浮かんどったんですわ/パースペクティブが広く被写界深度が深くて視界がクリアな世界へ行ったら、クリアな視界をおみやげに持ち帰ればいい。ふた口目を口に入れると、今度は反対方向に時間が溶けだした。汝が何時でどっちがどっちやら/「個」なんて仮の枠組みでしかないから、そんなに深刻に考えることないよ/ワタクシゴトさえアナタゴト。何だか未来的かつ宇宙的な気分。自分の中に宇宙人が入って来た(ウォークインクローゼットにて)。


45/


 ご存じでしたか? クラブソーダの「クラブ」が、「カニ」の英語だということを。語源の解明はもとより、なぜ泡立つのかという疑問に答えているのがこの説のすごいところ。つづりまで確認していないので真偽のほどは不明ですが、もし違っていたところで、その場合はカナダドライがいけないんです。


46/


 駅の構内から薄暮の街へ出る時、人口問題対策委員は少し躊躇し、腕時計に目をやった。アメコミのキャラクターがプリントされたTシャツに、少し色の落ちたブルージーンズ。肩にかけたトートバッグは、キャンバス地とは違った。右手に提げた紙のショッピングバッグの中には、きちんとたたまれたスーツが入っている。彼女は、踵を返して、カウンター席だけのジューススタンドへ向う。あまりゆっくりもしていられないが、とにかく一息つきたい。ところが、彼女が立ち寄ったのは、一種の技術的特異店。


 ほのかな酔いとともに、世界が透明度を増していく。それはそれは不思議な効能と、特異な味わいを持つカクテルです。残念ながらレシピは公開されておらず、従ってこの店でしか飲むことはできません。

 今日も早い時間から大盛況でしたが、カウンター席のいちばん端っこに、何とか割り込ませてもらえました。繁盛してるね! マスターは無言で微笑を返してよこします。意味深なのか、全く意味はないのか、そのへんの事情はわかりません。続けて彼は、冷たくしかしきっぱりと言い放ちました。

「一人残らずアセンションしてやるぜ」


 何種類かのベリーをブレンドしたフレッシュジュースで喉を潤しながら、彼女は、自身もパネリストの一人として登壇した今日のシンポジウムで喋った言葉を反芻する。生活保護のお金をパチンコでスッてしまった挙句に子どもの給食代が滞る。年金の場合、とりあえずそういった問題は起こりません。禁煙でないことを確認した上で、バッグの中のシガレットケースに手を伸ばす。現役世代の負担を少しでも軽くするために…。


47/



「雨、降ってた? 微妙って、どういうことですか?」

「どういうことって、ンなことはね」


48/


 ニューオリンズのセカンドラインビート/マルディグラ・インディアンズの行進(ニセモノや!と子どもが叫ぶ。おいおい、仮装行列やないか。とおとなが応る)/お祭り用の扮装に残る悪魔(とされたモノ)の爪あと/酔っ払いの鼓笛隊は今日も今日とて絶好調/お前ゴムみたいな顔してるなあ/ショーウインドウの中のヴードゥーおまじないセットが大人のオモチャの脱力感でこそばしてくる/ラテンアメリカ文学の古典に見るインディオの少女/宣教師の指導を無視してわざと手づかみで喰う/彼女は裸足と決まっている/コンドルは飛んで行き、オンドルは暖かいそうだ/ディアンドル! 麦酒おかわり。

「セカンドライン(つまり二列目)がノリノリなのは、よーするにゆるくて適度にグダグ
ダで、好き勝手に跳ねたりヨタったりしてるからなんや」

と言っていたのは、たぶん、ハナザカリくんの先輩の誰かさん(白雪先輩?)です。もしかするとそれは、初にこのお祭りを企画した人たちが望まないことだったかも知れません。しかし、蓋のズレたところから、あるいは蓋を突き破って、今ではむしろ主役になってしまった。

