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長生村一松 元禄地震と津波の記憶

一松(ひとつまつ)。長生村へ合併する前は一松村で、商店があるあたりはかつての中心地だったとのこと。小字として甲乙丙丁戊がある。


八坂神社

一松の丙のあたりにある田園地帯の神社。

色づいた稲穂。収穫は近い。
日当たりのいい境内
境内脇の出入口が額縁のようだった

一松神社

地名にちなんでか松が植えてある
拝殿。地元の方が座って涼んでいた
獅子と力神の優れた彫刻
地元の方が飲んでいた地下水。冷たくて美味しい。
神事に使う的
「昔はあの石碑があるあたりにスクリーン広げて映画見たりしたんだよ」

第六天・諏訪両神の創建は寛治二年(一〇八八)と伝えられ、天正未期両社は合祀されたといわれる。
建築様式は本殿と拝殿を幣殿でつなぐ権現造りという。
拝殿(千鳥破風)は慶長十九年(一六一四)十一月に再建したが、寛保元年(一七四一)九月、地頭内下総守大願主となり、神官狩野播磨守保信のとき、社殿を大工棟梁一松の長左衛門、屋根職棟梁江戸の市左衛門が造営に当った。
本殿の屋根の棟には千木、堅魚木は古式の姿容をいかし、造営の背景は江戸時代の隆盛を誇りとした一松神社の繁栄がうかがえる。

境内にある看板から

天文三年(一五三四)よりと伝える「お的」は今も正月四日正午より行われる。歩射形式で神の矢早稲中稲晩稲の四本を射てその年の吉凶や豊凶を占う神事である。
お祭に使う物は代々の家で作り持参する。紙は高塚の新右衛門殿。菰は中島の五郎兵衛殿。お備は向原の治郎右衛門殿、北中瀬の小新宅、中島の庄右衛門殿の三人が入で餅揚。的叺竹持参。弓矢は久手 新家が作り神酒肴と持参。的は畑中の氏子中が総出で七右衛門殿で作る。入山津の権兵衛殿と大根の重郎兵衛殿は神酒肴椀折敷莚も持参。
当日は入の内匠殿を筆頭に宮席の面々参集し古式により厳粛に執り行われます。

境内にある看板から

本興寺

元禄地震に伴う津波で亡くなった数百名を供養する石碑がある。

道路を跨ぐ大きな山門
創建は1518年
日蓮聖人生誕800周年記念の新本堂はモダンなつくり
津波供養碑

元禄十六年(一七〇三年)の津波は近世において、九十九里沿岸を襲った最大の津波で一松郷内の人畜の被害は甚大であった。
一松地域には津波供養碑は数多いがこの碑は一松郷初崎村浦名主東条市郎右衛門が一族の水死者の冥福を祈って建立したもので代表的な板状供養碑である。
十八人の法名が刻まれ子供の法名が多い。裏面に津波の状況がされ貴重である。「維 元禄十有六年十一月廿二日夜 当国一松に於て大地震有 尋で大波揚る 鳴呼天乎是時民家流れ 牛馬斃死す死人は幾千萬余りと数を知らず…」

境内にある看板から
元禄大津波の供養碑

元禄地震(元禄十六年十一月二十二日 一七〇三年)「宵より雷強く、夜八ツ時地鳴る事雷の如く」大地震が発生(推定M八・二)それに伴い大津波が襲い、相模から武蔵、安房、上総までを直撃、大きな被害をもたらした。
九十九里沿岸も壊滅的な被害を受け、当時の一松村では津波による死者約七百名(鷲山寺の記録では一松村郷の死者八四五名となっている)全員の戒名を大位碑三枚に刻み本興寺において盛大な法要を営んだ。

境内にある看板から

中心街

魚豊

名前の通り魚屋だったが駄菓子や日用品も売っている
使えるのがこれしかないとのことでマグロ用冷凍庫で冷やしたアイス
-50℃で冷やされたサクレと常温のオロナミンC

旧農協関連施設

一松村があった頃の農協施設。長生村統合に合わせて農協も統合された。

現在は公民館として使われている旧農協事務所
向いにある旧農協倉庫
道路の反対側、魚豊の隣にあるのは旧養鶏場。魚豊が倉庫として使っている。

渡辺自転車商会

いくつか自転車が置いてあるので修理を引き受けているのかも

一松郵便局

レトロな香りがする建物

行った日 : 2024/08/12


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