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八街市南部を歩く 谷津の終点にある集落


上砂(かみいさご)

地形について

印旛沼から佐倉市を通って刻み込まれた谷津地形の終点がこの上砂集落である。集落南部は江戸から東金を結ぶ御成街道が横切り、周囲には佐倉七牧のひとつ、小間子牧だった台地が広がっている。今この集落に特別な何かがあるわけではないものの、地形は興味深かった。

大六天神社

上砂集落の鎮守
鳥居が朽ちている
奥のが社殿
円寿坊跡
塔頭とは寺院に付属する施設の名称で、高僧の墓所だったり引退した高僧が隠居する建物だったりする。本源寺はすぐ北にある砂(いさご)のこと。
境内の隅に古墓が並んでいた

天照皇大神

上砂の東にある高い擁壁に階段が造り付けてある
雑木林の中に古びた祠があった

道祖神

こちらも上砂の東にある
歩道がないので近づきづらい

馬頭神社

集落西側、台地の上にある分譲地に祠が建っている
立地が謎

天満宮

こちらも台地の上にある新しめの神社
左隣は生姜畑、右隣はさつまいもを育てている模様

砂(いさご)

角谷の杓子神

上砂から谷津を伝って北へ歩いたところにある
カーブミラーと小さな像
御成街道で徳川家康が休憩していたとき、女中が落とした柄杓がここへ流れついてそのまま大樹になったという言い伝え。似たような話だと弘法大師が地面に刺した杖が木になったとか、源頼朝が刺した箸が木になったという話は各地に伝わっている。その類型のようなお話。蛇田谷がどこかはわからないが、上砂地区らへんにあるのは間違い無いだろう。
なお、「杓子神」と彫られた石碑を探して付近を探してみたがそれらしいものは見つからなかった
造花やお茶がお供えされていた
基礎があって建てやすいからカーブミラーの根本に像を添えていると思われるが、曲がり角という立地になにか惹かれるものがあるのかも知れない

日枝神社

谷津をさらに北上すると砂の集落へ入る
集落の入り口に神社がある
天正19(1591)年創建なので市内でも古い方の神社
カタクリ群生地だが、この日が2月だったのと植物に詳しくなかったためそれらしきものは見つからなかった
萬延元年
萬延が刻まれるのは珍しいが、それもそのはず安政と文久の間の1860,1861のわずか1年足らずの期間を指している。慣例では翌年改元予定だったとのことで極めて異例の改元だったとのこと。
境内社への階段
小高いところにある浅間神社
カタクリ群生地
おおむね石碑と同じことが書かれている

本源寺

集落のど真ん中にある寺院
ポストもある
土気の本寿寺の末寺。本寿寺は土気駅付近のあすみが丘にある。宇天神前がどこかはわからないが、真言宗から法華宗へ改宗したとあるのは土気城主酒井氏の影響と思われる。本寿寺の近くにあったのだろうか。
天明の力石
本堂

道中

「夢ランド八街」による子どもの標語
分譲地の名前だろうか、上部にはロゴもある
天保13年の道祖神

吉倉

地形について

八街南部に走るもう一つの谷津の終点。上砂、砂の次は本来は谷津を降って大谷流地区へ入りたかったが、ゴルフ場に分断されているため地形が読みにくくなっている。

稲荷神社

八街から御成街道へ合流する道中にある
八街市にしては珍しくこの道には歩道があった
中世に建てられた八街市最古の稲荷神社
稲荷神社という謎に狭いカテゴリだが、市内には明治以降の入植者が勧請した稲荷がほとんどなのでそれらと区別するためと思われる
境内社の名残
勢田方面から伸びる谷津の終点である吉倉
神社の立地は房総に馴染み深い、谷津から丘陵へ上がっていくものだった
境内社の祠
道祖神か?
竹林に囲まれた境内に社殿と古木が佇む
遅くとも江戸時代中期くらいまで遡れそうな本殿
龍と鳳凰が鮮やか
曇天の参道に落ちたサザンカと赤鳥居が映える

吉蔵寺

稲荷神社から台地へ上がると八街方面、谷津を北上すると寺院がある
寺院といっても残っているのは小さなお堂のみ
八街市西部にある小谷流の永福寺末寺として近世に交流された
住職が寺子屋を開設、幕末に寺院が小学校の仮校舎となったものの焼失。校舎が再建された時期もあったそうで、広い敷地にかつてどんな建物が建っていたのかが気になる。

山本松風翁彰徳碑

吉蔵寺からさらに北上すると石碑がある
あたりは耕作放棄地で、勢田を境に現役の谷津田が広がっている
平安後期の武将である源義光を祖とする山本家、その27代に当たる蔵右衛門義典の彰徳碑
吉蔵寺に建てられた住蒼小学校の開設に尽力し、その師弟が石碑を建てた
明治時代に教育のために尽くした郷土の名士の石碑は探せば各地にある

行った日 : 2022/10/22, 2023/02/25

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