 ぎちぎちに敷き詰めたビールケースの上に渡された薄いベニヤ板の上にパラタツタツン、ポリリズムの靴音を響かせながらビニール傘の下ひとかたまりになった男女が、よたよたとタクシー乗り場に向う。土曜の深夜あるいは日曜の早すぎる早朝、まばらではあるが、人通りは途切れない。傘を差す意味がないほど微かな小雨が降っている。実際、傘を差している者はほとんどいない。肩幅の狭い男は、お詫びにと言ってシャンパンを二本空けさせた。萌えはクールジャパンの定番やな。店のスタッフたちも一緒に飲んだので、さほど堪えたという感覚はない。だが、それとは別に、男は臭いシングルモルトを五時間に渡って飲み続けたせいで、頃合にふらついている。豪雨もおさまり、ここ一週間は降ったり止んだりの梅雨らしい天気が続いている。濁流にも荒々しい勢いはない。これぐらいの方がワニは活発にエサを漁る。人口問題対策委員の女は、ほんの数時間前、濁流に棲むワニが既に亡き者になっていたことを知らない。

 仕留めたのは、近所に住む老婆だった。塾帰りの曾孫を迎えに行った帰り道、風に流され車道に落ちた傘を拾おうとした時、ワニがその先端部をくわえた。老婆が、くわえられた傘を力ずくで引っこ抜くと、ワニは水面から顔を出し、大きな口を開けて襲いかかって来た。咄嗟に彼女は、今しがた引っこ抜いた傘を、全力でその中に突っ込んだ。尖ってもおらず丸まってもいない中途半端な金属製の先端部が喉に突き刺ささり、ワニは身をよじりながら、腹を見せて流れて行った。


49/


 そして乾杯の時、勢い余ってジョッキの麦酒が少女にかかり、民族衣装はびしょびしょに。

「おい、どーするよ?」

「どーするよ?」

「責任取れよなお前」

「取れよなお前」

 南ドイツの田園風景の中、赤ら顔の男たちが、口々に吹き替えの日本語で叫んでいる。


50/


 うわあ、なんぼなんでもこれじゃクルマは走れんよなあ。男は、車道を流れる濁流を冷静に覗き込みながら言う。ふらついてはいても、泥酔しているわけではないらしい。あっち側の通りで拾いましょか。言い終わるが早いか、方向を変えると見せかけ、女は連れの膝頭の裏側を狙って鋭く脚を振り出す。ソファーの上で屈辱的に掴まれ持ち上げられた脚が凶器となって、男を仰向けのまま濁流の中へ倒れ込ませる。

 これで終った、と思ったその時、落ちた男の手が流木に届く。体勢を整えた男は、寂しそうな笑みを浮かべてこちらを向き、小さく手を振りながら悠々と流れて行く。


「問題は、彼に再生させるだけの価値があるかどうかということですが、それは私が個人的に判断することじやない」

 ビルの脇にある喫煙コーナーで休憩しながら、ボンクラが弁護士たちと話していたのは、自己破産や個人再生手続きについての、ありがちな一般論だった。


「これ、何枚あると思う?」

 気まぐれなサックス吹きが示したのは、(たぶん)A3の紙を二つ折りにした手書きの楽譜でした。一枚に決まってるじゃないか。

「と思おうやろ」

 ハナザカリくんが、譜面のヘリを挟んだ右手の親指と人差し指を上下にずらしたとたん、三枚の薄紙が姿を現しました。

「いちばん上のはリズムと音程が書かれたふつうの楽譜や」

「ほかのはふつうやない?」

「そんな差別的なこと言うたらアカン」

「とゆーことは。やっぱちふつうと違うんや」

「……」

 二枚目の紙には、赤と、青と、その両方がいろんなバランスで交じり合った色で濃く薄く音符が書き込まれている。

「これは感情譜。青は慈愛をもって、赤は怒りを込めて」

「色の薄いとこもある」

「薄い赤は静かな怒りをモチベーションとしつつクールに奏でよ、ぐらいの感じかな」
「まだらのもあるね。五線の外のシミは?」

「あんまり根詰めんと気楽にいこうや、よそごととか考えたりしながら。打ち上げのこととかな」

「こっちの紫のは? 慈愛と怒りの中間で平常心とか」

「そんな話やない」

「じゃあ何」

「ひと口に平常心ても、日頃から温厚な人もおれば怒りっぽい奴もおるやろ」

「だから何やねん」

「信じる音を吹け」

「そんなもん楽譜とちゃうやろ!」

サックス吹きは、なぜかいちばん下の紙について説明するのを渋った。


51/


 二センチ程度のミニチュアの耳がひくひく。


52/


「急ごか。浴衣のおねいさんに突き落とされんうちに」


 本当かなあ。と言った瞬間、呟きは粉々に割れて砕け散り、太陽光を受けた破片がきらめく。さらに攪拌される。遠くで書き割りの空が破け、お天道さまが顔を出す。本当かなあ/かなあ/かなあ/かなあ/なあ/なあ/あぅ/あぅ。どうやら、大変なことになっているのは空間の歪みだけではないらしい。七時をお知らせします/質時/知事/痔を/お知/捺し/らさま/します/します/鱒。グリセリン浣腸天文台の痔報も切り刻まれて痛そうし/ち/ち/ぢ/ぢ/を/を/お/お/し/し/ら/ら/せ/せ/し/し/ま/ま/すす/す/ぅ/ぅ。


「急ごか。浴衣のおねいさんに突き落とされんうちに」


 それは、必要になった時にだけ、必要とする人によって、見出されるのだという。きっと来るであろう未来のある日、役に立つ日のために、地中に埋められた有難い有難い経典ということにして埋めて、適当に掘り出せば、有り難味も増すだろうし、まあ多少内容が乏しいとか文章表現がまずいとか、そのへんもまあ、許されるんじゃないかなあまあ。


 熱気球に乗ったことがありますか?

 世界一周とかそういう大げさな話ではありません。ビーチで子ども向けのアトラクションとして行われているような、地面からほんの数メートルばかり浮き上がる程度の体験です。でも、ゴンドラから見下ろす光景は、それまで知っていたのとはまったく別世界。

「そんな訳ないやろ」

と、セブンスターをくわえたまま茶々を入れるのは、お約束どおりホラ吹きのアルト吹きですが、

「高いとこへ昇りつめたからって、それで展望が開けると思ったら大間違いや。息が続かんようになることはあるけど」

「インプロヴィゼーションの話なら、今はお呼びじゃないです」

「お呼びじゃなくてもメゲんと吹き切ったら何とかなる、けど…」

「けど?」

「音の高低と違って標高はアテにならん」

 ハナザカリくんによると、音の高低は人知を超えるが、標高は人間の心がけ次第でどうにでもなるらしい。

「もそも我々の上がったは、地底人にとっての潜ったかも知れん」

「地底人に聞いたん?」

「知るか。そんなことより近何か噴出してきてないか?」

「石油?」

「じゃなくて」

「……」

「言えんことか?」

「なかったことに…」

「無理。手遅れや。おめでとう!」


 わたしはブドウの木、あなた方はパトロンになりませんか?


「そう、必要な経典は既に書かれている。遠い昔に書かれてるんだから、もう泣かないで。それが本当に必要なら、きっと見つかるから。約束しよう。安心していい」

「だから言うたやろ。ホンマにわかってんのかちゅーて」

「打ち合わせ不充分で埋蔵経典が出てけえへんかったてンな罰当たりな。どうするよ? お釈迦様に申し訳が立たんやないか!」


 そんなわけで彼は今、アストラルシェール何とかに夢中だ。


 次の朝、隣り街で、傘をくわえたワニの屍骸が発見されると、午後には、ワニを仕留めた老婆のインタビュー映像がテレビやネットを通じて流れ、クロコダイルバスターのおばあちゃんは一躍、時の人となった。


「急ごか。浴衣のおねいさ/




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